帰る場所 2
馬車が完全に止まるよりも早く、オーレリアンは苦笑を浮かべながら扉へ手を掛けた。館の前では、待ち切れない様子のエレノアが今にも駆け出しそうになっており、その隣で執事や使用人たちが困ったような笑みを浮かべている。
いつものことなのだろう。誰も止めようとはせず、ただ温かく見守っていた。
「先に降りるよ」
「ええ」
シンクレアが頷くと同時に扉が開く。オーレリアンが石畳へ降り立った瞬間、エレノアは堪えきれなくなったように歩み寄った。
「リアン!」
その声には辺境伯夫人としての威厳も気品もない。ただ、久しぶりに息子を迎えた母親の喜びだけが溢れていた。
「母上、そんなに急がなくても逃げないって」
「逃げる逃げないの問題ではありません」
そう返しながらも、エレノアはオーレリアンの肩へ両手を添え、頭の先から足元まで何度も目を走らせる。頬の色は悪くないか。腕や足に怪我はないか。以前より痩せてはいないか。言葉を交わすより先に、そのすべてを確かめようとしている様子だった。
やがて小さく安堵の息を吐き、ようやく肩の力を抜く。
「……本当に無事でよかったわ」
「だから大丈夫だって手紙にも書いたのに」
「手紙だけで安心できる母親なんていません」
きっぱりと言い切られ、オーレリアンは困ったように笑うしかない。そのやり取りを見ていた使用人たちからも、どこか微笑ましそうな空気が広がっていた。
「お帰りなさい、リアン」
「ただいま、母上」
短い言葉だった。しかし、その一往復だけで十分だった。エレノアは満足そうに頷くと、ゆっくりと視線を馬車へ向ける。
「シンクレアさん。長旅でお疲れでしょう。どうぞこちらへ」
穏やかな声に促され、シンクレアは静かに馬車を降りた。旅装でありながら所作は少しも乱れず、裾を整えて立つ姿には、公爵令嬢として培われた気品が自然と滲んでいる。
初めて訪れる土地、初めて会う婚約者の家族。
それでも背筋を伸ばし、落ち着いた表情を崩さない姿は、ローゼンタール公爵家の令嬢としての矜持そのものだった。
シンクレアはエレノアの前まで進むと、美しく一礼する。
「初めまして。シンクレア・ローゼンタールと申します。このたびは温かくお迎えいただき、ありがとうございます」
澄んだ声が夕暮れの空気へ静かに溶けていく。
エレノアは目の前の娘をしばらく見つめていた。
銀糸のように美しい髪、澄み渡る青い瞳、凛とした立ち姿。王都で耳にした噂はいくつもあったが、そのどれよりも先に感じたのは、礼節を忘れない誠実さだった。
やがて柔らかな笑みを浮かべ、一歩近付く。
「ようこそ、エルフレイムへ。私はエレノア・エルフレイムです」
そう言って、そっとシンクレアの両手を包み込んだ。
「堅苦しい挨拶は後にしましょう。まずは長旅、本当にお疲れさまでした。この家へ来てくださって、とても嬉しいです」
その言葉に偽りはなかった。
未来の辺境伯夫人として品定めをするような視線はどこにもない。ただ、息子が心から望んで連れてきた女性を歓迎したい。
その気持ちだけが、温かな眼差しに宿っていた。
その優しさへ触れた瞬間、シンクレアの胸を締め付けていた緊張が、少しだけほどける。
王都を発ってからずっと心のどこかに残っていた不安は、まだ完全には消えていない。それでも、この館なら、自分は受け入れてもらえるのかもしれない。そんな小さな希望が静かに芽生え始めていた。
その様子を見守っていたオーレリアンは、誰にも気付かれないよう胸を撫で下ろす。
母ならきっと大丈夫だと信じていた。それでも、大切な人と家族が初めて向き合うこの瞬間だけは、平然としていられるほど器用ではなかった。
そんな息子の表情を見たエレノアは、小さく笑みを深める。
「リアン」
「なに?」
「あなたは昔から、心配しなくてもいいことまで心配する子ね」
図星を突かれたオーレリアンは照れくさそうに頭を掻き、シンクレアも思わず口元を緩めた。
館の前に流れていたわずかな緊張は、その笑みとともにほどけていく。夕陽は黒い石造りの館を黄金色に染め、新しい家族を迎える穏やかな時間が、静かに始まろうとしていた。




