プロローグ 森で出会った銀色の少女
森は、幼いオーレリアンが知っているよりも、ずっと広かった。
天を覆う枝葉の隙間から、細い陽光が幾筋も差し込んでいる。淡い金色を帯びた光は、苔の生えた地面に落ち、風が吹くたびに形を変えた。つい先ほどまでは明るかったはずなのに、いつの間にか周囲には薄暗い影が満ち始めている。
見上げても、同じような木ばかりが並んでいた。
右を向いても木。
左を向いても木。
振り返った先にも、奥へ奥へと連なる木々しか見えない。
どちらから来たのか分からなくなってから、もう随分と経っているように思えた。
実際には、一刻にも満たない時間だったのかもしれない。
けれど、五歳の子供にとって、見知らぬ場所で過ごす時間は果てしなく長い。踏み出す一歩ごとに足元の土が柔らかく沈み、湿った枯れ葉が靴の裏に張りついた。歩けば歩くほど、帰るべき方向から遠ざかっているような気がしてならない。
オーレリアンは立ち止まり、小さく鼻をすすった。
泣いてはいけない。
そう思えば思うほど、胸の奥がきつく締めつけられる。
辺境伯家の息子なのだから、森くらいで怖がってはいけない。兄たちなら、こんな場所で迷子になったりしないはずだ。父なら木の生え方だけで方角を見抜き、母なら何も言わずとも自分を見つけてくれるような気がする。
けれど、そのどちらも今は近くにいなかった。
兄たちの姿も見えない。
遠くから聞こえていた大人たちの声も、いつしか完全に途絶えていた。
残っているのは、木々のざわめきと、ときおり茂みの奥から響く正体の分からない音だけだ。
ぱきり、と枝が折れた。
オーレリアンの肩が大きく跳ねる。
反射的に振り向いたものの、そこには何もいない。暗い緑の葉が重なり合い、その向こう側を隠している。じっと目を凝らしているうちに、風が一度だけ葉を揺らした。
鳥かもしれない。
小さな獣かもしれない。
そう考えようとしたが、幼い想像はすぐに恐ろしいものへ変わっていく。
森には魔物がいる。
大人たちがそう話しているのを、何度も耳にしたことがあった。
人の腕ほどもある牙を持つ獣。
子供を丸呑みにする大蛇。
暗闇に紛れて獲物へ忍び寄る、赤い目をした何か。
考えれば考えるほど、背中に冷たいものが這い上がった。
オーレリアンは前を向き、再び歩き始めた。立ち止まっている方が怖かった。けれど、足取りは先ほどよりも重い。朝から走り回っていたせいで、両脚はとうに疲れている。
そのうえ、腹まで減っていた。
昼食の時間には戻るつもりだった。
母が持たせてくれた菓子は、森へ入ってすぐに食べてしまった。最後のひとかけらまで惜しまず口へ放り込み、兄たちに見つかる前に一人で食べ切ったことを、今になってひどく後悔している。
せめて半分だけでも残しておけばよかった。
甘い焼き菓子の味を思い出した途端、空腹が一層はっきりとした。
腹の奥が細く痛み、力を入れるたびにきゅうと縮む。喉も乾いている。唾を飲み込んでも、舌の上の渇きは消えなかった。
やがて、木の根に靴先を引っかけた。
身体が前へ傾く。
咄嗟に手をついたが、柔らかな土の上を滑り、膝を強く打った。
息が詰まった。
遅れて痛みが広がる。
膝から始まった熱が、脚全体へ脈打つように伝わっていった。手のひらには細かな砂が入り込み、爪の間まで黒く汚れている。立ち上がろうとしたものの、腕にうまく力が入らなかった。
泣いてはいけない。
頭の中でもう一度繰り返した。
それでも、目の奥に溜まった涙は止められない。
ぽたりと一粒、土の上へ落ちた。
その丸い跡を見た瞬間、それまで必死に堪えていた涙の糸が、ふつりと切れた。オーレリアンは土の上に座り込み、唇を強く噛んだ。声を出せば、森の奥にいる何かに見つかってしまうかもしれない。
だから泣き声だけは漏らさないようにした。
肩を震わせながら、乱れた呼吸を何度も飲み込む。
けれど、涙は次から次へと頬を伝った。
母に会いたい。
父にも会いたい。
兄たちの顔を見たい。
いつもなら鬱陶しいほど頭を撫でてくる大きな手さえ、今は恋しかった。
どれほどそうしていたのか、分からない。
森の色は少しずつ深くなり、差し込む光も弱くなっていた。地面から立ち上る湿気が衣服へ染み込み、冷たさが肌に触れる。身体を丸めているうちに、空腹と疲労で瞼まで重くなってきた。
眠ってはいけない気がした。
だが、立ち上がる力も残っていない。
木の幹へ背中を預け、オーレリアンは膝を抱えた。擦りむいた箇所が布に触れるたび、鋭い痛みが走る。もう泣く気力さえ尽きかけていた。
そのときだった。
どこか近くで、柔らかな音がした。
先ほどの枝が折れる音とは違う。
乾いた葉を、軽い足が踏みしめるような音。
ひとつ。
またひとつ。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
オーレリアンは顔を上げた。
涙で滲んだ視界の先で、茂みがかすかに揺れている。細い枝が左右へ分かれ、その隙間から白い何かが覗いた。
最初に見えたのは、丸みを帯びた鼻先だった。
次に、光を映す大きな瞳。
茂みを押し分けて現れたその獣は、子供の目にはひどく不思議な姿をしていた。ふっくらとした身体を覆う毛は、木漏れ日を吸い込んだ雪のように淡い。四本の足で地面を踏みながら、音もなく近づいてくる。
魔物ではない。
そう思った理由は、分からなかった。
恐ろしい牙が見えなかったからかもしれない。
瞳があまりにも穏やかだったからかもしれない。
獣は数歩離れた場所で足を止めると、首を傾けた。
オーレリアンも同じように首を傾ける。
しばらく、互いに何もせず見つめ合った。
風が二人の間を通り抜ける。
白い毛がふわりと揺れた。獣は鼻を動かし、幼い子供の匂いを確かめているらしい。警戒しているようにも見えたが、逃げる様子はない。
やがて一歩、距離を縮めた。
オーレリアンは身を強張らせたものの、不思議と逃げようとは思わなかった。
さらに一歩。
獣の鼻先が、汚れた手の甲へ触れた。
湿った柔らかな感触が、ほんの一瞬だけ肌を撫でる。
その温かさに、オーレリアンの唇が震えた。
「……お前、誰?」
返事はない。
獣は黒い瞳を瞬かせただけだった。
けれど、その顔には困っている子供を放っておけないというような色が浮かんでいる。少なくとも、オーレリアンにはそう見えた。
獣は踵を返した。
数歩進んだところで振り向く。
ついて来いと言われている気がした。
オーレリアンは木の幹へ手をつき、ゆっくり立ち上がろうとした。膝の痛みに顔が歪む。身体がふらつき、再び座り込みそうになったところへ、白い獣が駆け戻ってきた。
その身体が、倒れかけた脇腹へ寄り添う。
小さな子供を支えるには十分な大きさがあった。
毛並みは見た目よりも温かく、指を沈めるとやわらかな弾力が返ってくる。オーレリアンは無意識にその背へ縋った。
獣は嫌がらなかった。
むしろ、歩幅を幼い足へ合わせるように、ゆっくり進み始める。
一歩ごとに膝は痛んだ。
けれど、一人ではない。
その事実だけで、先ほどまで胸を塞いでいた恐怖が少しずつ薄れていった。
森の匂いも変わっていく。
湿った土と枯れ葉ばかりだった空気の中に、微かな煙の香りが混じり始めた。さらに進むと、焼いた小麦の甘い匂いまで漂ってくる。
腹が大きく鳴った。
静かな森の中では、驚くほどはっきりと聞こえた。
白い獣が振り返る。
オーレリアンは恥ずかしくなり、空腹の訴えを隠すように腹を押さえた。けれど、獣は笑ったように目を細めたあと、歩みを少し速める。
茂みの先から、今度は人の声がした。
「キララ?」
少女の声だった。
高すぎず、幼すぎない。
澄んだ声が木々の間を抜け、まっすぐこちらへ届く。
白い獣──キララは、小さく身体を弾ませた。返事をするように喉を鳴らし、茂みの向こうへ駆けていく。
支えを失ったオーレリアンは、その場でよろめいた。
だが、倒れる前に枝葉が大きく揺れる。
向こう側から、一人の少女が姿を現した。
最初に目へ入ったのは、銀色の髪だった。
薄暗い森の中にありながら、その髪だけは淡い光を纏っている。肩よりも長い髪を後ろで一つに束ね、動きやすそうな衣服を身につけていた。華美な装飾はなく、腰には子供用とは思えない細身の剣が提げられている。
年齢は、オーレリアンよりもずっと上に見えた。
十歳ほどだろうか。
少女は駆け寄ろうとして、すぐに足を止めた。
金色の瞳と、青灰色の瞳が重なる。
互いに相手を知らない。
それでも少女は、オーレリアンの汚れた衣服と赤く腫れた膝、涙の痕が残る頬を見た瞬間、表情を変えた。
驚きはほんの僅かだった。
すぐに眉間へ浅い皺が寄る。怒っているようにも見えたが、その視線が向けられているのはオーレリアンではない。子供を一人にした誰かを責めるような、静かな険しさが宿っている。
少女は腰を低くし、オーレリアンと目線の高さを合わせた。
すぐに触れようとはしなかった。
手を伸ばせば届く距離で止まり、怯えさせないように呼吸を整えている。その動作は年齢に似合わず落ち着いており、森に不慣れな子供へ近づく方法を知っているようだった。
「一人なのか?」
短い問いかけだった。
声は低く、冷静だったが、冷たくはない。
オーレリアンは頷こうとした。
けれど、顔を動かした途端、堪えていたものが再び込み上げる。唇を噛んでも間に合わず、喉の奥からかすれた音が漏れた。
少女の瞳が僅かに揺れる。
彼女はなおも急かさず、オーレリアンが呼吸を落ち着けるまで待った。キララが二人の間へ身体を滑り込ませ、少年の手へ鼻先を押しつける。
その温かさに背中を押されるように、オーレリアンは途切れ途切れに答えた。
「みんなと……はぐれた。帰る道が、分からない」
言葉にしたことで、自分が完全に迷子なのだと認めてしまった。
その事実が恐ろしくなり、視界がまた滲む。
少女はすぐには慰めなかった。
大丈夫だと軽々しく口にすることもなく、泣くなと叱りつけることもしない。ただ、震える少年の肩と、力の入らない脚を注意深く観察していた。
やがて彼女は背負っていた小さな鞄を下ろした。
留め具を外し、中から布に包まれたものを取り出す。布が開かれた瞬間、先ほど森の中で感じた香りが強くなった。
丸いパンだった。
表面は薄い狐色に焼けている。飾り気のない素朴なパンだが、空腹の少年には、この世の何よりも美味しそうに見えた。
視線が吸い寄せられる。
喉が鳴った。
隠そうとしても、目だけはパンを追ってしまう。
少女はそれに気づいたらしい。
笑いはしなかった。
けれど、険しかった眉間が僅かに緩む。
パンを半分に割ると、大きい方をオーレリアンへ差し出した。
「食べろ」
手を伸ばしかけて、オーレリアンは止まった。
知らない相手から物をもらってはいけない。
母に何度も言われている。
けれど、腹は痛いほど減っている。焼けた小麦の匂いが鼻をくすぐり、口の中には唾液が溜まった。迷っている間にも、差し出されたパンの温かさが指先へ伝わってきそうだった。
少女は無理に押しつけなかった。
自分の分を一口ちぎり、先に食べる。
毒など入っていないと示しているのだろう。
噛み締め、飲み込んだあと、もう一度パンを差し出した。
オーレリアンは恐る恐る受け取った。
指先が触れた。
少女の手は、自分よりも少し冷たかった。
「ありがとう」
それだけ言うのに、喉が震えた。
パンへ齧りつく。
表面は僅かに硬く、中はしっとりとしている。噛むほどに小麦の甘みが広がり、乾いていた舌へ馴染んでいった。豪華な食事でも、砂糖をたっぷり使った菓子でもない。
それなのに、これまで食べたどんなものより美味しく感じられた。
急いで飲み込もうとして、喉につかえた。
少女が眉を寄せる。
彼女は水筒を取り出し、蓋を外して差し出した。
オーレリアンは両手で受け取った。冷たい水が口の中を満たし、乾いた喉を流れていく。その感触だけで身体の奥まで生き返るようだった。
水を飲み終えた頃には、震えも随分収まっていた。
少女はオーレリアンの膝へ目を落とした。
赤く擦りむけた皮膚には、細かな土がついている。そのままにすれば痛みが増すだろう。
彼女は水を少量、清潔な布へ含ませた。
「少し痛むぞ」
言葉の直後、濡れた布が傷へ触れた。
鋭い痛みが走る。
オーレリアンは息を呑み、少女の袖を掴んだ。逃げようとした脚を、彼女の片手がやさしく支える。
「動くと余計に痛くなる」
声は平静だった。
手元も揺れない。
けれど、傷へ触れる指には細心の注意が払われている。布の端を使い、皮膚についた土を少しずつ拭い取っていく。痛みが強くなりそうなところでは一度手を止め、オーレリアンの呼吸が整うのを待った。
叱られているようで、守られている。
不思議な感覚だった。
キララは二人のすぐそばへ伏せ、少年の顔をじっと見上げている。傷へ布が触れるたび、励ますように尾が地面を掃いた。
やがて治療が終わり、膝には細長い布が丁寧に巻かれた。
少女は結び目を確かめてから立ち上がる。
「歩けるか?」
オーレリアンも立とうとしたが、足へ力を入れた途端に身体が傾いた。
転ぶ前に、少女の腕が支える。
細身に見えた身体は意外なほどしっかりしていた。オーレリアンの腕を自分の肩へ回し、体重を受け止める。身長差があるため、完全に頼り切る形となった。
恥ずかしかった。
兄たちに見られたら笑われるかもしれない。
それでも、その腕を振り払う気にはなれなかった。
少女の服からは、冷たい風と草の匂いがした。僅かに汗も混じっている。香水や花の甘い香りではない。森の中を歩き、剣を振るう者の匂いだった。
「名前は?」
歩き出してから、少女が尋ねた。
オーレリアンは彼女の肩へしがみつきながら、少しだけ胸を張った。
「オーレリアン。オーレリアン・エルフレイム」
名乗れば、きっと驚かれると思っていた。
辺境伯家の名を知らない者は、この地にはほとんどいない。
けれど少女は足を止めなかった。
特別に驚きもせず、態度を変えもしない。ただ、確かめるように一度だけ少年の名を繰り返す。
「オーレリアンか」
自分の名前が少女の声で呼ばれた。
それだけのことなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
オーレリアンは横顔を見上げた。
銀色の髪が頬へかかっている。少女は片手でそれを耳へかけ、前方の道へ視線を戻した。幼いながらも整った顔立ちは涼しげで、笑っていないと近寄りがたく見える。
けれど、その肩は少年の歩幅に合わせ、ほんの少し低く保たれていた。
「お前は?」
問い返すと、少女は僅かに目を丸くした。
名乗っていなかったことを、今になって思い出したらしい。
「シンクレア・ローゼンタール」
長い名前だった。
五歳のオーレリアンは口の中で何度か転がし、うまく言えずに眉を寄せる。
「シン……クレア?」
少女の足が止まった。
彼女は少年を見下ろす。
怒られるのかと思い、オーレリアンは肩を縮めた。
しかし、シンクレアは少し考えたあと、ほんの僅かに口元を緩めた。
「クレアでいい」
その笑みは、ごく薄かった。
木漏れ日が一瞬だけ彼女の頬へ落ちる。
銀の髪が淡く輝き、青灰色の瞳が柔らかな色へ変わった。
オーレリアンは目を逸らせなかった。
幼い少年には、その感情の名前など分からない。
ただ、森で迷ってから初めて、胸の奥が温かくなった。
「じゃあ、クレア」
呼んでみる。
シンクレアは小さく頷いた。
再び歩き始める。
三人の足音が、森の中へ重なった。
しばらく進むと、遠くから人の声が聞こえ始めた。
オーレリアンを呼んでいる。
父の太い声。
兄たちの声。
枝を掻き分け、必死に捜している大人たちの気配が近づいてくる。
その声を聞いた瞬間、オーレリアンの胸には安堵が広がった。
同時に、なぜか寂しさも込み上げる。
もう帰れる。
それなのに、シンクレアと別れなければならないことが、急に惜しくなった。
彼女は少年の腕を自分の肩から外し、近くの木へ寄りかからせた。すぐ先には人影が見えている。ここまで来れば、一人でも大丈夫だと判断したのだろう。
オーレリアンは離れていく手を見た。
細い指。
僅かに土で汚れた手のひら。
その手がパンをくれた。
傷を洗ってくれた。
帰る道まで連れてきてくれた。
何かを言わなければならないと思った。
ありがとうだけでは足りない気がする。
けれど、五歳の少年は、自分の胸に生まれた感情をうまく言葉にできない。
だから、思いついたままを口にした。
「また会える?」
シンクレアはすぐには答えなかった。
彼女の背後で、キララが耳を動かしている。
風が吹き、銀色の髪が揺れた。
森の奥から差し込んだ夕暮れの光が、三人の足元へ長い影を落とす。
やがてシンクレアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「この森へ来れば、たぶん」
確かな約束ではなかった。
それでも、オーレリアンには十分だった。
顔いっぱいに笑みが広がる。
「じゃあ、また来る。絶対に来るから」
その声へ応えるように、キララが少年の頬へ鼻先を押しつけた。
柔らかな毛が触れる。
オーレリアンはくすぐったそうに目を細め、白い獣の首へ腕を回した。
抱き締めた毛並みは温かい。
離れたくないと思った。
だが、背後から自分を呼ぶ声がますます近づいてくる。
シンクレアはキララの首元へ軽く触れ、帰るよう促した。
二人と一頭の間に、短い沈黙が落ちる。
その静けさの中で、オーレリアンは銀色の少女の姿を目へ焼きつけようとした。髪の色。瞳の色。腰の剣。土のついた靴。少しだけ不器用な笑み。
忘れるはずがないと思った。
こんなにも鮮明なのだから、決して忘れない。
シンクレアは一度だけ振り返った。
「今度は一人で森へ入るな、オーレリアン」
叱るような言葉だった。
けれど声は、春先の風のように穏やかだった。
オーレリアンは何度も頷いた。
返事をするより先に、シンクレアとキララは木々の奥へ歩き始める。
銀色と白。
二つの姿は、薄暗い緑の中でもしばらく見えていた。
やがて茂みの向こうへ消える。
枝葉が閉じれば、そこには最初から誰もいなかったかのような静けさだけが残った。
直後、父の腕がオーレリアンの身体を強く抱き上げた。
大人たちの安堵した声が周囲を満たす。
兄たちが次々に駆け寄り、泣いていたのかとからかいながらも、誰も少年から離れようとはしない。母のもとへ戻れば、きっともっと強く抱き締められるだろう。
その騒がしさの中で、オーレリアンは父の肩越しに森を見つめ続けた。
もう銀色の髪は見えない。
白い獣の姿もなかった。
それでも、手のひらには柔らかな毛並みの感触が残っている。
口の中には、分けてもらったパンのほのかな甘さがあった。
膝へ巻かれた布からは、シンクレアの指先の温度が伝わってくるようだった。
オーレリアンは、そのすべてを忘れないと心に決めた。
また森へ来よう。
また彼女に会おう。
今度は迷子ではなく、自分の足で会いに行くのだ。
そう強く思っていた。
けれど、十二年という歳月は、幼い記憶を少しずつ削っていく。
森の匂いも。
パンの味も。
白い獣の温かさも。
銀色の髪を揺らした少女の顔さえ、やがて淡い夢の向こうへ霞んでいった。
ただ一つ。
名も姿も思い出せなくなったあとまで、胸の奥には残り続けたものがある。
泣いていた自分へ差し出された、小さな手の温もり。
そして──いつか、もう一度会いたいという願いだけだった。




