表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
39/80

帰る場所 2

馬車が完全に止まるよりも早く、オーレリアンは苦笑を浮かべながら扉へ手を掛けた。館の前では、待ち切れない様子のエレノアが今にも駆け出しそうになっており、その隣で執事や使用人たちが困ったような笑みを浮かべている。

いつものことなのだろう。誰も止めようとはせず、ただ温かく見守っていた。


「先に降りるよ」


「ええ」


シンクレアが頷くと同時に扉が開く。オーレリアンが石畳へ降り立った瞬間、エレノアは堪えきれなくなったように歩み寄った。


「リアン!」


その声には辺境伯夫人としての威厳も気品もない。ただ、久しぶりに息子を迎えた母親の喜びだけが溢れていた。


「母上、そんなに急がなくても逃げないって」


「逃げる逃げないの問題ではありません」


そう返しながらも、エレノアはオーレリアンの肩へ両手を添え、頭の先から足元まで何度も目を走らせる。頬の色は悪くないか。腕や足に怪我はないか。以前より痩せてはいないか。言葉を交わすより先に、そのすべてを確かめようとしている様子だった。

やがて小さく安堵の息を吐き、ようやく肩の力を抜く。


「……本当に無事でよかったわ」


「だから大丈夫だって手紙にも書いたのに」


「手紙だけで安心できる母親なんていません」


きっぱりと言い切られ、オーレリアンは困ったように笑うしかない。そのやり取りを見ていた使用人たちからも、どこか微笑ましそうな空気が広がっていた。


「お帰りなさい、リアン」


「ただいま、母上」


短い言葉だった。しかし、その一往復だけで十分だった。エレノアは満足そうに頷くと、ゆっくりと視線を馬車へ向ける。


「シンクレアさん。長旅でお疲れでしょう。どうぞこちらへ」


穏やかな声に促され、シンクレアは静かに馬車を降りた。旅装でありながら所作は少しも乱れず、裾を整えて立つ姿には、公爵令嬢として培われた気品が自然と滲んでいる。

初めて訪れる土地、初めて会う婚約者の家族。

それでも背筋を伸ばし、落ち着いた表情を崩さない姿は、ローゼンタール公爵家の令嬢としての矜持そのものだった。


シンクレアはエレノアの前まで進むと、美しく一礼する。


「初めまして。シンクレア・ローゼンタールと申します。このたびは温かくお迎えいただき、ありがとうございます」


澄んだ声が夕暮れの空気へ静かに溶けていく。

エレノアは目の前の娘をしばらく見つめていた。

銀糸のように美しい髪、澄み渡る青い瞳、凛とした立ち姿。王都で耳にした噂はいくつもあったが、そのどれよりも先に感じたのは、礼節を忘れない誠実さだった。

やがて柔らかな笑みを浮かべ、一歩近付く。


「ようこそ、エルフレイムへ。私はエレノア・エルフレイムです」


そう言って、そっとシンクレアの両手を包み込んだ。


「堅苦しい挨拶は後にしましょう。まずは長旅、本当にお疲れさまでした。この家へ来てくださって、とても嬉しいです」


その言葉に偽りはなかった。


未来の辺境伯夫人として品定めをするような視線はどこにもない。ただ、息子が心から望んで連れてきた女性を歓迎したい。

その気持ちだけが、温かな眼差しに宿っていた。


その優しさへ触れた瞬間、シンクレアの胸を締め付けていた緊張が、少しだけほどける。


王都を発ってからずっと心のどこかに残っていた不安は、まだ完全には消えていない。それでも、この館なら、自分は受け入れてもらえるのかもしれない。そんな小さな希望が静かに芽生え始めていた。


その様子を見守っていたオーレリアンは、誰にも気付かれないよう胸を撫で下ろす。


母ならきっと大丈夫だと信じていた。それでも、大切な人と家族が初めて向き合うこの瞬間だけは、平然としていられるほど器用ではなかった。

そんな息子の表情を見たエレノアは、小さく笑みを深める。


「リアン」


「なに?」


「あなたは昔から、心配しなくてもいいことまで心配する子ね」


図星を突かれたオーレリアンは照れくさそうに頭を掻き、シンクレアも思わず口元を緩めた。


館の前に流れていたわずかな緊張は、その笑みとともにほどけていく。夕陽は黒い石造りの館を黄金色に染め、新しい家族を迎える穏やかな時間が、静かに始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ