十二年前の森 前編
婚約の報告から数日が過ぎる頃には、オーレリアンの傷は目に見えて回復していた。最初は寝返りを打つだけでも胸元へ痛みが走り、起き上がる際にはシンクレアの手を借りていたが、日を追うごとに顔色は戻り、食事の量も増えていった。
もともと頑健な身体に加え、辺境で幼い頃から鍛えられてきた回復力もあるのだろう。侍医が包帯を取り替えるたび、傷口は驚くほど順調に塞がっていると感嘆し、あと数日は大人しくしているよう言い含めていた。
しかし、元気を取り戻したオーレリアンにとって、寝台の上で過ごす時間は拷問にも等しかったらしい。窓の外から鍛錬場の掛け声が聞こえるたびに落ち着きを失い、剣の代わりに木の棒でも振れないかと侍従へ尋ねては断られ、最後には寝台の上で上半身だけの鍛錬を始めようとして、見舞いに来たシンクレアから冷たい目を向けられた。
「傷が開いたら、今度こそ寝台へ縛りつけるぞ」
静かな声音だったが、冗談ではないことはオーレリアンにも伝わったらしい。
両手を上げて降参を示し、その日は大人しく枕へ背を預けた。けれど、その目はまだ諦めていなかった。シンクレアが部屋を出たあとで再び何か始めるつもりなのだろうと察し、彼女は侍従へ厳重な監視を頼んでから退室した。
婚約者となってからも二人の関係が劇的に変わったわけではない。オーレリアンは以前と変わらず好意を隠さず、シンクレアはその真っ直ぐさへ戸惑いながらも、必要とあれば遠慮なく叱った。
ただ、以前なら彼が無茶をしても呆れるだけだったはずが、今では胸の奥へ微かな苛立ちが生まれる。それが、傷ついた姿を二度と見たくないという恐れから来るものだと気づいてから、シンクレアは以前にも増して彼の行動へ目を配るようになっていた。
その日、侍医は傷口を確かめたあと、ようやく満足そうに頷いた。深く裂けていた箇所は完全に塞がり、痕こそ残るものの、日常生活に支障はないという。激しい鍛錬や戦闘はもう数日控える必要があるが、歩く程度なら問題ない。
待ち望んでいた言葉を聞いたオーレリアンは、寝台から勢いよく立ち上がろうとした。長く横になっていたせいで一瞬だけ身体が揺れ、傍らにいたシンクレアが咄嗟に腕を掴む。オーレリアンはその手へ支えられながら立ち上がると、苦笑いを浮かべて足元を確かめた。
「全快したばかりで転ぶな」
「クレアが支えてくれると思ってた」
「転ぶ前提で立つな」
言葉だけを聞けば以前と変わらないやり取りだった。しかし、シンクレアの手はオーレリアンが自力で立てると分かるまで離れず、オーレリアンもそのことを指摘せずに笑っていた。
侍医は二人の様子を見て微かに口元を緩めたあと、念のため外出は短時間に留めるよう念を押して部屋を出ていった。オーレリアンは窓辺まで歩き、久しぶりに自分の足で見下ろす庭を眺める。
数日間閉じ込められていた間に、木々の葉はわずかに色を深め、吹き抜ける風にも森の匂いが混じるようになっていた。
その時、部屋の隅で丸くなっていたキララが不意に顔を上げた。白い耳を立て、窓の外へ鼻先を向ける。何かを確かめるように二度ほど空気を嗅いだあと、すぐに立ち上がり、オーレリアンの足元へ歩み寄った。
豊かな尾を揺らしながら裾を咥え、軽く引く。その仕草は散歩をねだる時にも似ていたが、普段のような無邪気さとは少し違っていた。
オーレリアンがしゃがんで頭を撫でようとすると、キララは手を避け、もう一度裾を引く。次いで扉の前まで走り、振り返って二人を見つめた。
「どこかへ行きたいのか?」
キララは短く鳴くと、扉へ前脚を掛けた。シンクレアはその様子をしばらく見つめていたが、やがて窓の外へ視線を移した。空はよく晴れ、風も穏やかである。遠出をさせるつもりはないが、屋敷の周囲を歩くだけなら侍医の許可にも反しない。
何より、何かを訴えるようなキララの目が気になった。幼い頃から共に暮らしてきたシンクレアには、キララが理由もなく人を急かすことはないと分かっている。
「行ってみるか」
オーレリアンは待っていましたと言わんばかりに顔を輝かせた。病人用の薄い服から外出着へ替え、腰へ剣を差そうとしたところで、シンクレアに無言で取り上げられる。戦うつもりはないと訴えても、今は重さだけでも傷へ響くと退けられ、結局は短剣一本だけを身につけることになった。
シンクレアは自らの剣を腰へ佩き、屋敷の者へ行き先を告げてから、オーレリアンとキララを伴って外へ出た。
久しぶりに浴びる陽光は眩しく、オーレリアンは玄関前で一度目を細めた。屋敷の中から見ていた景色と、自分の足で立って眺める景色はまるで違う。
風が頬を撫で、土と草の匂いが鼻腔へ届く。それだけで身体の奥まで息を吹き返したように感じられた。キララは二人がついてくることを確かめると、庭を横切り、そのまま屋敷の北側へ続く小道へ入っていった。そこはシンクレアが幼い頃から何度も通った道であり、少し先には広い森がある。
森の入口が見えた時、オーレリアンは足を止めた。理由は分からない。ただ、胸の奥が微かにざわついた。怪我の痛みとは違う。もっと遠く、記憶の底へ沈んでいた何かが、風に触れて揺れたような感覚だった。
目の前に広がる木々は珍しいものではない。辺境で育ったオーレリアンにとって、森は幼い頃から身近な場所だった。
それでも、この森を見つめていると、不思議な懐かしさが込み上げる。木漏れ日の形も、湿った土の匂いも、枝の隙間から聞こえる鳥の声も、初めてではない気がした。
「どうした」
先を歩いていたシンクレアが振り返る。オーレリアンは答えようとしたが、うまく言葉にできなかった。知っている気がする。
それだけではあまりにも曖昧で、自分でも何を感じているのか分からない。傷が治ったばかりで身体が疲れているのかもしれないと考え、首を横へ振った。
「何でもない。少し懐かしい気がしただけ」
シンクレアの眉が僅かに動いた。彼女にとって、この森は特別な場所である。
十二年前、空腹で倒れていた幼い少年と出会ったのも、キララがその少年を連れてきたのも、この森だった。
少年の名前も、どこから来たのかも知らない。ただ、黒い髪と金色の瞳だけは今も覚えている。成長したオーレリアンと初めて会った時、その面影へ気づかなかったわけではない。
けれど、五歳の少年の顔を十二年後の青年と結びつけるには、記憶はあまりにも遠く、確信を得られるものもなかった。何より、あの日の少年がオーレリアンであるはずがないと思い込んでいた。
シンクレアは何も告げず、再び歩き始めた。まだ確かなものではない。曖昧な記憶だけでオーレリアンを惑わせるべきではないと考えたからだった。
キララは二人の間を行き来しながら森の奥へ進んでいく。いつもの散歩道から徐々に外れ、人の足があまり踏み入れない獣道へ入っても迷う様子はない。
枝葉が重なり、陽光は細い筋となって地面へ落ちている。湿った苔が倒木を覆い、遠くで水の流れる音が聞こえていた。
森へ入ってからしばらくすると、オーレリアンの胸を満たしていた懐かしさは、次第に輪郭を帯び始めた。右手に傾いた大樹。根元へ積み重なる白い石。斜面の向こうから聞こえる小川の音。
その一つ一つを目にするたび、頭の奥へ一瞬だけ映像が浮かぶ。小さな手。泥に汚れた靴。空腹で力の入らない身体。白い獣の柔らかな毛並み。けれど、思い出そうとすると像はすぐに崩れ、霧の向こうへ消えてしまう。
オーレリアンは無意識のうちに歩みを遅めていた。額へ薄く汗が滲み、呼吸が浅くなる。傷が痛むわけではない。それでも胸の奥を何かに掴まれたように苦しく、足元の土さえ遠く感じられた。
シンクレアはすぐに異変へ気づき、隣へ並ぶ。顔色を確かめようと覗き込むと、オーレリアンの金色の瞳は周囲の景色を追いながら、今ではない何かを見ていた。
「リアン、無理をするな。戻るか」
その呼び声に、オーレリアンはゆっくりとシンクレアへ顔を向けた。銀色の髪が木漏れ日を受け、風に揺れている。その姿を目にした瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
今のシンクレアよりずっと小さな少女が、同じように銀色の髪を揺らしている。汚れた頬。真っ直ぐな眼差し。差し出された手。幼い声。
その断片が、これまで閉ざされていた扉の隙間から一斉に流れ込んできた。
オーレリアンは息を止めた。
「……銀の、髪」
掠れた呟きが漏れる。シンクレアは目を見開いたが、何も言わなかった。キララは少し先で立ち止まり、二人をじっと見つめている。まるで、ここまで来ればもう大丈夫だと分かっているようだった。
さらに奥へ進むと、木々の間から小さな空き地が現れた。中央には苔むした古い倒木があり、その傍らを細い小川が流れている。十二年前と比べれば草木は増え、倒木も朽ちて形を変えていた。それでも、その場所だけは時の中へ取り残されたように、かつての面影を残していた。
オーレリアンは空き地へ足を踏み入れた途端、膝から力が抜けそうになった。シンクレアが腕を支えるより早く、幼い日の記憶が鮮明な形を取り戻していく。
森で道を失い、空腹と恐怖で泣く力さえなくなったこと。白い獣が現れ、ここまで連れてきたこと。そして倒木の傍らにいた銀髪の少女が、何も尋ねず自分へパンを分け与えてくれたこと。
忘れたことなどなかった。
ただ、記憶の底へ沈み、顔も声も曖昧になっていただけだった。
オーレリアンはゆっくりとシンクレアを見る。目の前にいる女性と、記憶の中の少女が重なっていく。
銀色の髪。冷静でありながら、弱っている者を放っておけない眼差し。ぶっきらぼうに見えて、その実ひどく優しい手。
探し続けていた初恋の少女が、今、自分の隣に立っていた。




