十二年前の森 後編
空き地へ足を踏み入れた瞬間、オーレリアンの呼吸が止まった。
木々が途切れ、柔らかな陽光が円を描くように地面へ降り注いでいる。中央には大きく朽ちた倒木が横たわり、その脇を細い小川が絶え間なく流れていた。水面を撫でる風は冷たく、夏の終わりを告げるような湿り気を帯びている。
苔の匂い、濡れた土の匂い、木漏れ日に温められた木肌の香り。そのどれもが初めて嗅ぐものではない。それなのに胸の奥では、忘れていたはずの何かが静かに目を覚まし始めていた。
景色を見ているだけなのに、視界の輪郭が少しずつ揺らぎ、今いる森と、遥か昔の森とが重なっていく。足元へ落ちる光の形まで、記憶の中と寸分違わぬように思えた。
シンクレアは数歩先で立ち止まり、振り返った。森へ入ってからというもの、オーレリアンの様子はどこか落ち着かなかった。見覚えのないはずの道を何度も見回し、何かを探すように視線を巡らせ、時折、足を止めては耳を澄ませている。
その理由を尋ねようかとも考えたが、口を開くことはなかった。本人にも分からない違和感なのだと、その横顔を見れば理解できたからである。焦らせれば霧散してしまう何かを、彼は必死に掴もうとしていた。
その静寂を破ったのはキララだった。
白い聖獣は迷いなく空き地の中央まで歩くと、倒木の前で静かに腰を下ろした。まるで、そこが自分の居場所であるかのような自然さだった。
風が長い毛並みを揺らし、陽光を受けた白銀の毛が淡く輝く。その姿を見つめた瞬間、オーレリアンの胸の奥で何かが強く脈打った。
白い毛並み。
温かな背中。
幼い自分の身体を支えてくれた柔らかな感触。
視界の端で、五歳の自分が泣き腫らした顔のまま、その背へしがみついている光景が一瞬だけ蘇る。
思わず息を呑んだ。
耳の奥で鼓動だけが大きく響く。
違う。
思い出したのではない。
思い出しかけている。
あと少しで届きそうなのに、霧が邪魔をする。記憶は水面へ浮かび上がっては砕け、手を伸ばせば指の隙間から零れていった。
オーレリアンは無意識のまま一歩前へ進む。
靴裏が湿った土を踏み締める。
その感触と同時に、ふと風向きが変わった。
どこからか、小麦の香りが漂う。
もちろん、この森に焼きたてのパンなどあるはずがない。ただ、温められた木々の香りと草の匂いが重なり合っただけなのだろう。それでも、その一瞬だけ鼻先を掠めた懐かしい香りは、十二年という歳月の底へ沈んでいた記憶を一気に揺り起こした。
空腹だった。
立っていることさえ辛かった。
差し出された丸いパンは、半分に割られていた。
「食べろ」
少女の落ち着いた声。
飾らない一言だった。
それなのに、あの時の自分には、どんな慰めよりも温かく聞こえた。
胸の奥が熱くなる。
次いで、冷たい布が膝へ触れる感覚が蘇った。
擦りむいた傷を洗われ、思わず袖を掴んでしまったこと。痛みに顔を歪める自分を見ても、少女は慌てることなく、呼吸が落ち着くまで静かに待ってくれたこと。その手は少し冷たかったのに、不思議なくらい安心できたことまで、鮮明に思い出されていく。十二年間、一度も思い返せなかった情景が、堰を切った川のように溢れ始めた。
オーレリアンは額へ手を当てた。
眩暈ではない。
痛みでもない。
胸の奥が苦しいほど熱く、喉の奥まで何かが込み上げてくる。忘れていた自分を責めたいような、それでもようやく辿り着けた安堵で泣き出したいような、言葉にならない感情が全身を満たしていた。
シンクレアは黙ってその様子を見つめていた。
不用意に声を掛けることはしない。
ただ、僅かに距離を縮め、彼が倒れても支えられる位置まで歩み寄る。その足音だけが静かな森へ小さく響き、再び沈黙が訪れる。
その沈黙の中で、オーレリアンはゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、銀色の髪がある。
木漏れ日に照らされて淡く光るその髪は、記憶の中よりも長く、美しくなっていた。凛とした眼差しも、腰へ佩いた剣も、幼い頃には見上げるしかなかった少女の面影を、そのまま残している。
少女は成長した。
自分もまた成長した。
けれど、本質だけは何も変わっていなかった。
あの日、自分を助けてくれた優しさも、何も問わず差し伸べられた手も、今、自分の隣へ立つシンクレアそのものだった。
乾いた唇が震える。
ようやく零れ落ちた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「……クレア」
それは今の自分が知っている呼び方ではない。
五歳の少年だけが口にしていた、小さな愛称だった。
その一言だけで十分だった。
シンクレアの青灰色の瞳が大きく見開かれる。
その呼び名を知る者はほとんどいない。家族ですら滅多に使わず、まして初対面だったオーレリアンが知るはずもない。けれど、その呼び方を耳にした瞬間、彼女の中でも止まっていた時間がゆっくりと動き始めた。
泣くのを必死で我慢していた幼い少年。
金色の瞳。
膝へ巻いた包帯。
夢中でパンを頬張る姿。
別れ際、自分の袖を掴む小さな手。
「また会える?」
あの声だけは、不思議と忘れられなかった。
目の前の青年と重なるはずなどないと思い込んでいた。
十二年という歳月は、人の姿をあまりにも大きく変えてしまう。それでも今、その金色の瞳だけは、あの日と何一つ変わらず真っ直ぐ自分を見つめ返していた。
シンクレアの喉が小さく震える。
ようやく唇が開いた。
「……オーレリアン」
それ以上の言葉は続かなかった。
名を呼んだだけで十分だった。
互いに理解してしまったからである。
オーレリアンは静かに頷いた。
胸の奥で何度も反芻した名前。
顔を思い出せなくなっても、もう一度会いたいという願いだけは消えなかった少女。
ずっと探し続けていた初恋。
それは新しく見つけた誰かではなかった。
現在のシンクレアを愛し、求婚し、共に生きたいと願った、その相手と最初から同じ人だった。
その事実は、初恋が叶った喜びよりも、自分が間違っていなかったという安堵をもたらした。
記憶を失っていても、もう一度彼女を好きになっていた。
顔を知らなくても。
名前を忘れていても。
十二年前とは何の関係もない場所で出会い、彼女の生き方へ惹かれ、その強さも不器用な優しさも、すべてを愛おしいと思えた。
だからこそ、胸を締めつけていた最後の迷いが消えていく。
初恋だったから好きなのではない。
今のシンクレアを愛した結果、その相手が初恋の少女でもあった。
その順番だけは、決して入れ替わらない。
森を渡る風が再び木々を揺らす。
その音を聞きながら、キララは満足そうに目を細めた。
十二年前、自ら結んだ小さな縁が、ようやく本来あるべき場所へ帰ってきたことを祝福するように。




