婚約破棄された公爵令嬢(前編)
王都へ向かう街道を、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。
初夏の風が窓から流れ込み、若葉を揺らす匂いを運んでくる。馬車の車輪が石畳を踏むたび、小さな振動が足元から身体へ伝わった。
向かいの席では、一人の男が静かに資料へ目を通している。
漆黒の髪。
鋭い金色の瞳。
一切の無駄がない姿勢。
王国軍第一遊撃隊隊長、ガイアス・エルフレイム。
二十八歳という若さでありながら数々の戦功を挙げ、王国でも名の知れた軍人だった。
その向かいで、窓の外をぼんやり眺めている少年がいる。
オーレリアン・エルフレイム。
十六歳。
ガイアスの直属部隊へ所属する、若き軍人だった。
整った顔立ちに、父や兄たちと同じ黒髪と金色の瞳。
しかし雰囲気だけは兄たちとは違う。
人懐っこく、どこか気の抜けた空気を纏っている。
今も頬杖をつきながら窓の外を眺め、王都へ近づく景色を退屈そうに見つめていた。
「まだ着かないんですか」
ぼそりと漏れた声に、ガイアスは資料から目を離さない。
「あと少しだ」
「その『あと少し』を三回聞きました」
「なら四回目も同じ答えになる」
「ですよねぇ……」
素直に肩を落とす。
反論する気力も失せたらしい。
ガイアスはそんな弟を横目で見て、小さく息を吐いた。
軍務なら何時間でも集中力を切らさない。
敵陣へ突っ込めと言えば嬉々として駆け出す。
ところが王都での会食や式典となると、途端に子供のような顔を見せる。
昔から変わらない弟だった。
「そんなに嫌か」
「嫌ですよ」
即答だった。
「戦場なら何時間でも平気ですけど、貴族の会食だけは勘弁してください」
「辺境伯家の四男が何を言う」
「辺境で剣振ってる方が俺には向いてます」
そう言って苦笑する。
本心だった。
豪華な食事も、煌びやかな会場も嫌いではない。
だが、笑顔の裏で腹を探り合うような空気は苦手だった。
何を話せば正解なのか分からない。
誰へ挨拶をすればいいのか覚えきれない。
だったら魔物の群れへ飛び込む方が、ずっと気が楽だ。
ガイアスは資料を閉じる。
「今日の会食は王家主催だ」
「はい」
「王族だけでなく、公爵家や侯爵家も集まる」
「はい」
「余計なことは喋るな」
「俺、そんな失礼な人間じゃないですよ」
「口を開けばな」
「ひどい」
思わず笑う。
ガイアスの表情も僅かに緩んだ。
家族しか知らない、本当に小さな笑みだった。
その時、馬車がゆっくり速度を落とす。
窓の外へ視線を向けると、高くそびえる白亜の城壁が見えた。
王城。
辺境では決して見ることのできない巨大な建造物。
青空へ突き刺さるような尖塔。
風にはためく王国旗。
門の前へ並ぶ豪華な馬車。
次々と降り立つ貴族たち。
「……すご」
思わず声が漏れた。
何度見ても、この景色だけは慣れない。
馬車を降りると、磨き上げられた石畳が陽光を照り返していた。
王城へ続く赤い絨毯。
左右へ整列する近衛騎士。
礼儀正しく頭を下げる使用人たち。
まるで別世界だった。
「行くぞ」
「はい」
ガイアスの半歩後ろを歩く。
軍でも家でも、この位置が一番落ち着く。
城内へ入ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
高い天井には巨大なシャンデリア。
壁一面を彩る絵画。
磨き上げられた大理石の床へ灯りが反射し、歩くだけで靴音が静かに響く。
自然と背筋が伸びる。
辺境の城とは比べ物にならない。
豪華という言葉だけでは足りなかった。
会場へ近づくにつれ、人の声も増えていく。
楽しげな笑い声。
ワイングラスが触れ合う音。
料理の香ばしい匂い。
花の香りと香水が混ざり合い、辺境にはない華やかな空気を作り上げていた。
大広間へ足を踏み入れた瞬間、その光景に思わず息を呑む。
色とりどりの礼装。
煌びやかな宝飾品。
美しく着飾った令嬢たち。
誰もが自然に笑い、優雅に談笑している。
(やっぱり苦手だな)
場違いな気がした。
自分はここへ踊りに来たわけではない。
酒を楽しみに来たわけでもない。
普段なら剣を握り、土と血の匂いがする戦場に立っている。
そんな自分が、この場所へいること自体に違和感を覚えてしまう。
ガイアスは数人の将軍へ挨拶に向かう。
オーレリアンもその後ろについて歩いた。
紹介されるたび頭を下げ、名を名乗る。
礼儀は身についている。
だが、紹介される人数が増えるほど名前が頭から抜けていく。
(もう覚えられない……)
半ば諦めかけた、その時だった。
会場の入口付近が、不自然なほど静かになった。
いや、静かというより。
ざわめきが、一点へ集まった。
何事かと思い、そちらを見る。
そこに立っていた一人の女性を見た瞬間、オーレリアンは言葉を失った。
腰まで届く銀色の長髪。
透き通るように白い肌。
整った顔立ち。
だが、誰もが彼女へ視線を向ける理由は、美貌だけではなかった。
彼女はドレスを着ていない。
色鮮やかなドレスが咲き乱れる広間で、一人だけ異なる装いだった。
漆黒の細身の礼装。
白銀の刺繍が施されたロングジャケット。
身体へ沿うように仕立てられた黒いパンツ。
膝上まである編み上げのロングブーツ。
腰元には細身の飾り帯。
装飾は最小限。
その姿は、社交界へ赴く令嬢というより、一人の騎士を思わせた。
広間のあちこちから、小さな囁きが聞こえてくる。
「またあの格好……」
「殿下の婚約者だというのに」
「少しは女らしくなさればよろしいものを」
「だから可愛げがないと言われるのですわ」
嘲るような笑み。
扇子で口元を隠しながら交わされる陰口。
しかし当の本人は、まるで聞こえていないかのようだった。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、一定の歩幅で歩く。
誰へ媚びることもなく。
誰を睨むこともなく。
ただ静かに、自分の歩む道だけを見据えている。
その姿から目を離せなかった。
(……格好いい)
自然と、そんな言葉が胸へ浮かぶ。
綺麗だからではない。
美しいからでもない。
あれだけの視線を浴びながら、自分を曲げようとしない。
その生き方が、あまりにも格好よく見えた。
「リアン」
隣からガイアスの声が聞こえる。
「ローゼンタール公爵家令嬢、シンクレア・ローゼンタールだ」
「シンクレア……」
その名前を、小さく繰り返した。
不思議と、その響きだけが胸の奥へ残った。




