婚約破棄された公爵令嬢(後編)
ガイアスは、弟の視線が銀髪の令嬢へ吸い寄せられたまま戻ってこないことに気づいていたらしい。しかし、すぐに揶揄することも、余計な説明を加えることもしなかった。ただ、手にしていた杯をわずかに傾け、周囲の視線がこちらへ向いていないことを確かめてから、低い声を落とす。
「第二王子殿下の婚約者だ」
その言葉を聞いた途端、オーレリアンの胸に生まれかけていた何かが、薄い膜を被せられたように静まった。
王族の婚約者。
公爵令嬢。
自分とは関わりのない人だ。
もとより声を掛けようと思っていたわけでもない。
名前を知りたいと願ったことさえ、つい先ほどまで自覚していなかった。それなのに、近づいてはならない理由を示されたような感覚だけが妙に鮮明だった。
オーレリアンは気を取り直すように瞬きをし、シンクレアの隣へ立つ青年へ目を向ける。
淡い金髪を整然と撫でつけた、細身の男だった。年齢は二十代半ばほど。王家の血を示す端正な顔立ちをしており、濃紺の礼装には王族にのみ許される金糸の紋章が縫い取られている。人目を引く華やかさを備えているはずなのに、隣に立つシンクレアと比べると、どこか輪郭が曖昧に見えた。
第二王子は、婚約者へ視線を向けていなかった。
近くに集まった貴族へ愛想よく応じ、彼らの言葉に軽い笑みを返している。シンクレアも無理に会話へ入ろうとはせず、半歩後ろで静かに佇んでいた。二人の距離は腕を伸ばせば届くほど近い。それにもかかわらず、間には冬の湖面を思わせる冷たさが横たわっている。
婚約者同士とは、ああいうものなのだろうか。
オーレリアンには分からなかった。
エルフレイム家の両親は、人前でもよく笑い合う。父アルベルトが豪快に話し、母エレノアが呆れながら袖を引く。長い年月を共にしても、互いの存在を当たり前にしすぎることはない。兄たちも、結婚について話すときは政略だけではなく、相手との相性や生活を考えるべきだと口にする。
だが、王族の婚姻となれば事情が異なるのだろう。そこへ情を求める方が、幼いのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったものの、オーレリアンはすぐに違和感を覚えた。
シンクレアは第二王子を見ていた。
じっと見つめるのではない。呼びかけを待つような期待も浮かべていない。ただ、婚約者として隣に立つ以上、相手の動向を見落とすまいと注意を払っている。わずかに傾けられた顔、周囲の会話へ向けられた目線、礼を求められたとき即座に応じられる姿勢。そのすべてが、自分へ課された役目を果たそうとする者のものだった。
対して第二王子は、一度も彼女を顧みない。
それどころか、銀髪の令嬢がすぐそばにいることを煩わしがるように、身体をわずかに反対側へ向けている。
オーレリアンの指先が、無意識に杯の脚をなぞった。
何かがおかしい。
事情を知らぬ者が口を挟むべきではないと分かっていても、胸に引っかかるものが消えてくれなかった。
やがて王族の到着を告げる声が響き、会場の空気が大きく動いた。
国王夫妻が広間へ姿を現す。貴族たちは一斉に会話を止め、波が引くように道を空けた。衣擦れの音が幾重にも重なり、数百人が揃って頭を垂れる。その統一された動きには、軍の整列とは異なる緊張感が宿っていた。
オーレリアンもガイアスに倣って礼を取る。
視線を落とした先には、磨き上げられた大理石の床が広がっている。シャンデリアの光が水面のように揺らぎ、黒い礼装の靴先を淡く照らしていた。楽団の奏でる厳かな旋律が耳を満たし、料理の香りや花の甘さは、先ほどまでよりずっと遠く感じられる。
国王から短い挨拶があり、会食が正式に始まった。
音楽が再開され、給仕たちが人々の間を滑るように行き交う。冷えた果実酒、香草を添えた肉料理、艶やかに焼かれた小さな菓子。辺境では滅多に口へ入らない品々が並んでいるというのに、オーレリアンの食欲は思ったほど刺激されなかった。
紹介と挨拶が続いたためでもある。
ガイアスは弟を連れ、軍関係者や領地を接する貴族たちのもとを順に回った。オーレリアンは教えられたとおりに名乗り、相手の爵位や家名を聞き逃さぬよう意識を集中させる。だが、一人の名を覚えた直後に次の人物が現れ、頭の中で顔と名前が混ざり始めた。
救いだったのは、皆がオーレリアンの軍歴へ関心を示したことだ。
十五歳で入隊し、ガイアスの遊撃隊へ配属された若者。模擬戦で年上の兵を次々に打ち倒したことや、先日の魔物討伐で先陣を切ったことまで、本人の知らぬところで話が広まっているらしい。武勇を褒められるのは嫌ではない。だが、期待に満ちた眼差しを向けられるたび、背中へ余計な重さを乗せられるような気もした。
笑顔を崩さず応じながら、ふと会場の向こう側へ目を遣る。
銀色の髪は、すぐに見つかった。
シンクレアは年配の婦人と話していた。相手が何かを尋ねると、彼女は丁寧に答え、必要なところでは浅く頭を下げる。愛想がよいとは言えないものの、無礼でもない。口元に浮かぶ表情はごく薄く、視線にも媚びるような甘さはなかったが、相手を軽んじている様子など欠片も見えなかった。
その背後では、二人の令嬢が扇の陰で口元を寄せている。
声は聞こえない。それでも、視線の向きと笑い方だけで話題は察せられた。
シンクレアの服装を見ている。
長く広がるスカートではなく、脚の形へ沿う黒いパンツ。華奢な靴ではなく、膝上まで覆う編み上げのブーツ。白銀の長衣は肩や胸元へ硬質な線を描き、腰を包む黒革の装具が剣士の印象を強めている。銀色の髪だけが、全身の鋭さを和らげるように背中へ流れていた。
華美ではない。だが、質素でもなかった。
公爵令嬢にふさわしい上質な布地と緻密な刺繍が用いられ、礼装としての品格は十分に保たれている。単に男性の衣服を身につけているのではなく、彼女自身が動きやすい形へ仕立て直させたものなのだろう。
ドレスが嫌いなのかもしれない。
そう考えたとき、オーレリアンはなぜか少し嬉しくなった。
嫌いなものを嫌いなままにしていられる強さが、あの装いにはある。陰口を浴びながらも誰かへ合わせず、かといって反抗を誇示するでもない。彼女はただ、自分に必要な服を選んでいる。
それが格好よかった。
美しい令嬢なら、この広間にはいくらでもいる。宝石をまとい、花のように笑う者も珍しくない。けれど、目を逸らしたあとまで姿が残るのはシンクレアだけだった。
オーレリアンは、自分でも気づかぬうちに何度も彼女を探している。
そして、そのたびに彼女は一人だった。
婚約者である第二王子は、先ほどから別の令嬢たちに囲まれている。談笑の輪は華やかで、彼の笑い声もときおり響いた。シンクレアの方へ顔を向ける者はなく、彼女も自ら近寄ろうとはしない。
やがて婦人との会話を終えたシンクレアが、広間の端へ移動した。
飲み物の置かれた卓から水の入った杯を一つ取る。ワインではないことに、オーレリアンはすぐ気づいた。口を湿らせる程度に飲み、壁際から会場全体を眺めている。その姿は社交を楽しむ令嬢というより、異変がないか見張る護衛に近い。
あるいは、実際に周囲を警戒しているのかもしれない。
視線の動きが、訓練を受けた者のそれだった。出入口、窓、王族席、人の流れ。ほんの短い間に広間全体を確認し、誰がどこにいるのか把握している。ぼんやり眺めているように見えて、隙がない。
オーレリアンの胸が高鳴った。
剣を扱うという噂は、単なる貴族令嬢の嗜みではないらしい。
一度、手合わせしてみたい。
そんな考えが浮かび、すぐに消す。
第二王子の婚約者へ近づき、剣の勝負を申し込むなど非常識にもほどがある。ガイアスに知られれば、どれほど深いため息をつかれるか分からない。
それでも、彼女がどのような剣を使うのか気になった。鋭く速い剣か。力で押す剣か。冷静な目をしているから、相手の動きを読んで崩す型かもしれない。腰へ武器を佩いていない今でさえ、立ち姿から鍛錬の跡が読み取れる。
足の置き方が安定している。
膝は伸ばし切らず、肩にも力が入っていない。
不意に何かが起きても、即座に動ける姿勢だ。
「おい、聞いているか」
ガイアスの声がすぐ横から落ち、オーレリアンは慌てて顔を戻した。
目の前には、白髪交じりの将軍が立っている。穏やかに微笑んでいるものの、こちらの注意が逸れていたことには気づいているらしい。
「すみません」
素直に頭を下げると、将軍は笑いを含んだ目でシンクレアの方を見た。オーレリアンの視線を追っていたのだろう。
「若者の目を奪うには、少々変わった令嬢ではあるな」
からかいとも非難ともつかない声音だった。
オーレリアンは返答に迷った。
変わっているのは確かだ。だが、その言葉に周囲と同じ侮りが含まれているように感じ、曖昧に笑って流すことができなかった。
「似合っていると思います」
考えるより早く言葉が出ていた。
将軍が目を細める。
ガイアスは何も言わなかった。ただ弟の横顔へ一瞬だけ視線を置き、杯を口元へ運ぶ。叱られなかったことに安心しながらも、オーレリアンは自分の発言を取り消す気にはなれなかった。
あの服はシンクレアに似合っている。
誰が何と言おうと、それだけは確かだった。
将軍はしばらく少年の顔を眺めたあと、低く笑った。
「エルフレイム家らしい答えだ」
その言葉の意味を尋ねる前に、会場の奥で椅子が引かれる音が響いた。
決して大きな音ではない。
だが、直前まで保たれていた談笑の流れを断ち切るには十分だった。
第二王子が立ち上がっている。
彼の周囲にいた令嬢たちが、一歩ずつ後ろへ退いた。王子は杯を卓へ置き、広間の中央へ進む。笑みはすでに消え、薄い唇が硬く結ばれていた。
異変を察した楽団が、演奏を止める。
最後の弦音が高い天井へ昇り、ゆるやかにほどけていった。
残された静寂は重く、冷たい。
遠くの卓へ杯を置く小さな音さえ、妙に鮮明に耳へ届く。給仕たちが壁際へ下がり、貴族たちは何が始まるのかと互いの顔を窺った。王と王妃も第二王子へ視線を向けている。
オーレリアンは、ガイアスの表情が変わったことに気づいた。
先ほどまで弟を見守る兄の顔をしていた男が、軍務の際と同じ鋭さをまとっている。目だけで周囲の動きを追い、何が起きても対応できるよう身体の重心を整えていた。
第二王子は、広間の端へ顔を向ける。
「シンクレア・ローゼンタール」
一斉に視線が動いた。
その名を呼ばれたシンクレアは、すぐには歩き出さなかった。杯を卓へ戻し、指先を離す。銀色の髪が肩から背へ流れ、白銀の長衣が呼吸に合わせてわずかに揺れる。
驚いているようには見えない。
けれど、ほんの一瞬だけ、彼女のまぶたが伏せられた。
その短い間に何を考えたのか、遠くにいるオーレリアンには分からない。次に顔を上げたときには、青灰色の瞳から揺らぎが消えていた。
シンクレアは広間の中央へ向かう。
編み上げのブーツが大理石を踏むたび、乾いた靴音が響いた。ドレスの裾を引く音はない。身軽な装いのため、その歩みは真っ直ぐで速い。人々が左右へ道を開ける中、彼女は誰とも目を合わせず、第二王子の前まで進んだ。
一定の距離を保って立ち止まる。
右手を胸元へ添え、腰を折る。
スカートを摘んで膝を曲げる令嬢の礼ではない。騎士が主君へ捧げるものに近い、簡潔で隙のない礼だった。
「お呼びでしょうか、殿下」
声はよく通った。
低く落ち着き、広間の隅まで澄んで届く。余計な感情は混じっていない。それでも、相手への礼を欠く冷たさもなかった。
第二王子はその姿を見下ろし、眉をわずかに歪めた。
礼の形が気に入らないのかもしれない。
あるいは、彼女が怯えた様子を見せないことに苛立っているのか。
王子の右手が一度強く握られ、すぐに開かれる。呼吸は浅く、頬にはかすかな紅潮が浮かんでいた。冷静さを装っているものの、内側では感情が煮えている。その程度の変化なら、オーレリアンにも読み取れた。
シンクレアは礼を解き、正面から婚約者を見ている。
二人の間に、長い沈黙が流れた。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
窓辺の燭台で炎が揺れ、溶けた蝋が一筋だけ流れ落ちる。香草を利かせた肉料理の匂いと、何人もの貴婦人がまとった甘い香水が混ざり、息苦しいほど濃く感じられた。
オーレリアンは、なぜか自分の掌が冷えていくのを感じた。
まだ何も告げられていない。
それでも、これから起きることがシンクレアにとって良いものではないと、身体の方が先に理解している。
第二王子が息を吸う。
胸がわずかに膨らみ、唇が開いた。
「シンクレア・ローゼンタール。私はこの場をもって、お前との婚約を破棄する」
声は広間へ明瞭に響いた。
その瞬間、時が止まったように思えた。
誰かの手から小さな匙が滑り落ちる。
銀製のそれが皿の縁へ当たり、甲高い音を立てた。持ち主は拾うことさえ忘れ、目を見開いている。別の場所では扇が閉じられ、呼吸を呑む音が重なった。
婚約破棄。
王族と公爵家を結ぶ約束を、公の会食の場で一方的に断ち切る。
その異常さは、貴族社会に詳しくないオーレリアンにも分かった。本来なら両家の間で話し合われ、王の承認を経て、然るべき手順を踏むべき事柄だ。祝宴に近いこの場所で、本人へ突然突きつけるものではない。
オーレリアンは国王夫妻へ目を遣った。
国王の眉間には深い皺が刻まれている。王妃も唇を引き結び、息子を止めようと身を動かしかけていた。しかし第二王子は、制止が入るより先に言葉を続ける。
「理由は分かっているだろう」
シンクレアは答えない。
銀色の睫毛が一度だけ下がり、すぐに持ち上がった。
顔色は変わっていない。
身体の軸も揺らがない。
ただ、右手の指先だけがごく僅かに曲がっている。拳を作るほどではなく、爪が掌へ触れるか触れないかという程度の動きだった。
誰も気づかないほど小さな変化。
けれど、オーレリアンには見えた。
傷ついていないわけではない。
彼女はただ、それを見せまいとしている。
そう悟った瞬間、胸の奥へ鈍い痛みが走った。
「お前は王族の婚約者として、あまりにも不適格だ」
第二王子の声音は次第に強くなる。
周囲の沈黙を、自分への賛同だと思っているのかもしれない。あるいは、ここまで口にした以上、後戻りできないと己を奮い立たせているのか。語尾の一つひとつが鋭くなり、シンクレアへ突き刺さっていく。
「剣術や体術にばかり傾倒し、社交を疎かにする。舞踏会へ出ても愛想を振りまかず、婚約者である私を立てようともしない。何度注意してもドレスを身につけず、そのような騎士まがいの服装で王家の席へ現れる」
視線が、シンクレアの全身を舐めるように下りていく。
白銀の長衣。
黒いパンツ。
編み上げのブーツ。
そのどれも、彼女が自ら選び取ったものだ。
「女らしさも、可愛げもない。お前のような者を妻に迎えれば、私まで社交界の笑いものになる」
ざわめきが生まれた。
同意する声ではない。
驚きと戸惑いが混じった、形にならない空気だった。扇で口元を隠していた令嬢たちでさえ、互いに顔を見合わせている。陰口として囁くことはできても、本人を前に、王子がこれほど露骨な侮辱を並べるとは思っていなかったのだろう。
オーレリアンの奥歯が噛み合った。
何を言っているのだ、この男は。
剣を扱うことの何が悪い。
動きやすい服を選ぶことが、どうして婚約を破棄されるほどの罪になる。
笑わないのなら、笑えない理由があるのではないか。婚約者を立てないと責める前に、自分は彼女へ何をしてきたのか。
次々と湧き上がる疑問は熱を帯び、喉元までせり上がってくる。口を開けば、身分も場所も忘れて王子へ問いかけてしまいそうだった。
そのとき、肘のすぐ近くへガイアスの手が触れた。
掴まれたわけではない。
袖越しに指先がわずかに当たっただけだ。
しかし、その一度で意味は伝わった。
動くな。
今は耐えろ。
ガイアスもまた、第二王子の言葉を快く思っていない。横顔には冷たい緊張が張りつき、金色の瞳は刃のように細められている。それでも王族の私的な問題へ、軍人が勝手に割り込むことはできない。
オーレリアンは息を飲み込み、拳を解いた。
爪が食い込んでいた掌に、じわりと痛みが広がる。
第二王子はさらに何かを言おうとした。
だが、それより先にシンクレアが口を開く。
「殿下のお考えは、承知いたしました」
声は静かだった。
震えていない。
怒りに荒れてもいない。
広間へ張りつめていた空気を切り裂くのではなく、冷たい水を一滴落とすような声音だった。
第二王子が言葉を失う。
おそらく、反論を予想していたのだろう。
泣いて縋るか、怒りを見せるか、少なくとも理由を問うと思っていたに違いない。だが、シンクレアはそのどれも選ばなかった。
彼女は青灰色の瞳をまっすぐ相手へ向ける。
そこには侮蔑も、未練もなかった。
深く傷ついているはずなのに、最後まで己の品位を手放さない。王子が彼女を低い場所へ引きずり下ろそうとしても、同じ高さへ降りて言い争うことをしなかった。
シンクレアは右手を胸へ置く。
先ほどと同じ騎士の礼を取る。
背中から銀髪が流れ落ち、床へ届きそうなほど長く垂れた。腰は深く折られている。それでも屈服には見えない。むしろ、これまで果たしてきた役目へ自ら終止符を打つための、潔い儀式のようだった。
「これまでのご厚情に感謝申し上げます。婚約解消に必要な手続きについては、ローゼンタール公爵家を通してご連絡ください」
その言葉だけを残し、ゆっくりと身を起こす。
第二王子の顔が引きつった。
「それだけか」
シンクレアの睫毛が微かに揺れる。
ほんの一瞬、何かを言おうとしたように見えた。
十一年。
十六歳で婚約してから、五年。
あるいはそれ以前から、王子妃となるための教育を受けてきた時間まで含めれば、彼女が捧げてきたものはさらに長い。剣を好みながらも、公爵令嬢としての教養や礼節を怠ったとは思えなかった。先ほどの立ち居振る舞いだけで、その努力は十分に伝わってくる。
伝えたいことは、いくらでもあるはずだった。
悔しさ。
怒り。
踏みにじられた時間。
それでもシンクレアは唇を結び、すべてを胸の奥へ戻した。
「ほかに、申し上げることはございません」
第二王子を見つめたのは、わずかな間だった。
やがて彼女は踵を返す。
銀髪が大きく弧を描き、白銀の長衣の裾が揺れた。開かれた人垣の間を、来たときと同じ歩幅で進んでいく。
背筋は真っ直ぐだった。
足取りも乱れていない。
誰かへ助けを求めることも、視線を伏せることもなかった。
だが、オーレリアンには分かった。
行きよりも、ほんの少しだけ呼吸が浅い。
右手は身体の脇で固く握られている。
編み上げのブーツが床を踏む音も、一歩だけ強く響いた。
強い人なのではない。
傷ついても、立っていることを選んだ人なのだ。
その違いに気づいた瞬間、胸の内側を強く掴まれた。
周囲の貴族たちは彼女を見送るだけだった。
先ほどまで陰口を囁いていた者も、好奇の視線を向けていた者も、誰一人として声を掛けない。哀れみと興味が混じった目が、たった一人で歩く銀色の背中へ突き刺さっている。
オーレリアンは無意識に一歩踏み出しかけた。
何をするつもりだったのか、自分でも分からない。
声を掛けるのか。
追いかけるのか。
見知らぬ少年が何を言ったところで、彼女の傷を癒やせるはずもない。それでも、あの背中を一人のまま扉の向こうへ行かせてはいけないような気がした。
またガイアスの指が袖へ触れる。
今度は先ほどよりも柔らかかった。
制止ではある。
同時に、弟の衝動を責めていないことも伝わった。
オーレリアンはその場へ留まるしかなかった。
大広間の扉が使用人によって開かれる。
夜の冷たい空気が細く流れ込み、燭台の炎を揺らした。銀色の髪が風を受け、月光を含んだように淡く輝く。
シンクレアは一度も振り返らない。
そのまま扉の向こうへ姿を消した。
重い扉がゆっくり閉じていく。
細くなっていく隙間から、白銀の長衣が最後まで見えていた。やがて完全に閉ざされ、銀色の姿は視界から失われる。
ごうん、と低い音が広間へ響いた。
その音を境に、止まっていた時間が再び動き始める。
人々の囁き。
衣擦れ。
椅子が軋む音。
国王が第二王子を厳しく呼ぶ声。
楽団員たちが戸惑いながら楽器を下ろす気配。
すべてが一度に耳へ戻ってきたが、オーレリアンには遠く感じられた。
視線は閉ざされた扉へ向いたままだった。
胸の奥に、形の分からない感情が残っている。
憧れだけではない。
怒りだけでもない。
心配というには深く、恋と呼ぶにはまだ幼い。
ただ、シンクレア・ローゼンタールという名が、消えない傷跡のように刻まれていた。
「あの人は……」
声が掠れた。
続きが出てこない。
大丈夫なのだろうか。
そう尋ねたところで、ガイアスに答えられるはずもない。そもそも、あれほど堂々と去った人へ向かって、大丈夫かと問うことが正しいのかも分からなかった。
ガイアスはしばらく沈黙していた。
やがて弟と同じ扉へ目を向け、低い声で告げる。
「忘れるな、リアン」
何を、と問い返す前に、兄は言葉を継いだ。
「今、お前が感じたことをだ」
それだけだった。
ガイアスは国王のもとへ集まり始めた軍人たちを見やり、表情を引き締める。第二王子の暴挙によって、会食はすでに続けられる空気ではない。政治的な問題へ発展するのは明らかで、辺境伯家の一員としても状況を見届けなければならなかった。
だが、オーレリアンはすぐに動けなかった。
兄の言葉を胸の中で繰り返す。
──忘れるな。
忘れるつもりなどなかった。
あの銀色の髪も。
男装に似た礼装も。
誰に嘲られても曲げなかった背中も。
侮辱を受けながら、最後まで気高さを失わなかった青灰色の瞳も。
すべて、鮮明に覚えていられると思った。
けれど、一年という時間は長い。
日々の軍務に追われ、剣を振るい、兄の叱責を受け、仲間と笑ううちに、あの夜の出来事は少しずつ過去へ変わっていった。
それでも、完全に消えることはなかった。
ふとした瞬間に、閉ざされた扉を思い出す。
銀色の背中を、一人で見送った夜を思い出す。
そして十七歳を迎え、周囲から結婚という言葉を投げかけられるようになったとき。
オーレリアンの脳裏へ真っ先に浮かんだのは、花のように笑う令嬢でも、親しげに寄り添う幼馴染でもなかった。
一年前、婚約を破棄されながら、誰よりも気高く広間を去った女性。
シンクレア・ローゼンタールだった。
── 一年後。




