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結婚適齢期の少年

十七歳になったオーレリアン・エルフレイムは、朝食の席で初めて、自分が結婚適齢期を迎えたことを知った。


正確には、十七歳になれば貴族として婚姻を意識しなければならないという事実くらい、以前から理解していた。十二歳頃には婚約者を決め、十五歳から十八歳までの間に結婚する。それが王国の貴族社会における、ごく一般的な流れである。兄たちの縁談や同年代の令息たちの噂を耳にする機会も少なくなかったため、知識として知らなかったわけではない。


ただし、それが自分にも適用されるとは考えていなかった。


剣を握ることと、誰かの夫になることが、オーレリアンの中ではまるで結びついていなかったのである。


エルフレイム辺境伯家の朝食は、貴族の食卓としては随分と賑やかだった。長大な卓上には焼きたてのパンや卵料理、燻製肉、季節の野菜を煮込んだ温かなスープが並び、開け放たれた窓から入り込む朝の風が白いカーテンを膨らませている。小麦とバターの香ばしさに、苦みの強い茶葉の匂いが重なり、食堂全体を柔らかく包んでいた。


辺境伯アルベルトは卓の上座に座り、朝から大きな肉の塊へ豪快にナイフを入れている。その右隣ではエレノアが夫の皿へ野菜を追加しながら、食べる順番について穏やかに注意をしていた。長兄レオンは届いたばかりの書簡へ目を通し、次兄カイルは片手で茶器を持ちながら、その内容を横から覗き込んでいる。


三兄ガイアスはすでに軍本部へ戻っているため、今朝の席にはいない。


オーレリアンは焼きたてのパンを二つに割り、中へ厚切りの燻製肉を挟んでいた。指先へ染みた肉汁が温かい。隣に置かれた皿には、すでに同じものが二つ消えた痕跡が残っている。午前中は騎士団の訓練へ参加する予定なので、今のうちに腹を満たしておかなければならない。


食事へ集中していた彼の耳へ、母の落ち着いた声が届いた。


「リアンも十七歳になったのね」


オーレリアンは肉を挟んだパンを口元へ運びかけた姿勢で止まった。


誕生日を迎えたのは十日ほど前だ。家族から盛大に祝われ、父からは新しい剣を、兄たちからは軍務に使える装備や書物を贈られている。母からは手縫いの上着をもらった。いまさら年齢を確認することに何の意味があるのか分からず、彼は手の中のパンと母の顔を交互に眺めた。


エレノアは微笑んでいた。

優しい母の笑顔である。


けれど、その青い瞳の奥には、普段とは違う光が宿っていた。獲物を見つけた獣のような鋭さではない。長年待ち望んでいた季節がようやく訪れたことを喜ぶ、期待に満ちた輝きだった。

オーレリアンの背筋を、理由の分からない薄寒さが走る。


「そうですね」


返事をしてから、パンへ齧りついた。

焼けた表面が軽く砕け、燻製肉の塩気と脂が舌の上へ広がる。いつもなら思わず頬が緩む味だが、今日はなぜか飲み込みづらい。母の視線がこちらから外れないせいだった。


エレノアは両手を胸元で組み、感慨深そうに目を細める。


「もう結婚できる年齢なのね」


オーレリアンの咀嚼が止まった。

言葉の意味が頭へ届くまでに、数秒かかった。


その間にも家族の食事は続いている。父は肉を噛み締め、レオンは書簡の一枚を裏返し、カイルは薄く笑いながら茶を口へ運んだ。誰も驚いていない。つまり、この話題が出ることを予想していたのだろう。


知らされていなかったのは、当人だけらしい。


オーレリアンは口の中のものを急いで飲み込み、喉へ詰まりかけた肉を茶で流した。温かな液体が食道を滑り落ちる感触を確かめてから、もう一度母を見る。


「結婚?」


聞き返した声は、自分でも分かるほど間が抜けていた。


「ええ、結婚よ」


エレノアは嬉しそうに頷く。

その直後、上座からアルベルトの大きな手が卓を叩いた。銀器が僅かに跳ね、食堂へ重い音が響く。怒っているわけではない。感情が高ぶると身体の方が先に動く父の、いつもの癖だった。


「そうだ、リアン。嫁を連れてこい!」


朝の静けさを吹き飛ばす声量だった。

窓辺に止まっていた小鳥が驚いて飛び去る。近くに控えていた使用人たちは顔色一つ変えなかったが、若い給仕の肩だけが小さく跳ねた。


オーレリアンは手の中のパンを皿へ戻した。

油断すれば落としそうだったからである。


「急に何を言ってるんですか、父上」


「急ではない。お前は十七だ。俺がお前くらいの頃には、もう母さんしか見えていなかった」


アルベルトは当然のことを語るように胸を張った。


向かいに座るエレノアが、頬へ片手を添える。少しだけ恥ずかしそうに伏せられた睫毛と、柔らかな笑みには、長い結婚生活を経ても褪せない愛情が滲んでいた。


「あなたったら」


夫婦の視線が重なる。

そこで交わされたものは、言葉よりも濃かった。アルベルトの厳つい顔つきが少年のように緩み、エレノアも夫を窘める素振りを見せながら、まんざらでもなさそうに微笑んでいる。


朝食の卓で始まった二人だけの空気に、オーレリアンは静かに目を逸らした。

仲が良いのは知っている。

辺境伯夫妻が互いを深く愛していることは、家族にも使用人にも隠しようがない。領民の間でさえ、二人が若い頃に大恋愛をしたという話は有名だった。家族として誇らしく思っているが、自分の結婚話をきっかけに見せつけられると、どのような表情をすべきか困る。


助けを求めて兄たちへ視線を送った。

レオンは書簡を卓上へ置き、穏やかな笑みを浮かべている。


「父上の言い方は少し乱暴だが、考え始めてもいい頃ではあるな」


頼れる長兄から放たれたのは、助け舟ではなかった。

オーレリアンは目を見開く。


政治や領地経営を担うレオンは、家族の中で最も理性的な男である。感情に流されず、物事の利点と問題点を整理して話すため、父や母が暴走しかけた際には必ず間へ入ってくれる。その兄が肯定するのなら、これは両親だけの思いつきではない。


「俺は四男ですよ。兄上たちが先じゃないんですか?」


咄嗟に口から出た言葉に、レオンの笑みが一瞬だけ固まった。

カイルが茶器の縁から目だけを上げる。


「随分と見事な流れ矢だな」


淡々とした声だった。

皮肉屋の次兄は口元へ薄い弧を描いているが、瞳はまるで笑っていない。三十一歳のカイルもまた未婚である。仕事と研究へ没頭し、持ち込まれる縁談を器用にかわし続けてきた男にとって、弟の指摘は痛いところを突いたらしい。

レオンは咳払いを一つして、先ほどより丁寧な動きで書簡を畳んだ。


「私たちのことはいま関係ない」


「ありますよね?」


「ない」


声は穏やかだったが、これ以上触れるなという強い意志が込められていた。

オーレリアンは口を閉じる。

戦場で敵の間合いを読むことには自信がある。この話題も、これ以上踏み込めば危険だと直感が告げていた。

代わりに父と母へ顔を戻す。


「そもそも、結婚したい相手なんていませんよ」


その言葉を口にした瞬間、食堂の空気が少しだけ変わった。


アルベルトの眉が上がり、エレノアの目が丸くなる。レオンは静かに弟を観察し、カイルは茶器を受け皿へ戻した。硬い陶器同士が触れ合い、澄んだ音が短く響く。


誰もが同じ事実を初めて認識したような反応だった。

オーレリアンには恋愛経験がない。

幼馴染の令嬢や、交流のある貴族の娘は存在する。軍へ入ってからは女性兵士と話す機会もあり、王都へ出れば令嬢たちから声を掛けられることもあった。

人懐っこく裏表のない性格に加え、エルフレイム家特有の整った容姿と将来性を備えているため、本人が気づかないところで好意を寄せられることも少なくない。


しかし、オーレリアンは一度も誰かを恋愛対象として意識したことがなかった。

向けられた好意に鈍く、遠回しな誘いは友情の延長として受け取る。恋文をもらえば真剣に感謝しながらも、なぜ自分へ渡されたのか理解できず、兄へ相談へ行くほどである。


剣を握れば天才。

恋愛に関しては、恐ろしく無知だった。


「好きな娘の一人くらいいるだろう」


アルベルトの声には、純粋な困惑が滲んでいた。

誰かを好きになることが呼吸と同じくらい自然だった男には、十七年間生きてきて一度も恋をしていない息子が理解できないのだろう。


オーレリアンは記憶を探るように視線を上げた。


好きな相手。


共にいて楽しい者なら大勢いる。家族や仲間は好きだ。世話になった人々への感謝も、尊敬する相手への憧れもある。だが、父が母へ向けるような感情を抱く女性は思い浮かばなかった。


胸が高鳴る。


その人に触れたいと思う。


人生を共に歩みたいと願う。


物語や歌に描かれる恋情を、自分が経験しているとは思えない。


「いませんね」


考えた末、正直に答えた。


アルベルトが絶句する。


大きく開かれた口から、しばらく声が出てこなかった。


エレノアは悲しむというより、心配そうに眉尻を下げる。母の細い指が卓上で組み直され、指輪の宝石が朝日を受けて小さく光った。


「気になる方もいないの?」


「特には」


「素敵だと思ったご令嬢は?」


「皆さん、素敵なんじゃないですか?」


心からそう思って答えると、カイルが片手で額を覆った。


レオンは目を閉じ、長い息を吐く。


二人の反応から察するに、何か間違えたらしい。だが、どこが問題なのかオーレリアンには分からなかった。人それぞれに長所があり、それぞれ素晴らしい。特定の一人だけを選ぶ理由がないという意味で答えたつもりである。


アルベルトは椅子の背へ身体を預け、天井を仰いだ。


「俺の息子なのに……」


愕然とした声だった。


「父上の恋愛観を全員へ当てはめないでください」


カイルが冷静に諭す。


そう口にしながら、自分への話題が戻ってこないよう慎重に距離を取っているようにも見えた。


エレノアは夫ほど深刻には受け止めなかったらしい。少し考えるように首を傾けたあと、柔らかな声で続ける。


「では、お見合いをしてみたらどうかしら。最初から恋をしていなくても、会って話すうちに相手を知ることはできるでしょう?」


お見合い。


その言葉が落ちた瞬間、オーレリアンの頭の中へ、見知らぬ令嬢と向き合う光景が浮かんだ。


豪華な応接室。

香りの強い茶。


互いに礼儀正しく笑いながら、趣味や領地の話をする。相手は辺境伯家へ嫁ぐ覚悟を試され、オーレリアンは夫として相応しいか値踏みされる。何を尋ねればいいのか分からないまま沈黙が流れ、仲介者たちが気まずそうに茶器を動かす。


剣を交えるよりも、はるかに恐ろしい。


オーレリアンは椅子の上で僅かに身を引いた。


「俺、そういうのはちょっと……」


「会ってもいないのに決めつけるな」


レオンの声は穏やかだったが、逃がすつもりはないらしい。


「辺境伯家へ縁談を望む家は多い。お前は四男で家督を継ぐ必要がない分、相手の選択肢も広い。軍へ残るにせよ領地を持つにせよ、早めに将来を考えておいて損はないだろう」


正論だった。


反論の隙がない。


オーレリアンは助けを求めるように食卓を見回したが、父は期待を取り戻し、母は早くも候補となる令嬢を考えているようだった。カイルだけは同情的な眼差しを向けているものの、これは自分へ飛び火させないための同情でしかない。


皿の上で、先ほどまで美味しそうだったパンが冷え始めている。


オーレリアンはそれを見下ろしながら、結婚という言葉を頭の中で転がした。


結婚。


夫婦。


家族。


いずれは自分にも必要になるものなのだろう。両親のように誰かを深く愛し、同じ家で暮らす未来を、嫌だと思うわけではない。家へ帰ったときに迎えてくれる人がいて、共に食事を取り、互いの一日を語り合う。そのような生活はきっと温かい。


だが、相手が見えない。


顔も声も知らない誰かと結婚する未来は、霧の向こうへ手を伸ばすように現実感がなかった。


「とりあえず、候補を何人か──」


レオンが話を進めようとしたところで、オーレリアンは勢いよく顔を上げた。


「待ってください」


全員の視線が集まる。


自分から止めたものの、続く言葉はまだ決まっていなかった。ただ、このままでは食事を終える頃には見合いの日程まで定められてしまう。何か理由をつけて時間を稼ぐ必要があった。


「俺にも、考える時間をください」


真剣な顔を作り、家族を順に見渡す。


アルベルトは不満そうに腕を組んだ。エレノアは息子の表情を見つめ、無理に話を進めるべきか迷っている。レオンとカイルは互いに短い視線を交わした。


沈黙の中、開いた窓から風が流れ込む。


カーテンが膨らみ、卓上の紙片を揺らした。庭から花の香りが運ばれ、熱いスープの湯気と混ざる。遠くでは兵士たちの訓練を告げる鐘が鳴り、金属を打ち合わせるような澄んだ音が朝の空気へ広がった。


オーレリアンはその音を聞きながら、無意識に右手を握る。


剣のことなら、迷わない。


敵を前にすれば、身体が最善の動きを選ぶ。どの角度から踏み込み、どこへ刃を通せばいいのか、考えるより先に分かる。


なのに、結婚となると一歩目さえ見つからなかった。


やがてエレノアが小さく頷く。


「そうね。リアンの人生だもの。自分で考える時間は必要ね」


母の言葉に、オーレリアンの肩から力が抜けた。


しかし、安堵したのも束の間だった。


エレノアは微笑みを深くし、逃げ道を塞ぐように続ける。


「けれど、考えるだけでは駄目よ。一月以内に、気になる方がいるかどうかくらいは教えてちょうだい」


一月。


猶予が長いのか短いのか分からない。

オーレリアンは目を瞬かせた。


「見つからなかったら?」


「お見合いね」


迷いのない答えだった。


隣でアルベルトが満足そうに頷き、レオンはすでに候補者の名簿を用意する算段を始めている。カイルは弟の敗北を悟ったらしく、静かに茶を飲んだ。


オーレリアンは椅子の背へ身体を預け、天井を仰ぐ。


白い漆喰に施された植物模様が、朝日を受けて淡く浮かんでいる。見慣れた食堂の天井なのに、今日はやけに遠く感じられた。


気になる女性を、一月以内に見つける。


そのような命令を受けて、人は恋に落ちるものなのだろうか。


そもそも、どのような相手を選べばいい。


明るい人。

優しい人。

剣を理解してくれる人。

辺境の暮らしを嫌がらない人。


条件を並べようとしたものの、どれも紙の上へ書かれた言葉のように薄かった。誰かの顔へ結びつくことはなく、胸の中へ響きもしない。


それなのに。


何の前触れもなく、銀色が脳裏を横切った。


長い髪。

黒と白銀の礼装。

編み上げのブーツが大理石を踏む音。


誰もが見つめる中、背筋を真っ直ぐ伸ばして広間を去った女性。

閉ざされる扉の向こうへ消えた、孤独な背中。


オーレリアンの呼吸が止まった。


一年前の記憶だった。


日々の軍務へ埋もれ、思い出す回数も少なくなっていたはずの光景が、突然、昨日の出来事のような鮮明さで蘇ってくる。


シンクレア・ローゼンタール。


その名前も、忘れていなかった。

婚約を破棄された彼女は、その後どうなったのだろう。


実家へ戻ったという噂を耳にした気はする。だが、詳しく調べたことはない。第二王子の暴挙は王家とローゼンタール公爵家の間で処理され、社交界では一時大きな話題となったものの、次の季節には新しい噂へ塗り替えられていった。


彼女が泣いたのか。

怒ったのか。

いまも剣を振っているのか。


どこで、どのように暮らしているのか。

オーレリアンは何一つ知らない。


知ろうとしなかった自分に、胸の奥が僅かに痛んだ。


一年前、あれほど心配したはずなのに。

名前を忘れないと思ったのに。


扉の前から一歩も動けず、ただ見送ったまま、それきりにしてしまった。


「リアン?」


母の声に呼ばれ、オーレリアンは我へ返った。

家族全員がこちらを見ている。

先ほどまで途方に暮れていた少年の顔に、何かが浮かんだことへ気づいたのだろう。エレノアは興味深そうに目を細め、アルベルトは大きな身体を前へ乗り出した。


「誰か思い当たったのか?」


父の問いに、オーレリアンはすぐ答えられなかった。


思い当たった。


そう言ってよいのだろうか。


彼女と会話をしたことすらない。


遠くから姿を見ただけで、知っているのは名前と家柄、剣を好むらしいということだけ。どんな食べ物が好きなのかも、何をして笑うのかも知らない。今も独身なのかさえ分からなかった。


それでも、結婚という言葉を向けられた瞬間、最初に浮かんだのは彼女だった。


花のような令嬢たちではなく。

幼い頃から知る女性でもなく。


たった一度見ただけの、銀髪の公爵令嬢。


胸の奥へ小さな熱が灯る。

一年前に名前をつけられなかった感情が、消えずに残っていたことを、ようやく知った。


「……一人、います」


オーレリアンはゆっくりと答えた。

自分の声が、いつもより低く聞こえた。

エレノアの表情が明るくなる。アルベルトの金色の目が輝き、レオンは驚きながらも僅かに口元を緩めた。カイルだけは何かを見抜こうとするように、弟の顔をじっと観察している。


「誰だ!」


アルベルトの声が再び食堂を揺らす。


オーレリアンはその勢いに身を引きながら、記憶の中の銀色を見つめた。


「まだ、気になるっていうだけです。相手のことも全然知りません」


「それで十分よ」


エレノアの声は弾んでいた。


長年欲しがっていた娘が、ついに家へ来る可能性を見つけたかのような喜び方である。まだ名前すら告げていないというのに、母の中では縁談が数歩先まで進んでいるらしい。

オーレリアンは苦笑しかけ、しかし途中で表情を引き締めた。


まず知りたい。


彼女が今どこにいて、何をしているのか。

一年前の出来事から立ち直っているのか。


そして──結婚する相手を探しているのか。


最後の考えが浮かんだ瞬間、心臓が一度強く打った。

自分でも驚くほど、はっきりとした鼓動だった。


まだ求婚するとは決めていない。

会ってすらいないのだから、決められるはずがない。

けれど、誰か別の男が彼女の隣へ立つ光景を想像した途端、胸の内側へ落ち着かないものが広がった。

嫌だと断言するほどの権利はない。それでも、確かめずにいることだけは耐えられそうになかった。


「兄上」


オーレリアンはレオンを見る。


「ローゼンタール公爵家について、調べてもいいですか?」


食堂の空気が止まった。

レオンの眉が僅かに上がる。

カイルは茶器を持ち上げかけた手を止め、エレノアは胸元で両手を組んだ。

アルベルトだけが数秒遅れて家名の意味へ辿り着き、口を大きく開く。


「ローゼンタール家……まさか、シンクレア嬢か?」


父も一年前の騒動を覚えていたらしい。

オーレリアンは頷いた。


「はい」


短い返事だった。

しかし、その一音を口にしたことで、気持ちが急速に形を持ち始める。


一度、会って話したい。


彼女がどのような人なのか知りたい。

自分が感じた憧れが、遠くから勝手に作り上げたものなのか確かめたい。

何より、あの夜に一人で去っていった女性が、今は笑えているのか見てみたかった。


レオンはすぐには答えなかった。


政治を預かる者として、家同士の立場や過去の経緯を考えているのだろう。

ローゼンタール家は王家に次ぐほどの名門公爵家。対するエルフレイム家も王国北部を守る辺境伯家であり、身分の上では大きな問題はない。

だが、王子との婚約破棄から一年しか経っておらず、軽率に縁談を持ち込めば相手の傷を抉る可能性もある。


長兄の指先が、畳んだ書簡の端をゆっくり撫でる。

やがて彼は、弟の瞳をまっすぐ見返した。


「調べること自体は構わない。ただし、興味本位で近づくな」


柔らかな声音の奥に、厳しさがあった。


「彼女がどのような一年を過ごしたのか、我々には分からない。王族との婚約を公衆の面前で破棄された以上、社交界へ戻るだけでも相応の覚悟が必要だったはずだ。お前の好奇心で振り回していい相手ではない」


「分かっています」


オーレリアンは迷わず答えた。


理解しているつもりではなく、本当にそう思う。


自分が彼女へ会いたいからといって、その気持ちが相手にとって喜ばしいとは限らない。年下の少年に突然関心を向けられれば、からかわれていると思うかもしれない。王子との婚約で傷ついた直後なら、結婚という話自体を嫌っている可能性もあった。


それでも、軽い気持ちではない。


まだ恋かどうかは分からない。

だが、一年間消えなかった人を、もう一度見過ごすつもりもなかった。


カイルが静かに息を吐いた。


「まずは現状を確認するべきだろうな。婚約の有無、ローゼンタール家の意向、本人の活動。それから接触方法を考える」


言葉を並べる声は淡々としていたが、弟へ協力する意思が含まれている。


オーレリアンは兄へ顔を向け、自然と笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、カイル兄上」


「礼を言うのは早い。調べた結果、すでに縁談がまとまっている可能性もある」


胸へ冷たいものが落ちた。

その可能性を考えていなかったわけではない。しかし、他人の口から明確に告げられると、想像以上に重く響く。


シンクレアは二十二歳になる。


王国の価値観では、すでに行き遅れと呼ばれ始める年齢だ。それでも公爵令嬢という身分と美貌、優れた教養を持つ彼女なら、婚約破棄後にも多くの縁談が寄せられたはずである。

誰かと婚約しているかもしれない。

すでに結婚している可能性さえ、完全には否定できなかった。


オーレリアンの口元から笑みが消える。


胸の内側へ生まれた焦りは、思いのほか鋭かった。戦場で敵の増援を知ったときとも違う。自分の知らないところで手遅れになっているかもしれないという感覚が、呼吸を浅くする。


「今日中に分かりますか?」


身を乗り出して尋ねると、カイルの眉が僅かに上がった。


「随分と急だな」


「気になったら、待てない性格なので」


「知っている」


次兄の口元へ、皮肉を含んだ笑みが浮かぶ。

けれど、それ以上からかいはしなかった。弟の表情から、単なる思いつきではないことを察したのだろう。


カイルは卓上の呼び鈴へ手を伸ばす。


小さく鳴らすと、控えていた執事が音もなく近づいた。次兄は短く指示を与え、王都の屋敷と公爵家に詳しい情報網へ連絡を取るよう命じる。


会話は数十秒にも満たなかった。

それでも、その間にオーレリアンの心臓は何度も強く鳴っていた。


一年前。

彼女が扉の向こうへ消えるのを、ただ見ていることしかできなかった。


今度は、自分から動く。

会えるかどうかも分からない。

会ったところで、話を聞いてもらえる保証もない。


それでも、あの夜から胸に残り続けたものの正体を、確かめなければならなかった。

オーレリアンは冷めかけたパンを手に取る。


先ほどと同じものなのに、味がほとんど分からない。噛むたびに浮かぶのは銀色の髪と、真っ直ぐな背中ばかりだった。


窓の外では、朝の鐘が二度目の音を響かせている。

訓練の開始時刻が近い。


普段なら誰より早く席を立ち、剣を手に庭へ向かうところだ。だが今日ばかりは、椅子から腰を上げる気になれなかった。


返事を待つ数時間が、ひどく長く感じられる。

その感覚に、オーレリアンはまだ名前をつけられない。


ただ一つ、分かっていることがある。


シンクレア・ローゼンタールが誰かの妻になっていないことを、心の底から願っていた。


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