帰る場所
馬車が城門をくぐると、夕暮れの街は穏やかな喧騒に包まれていた。石畳を行き交う荷車の軋む音、鍛冶場から響く槌の音、夕餉の支度を始めた家々から漂う香ばしい匂い。そのすべてが辺境の日常を形作っている。王都のような華やかさはない。だが、厳しい冬を前にした人々の営みには確かな力強さがあり、この土地で生きる者たちの息遣いが街全体へ深く染み込んでいた。
その日常の中へ、エルフレイム家の紋章を掲げた馬車が姿を現す。
最初に気付いた兵士が目を見開き、反射的に声を上げた。
「オーレリアン様がお戻りだ!」
その声は瞬く間に街中へ広がった。
鍛冶屋の主人が金槌を止め、露店の店主が顔を上げ、遊んでいた子どもたちは歓声を上げながら道の端へ集まる。買い物帰りの女性たちは微笑み合い、荷車を押していた男たちは自然と道を空けた。
誰かが指示を出したわけではない。幼い頃から幾度となく繰り返されてきた、辺境では当たり前の光景だった。
オーレリアンは窓を開けると、照れ隠しのように頬を掻いた。
「ただいま」
飾らないその一言だけで、人々の表情は一斉に明るくなる。
「お帰りなさいませ!」
「王都でのお務め、ご苦労さまでした!」
「元気そうで安心しました!」
あちこちから飛んでくる声へ、オーレリアンは一人ひとりの顔を見ながら笑みを返していく。
年配の男性には腰の具合を尋ね、店番をしている少女には父親の様子を聞き、兵士には軽く手を挙げる。その姿は領主の子息というより、この街で育った青年そのものだった。
シンクレアは静かにその光景を眺めていた。
王都でも領民が貴族へ頭を下げる姿は見慣れている。しかし、そこにあったのは爵位へ向けられた礼節だった。ここで人々が向けているものは違う。敬意の中へ親しみが溶け込み、言葉の端々から「帰ってきてくれて嬉しい」という感情が自然と伝わってくる。
それはオーレリアン自身が築いてきたものなのだろう。
辺境軍の兵士として人々を守り、幼い頃から領民と同じ景色を見て育ち、困っている者がいれば身分を問わず手を差し伸べる。そうした積み重ねが、これほどまで温かな信頼へ変わっている。
その時、人垣の隙間から一人の少年が飛び出した。
腰へ木剣を差した、小学校へ上がる前ほどの幼い男の子だった。
「リアン兄ちゃん!」
母親が慌てて追い掛ける。
「待ちなさい!」
それでもオーレリアンは御者へ合図を送り、馬車をゆっくり止めさせた。
少年は息を切らせながら馬車の横まで駆け寄ると、使い込まれた木剣を得意げに掲げる。柄には小さな手の跡が残り、刃には毎日振り続けた傷が幾筋も刻まれていた。
「父ちゃんから一本取れた!」
その一言に、オーレリアンの表情がぱっと明るくなる。
「本当か。頑張ったな」
大きな手が少年の頭を優しく撫でる。
たったそれだけの仕草だった。
だが少年は誇らしそうに胸を張り、父親は照れ笑いを浮かべ、母親もようやく安心したように息をつく。
その光景を見つめるシンクレアの胸へ、じんわりと温かなものが広がっていく。
オーレリアンは誰に対しても変わらない。
子どもだから甘やかすのでもなく、大人だから遠慮するのでもない。
相手を一人の人間として見つめ、その喜びを自分のことのように喜ぶ。
だから人は彼を慕う。
だから、この街は彼の帰りを待っていた。
「……愛されているな」
思わず漏れた言葉に、オーレリアンは少し照れたように笑う。
「皆に世話になって育っただけだよ。俺が何か特別なことをしたわけじゃない」
そう答えながら見つめる先には、幼い頃から見慣れた街並みが続いている。
兄たちと競うように走り回った石畳。
兵士へ憧れて木剣を振った広場。
訓練帰りに立ち寄ったパン屋。
一つひとつが懐かしい記憶を呼び起こし、胸の奥へ静かな安堵を運んでくる。
馬車はゆっくりと街の中心を抜け、高台へ続く坂道を登り始めた。
その先には、黒い石で築かれたエルフレイム辺境伯家の館が堂々と佇んでいる。
館の正門には、すでに何人もの人影が並んでいた。
中央へ立つ一人の女性は、艶やかな黒髪を揺らしながら今にも駆け出しそうなほど身を乗り出している。その後ろでは使用人たちが苦笑しながら何度も声を掛けていたが、女性は少しも落ち着く様子がない。
その姿を見つけた瞬間、オーレリアンは額へ手を当て、小さく息を漏らした。
「……母上だ」
呆れたような声だった。
けれど、その横顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。




