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選び取った未来(後編)

「私はオーレリアンの求婚を受けました」


その言葉が静かな部屋へ落ちたあとも、ローゼンタール公爵はしばらく娘を見つめたまま動かなかった。

窓から差し込む朝の光が銀色の髪を淡く照らし、肩から背へ流れる長い髪の輪郭を浮かび上がらせている。

シンクレアの姿勢はいつもと変わらず真っ直ぐで、その顔にも大きな変化は見えない。それでも父親の目には、昨日までとは明らかに違って映っていた。第二王子との婚約を破棄されて屋敷へ戻った日、シンクレアは涙も怒りも見せなかった。

公衆の面前で誇りを傷つけられたにもかかわらず、誰かを責めることも、自分を哀れむこともなく、翌朝には普段と同じ時刻に起きて剣を握った。毅然とした態度は公爵令嬢として見れば立派だったが、父にとっては、娘が傷ついていないことの証明にはならなかった。

何を尋ねても大丈夫だと答え、気遣いを向ければ必要ないと退ける。その背中を見守りながら、ローゼンタール公爵は手を差し伸べることさえできずにいた。

けれど、今のシンクレアには、あの頃にはなかった静かな安堵が宿っている。誰かに選ばれるのを待つのではなく、自らの意思で一人の男を選び、その未来を家族へ告げる姿には、何の迷いもなかった。


ローゼンタール公爵はゆっくりと娘の前まで歩み寄ると、幼い頃にそうしていたように、その頭へ大きな手を置いた。

剣を学びたいと初めて願い出た日も、鍛錬で手を血まみれにしながら泣かなかった日も、シンクレアは同じように父を見上げていた。

いつからか娘は触れられることを好まなくなり、父もまた一人前の武人となった彼女を子どものように扱うことを避けてきた。それでも今だけは、公爵としてではなく、娘の幸福を願い続けてきた一人の父親として向き合いたかった。


「そうか。よく自分で選んだ」


低く落ち着いた声に、シンクレアは一度だけ瞼を伏せた。婚約を破棄された時でさえ揺らがなかった胸の奥へ、父の言葉が深く染み込んでいく。

オーレリアンの求婚を受け入れることに後悔はなかった。家族が反対したとしても、その意思を変えるつもりもない。それでも、自ら選んだ道を最も身近な人に認めてもらえたことが、思っていた以上に嬉しかった。

頭に触れる手は幼い頃よりも幾分小さく感じられたが、その温もりは何一つ変わっていない。シンクレアは込み上げたものを飲み込み、いつもと変わらない声を保ちながら頭を下げた。


「ありがとうございます、父上」


ローゼンタール公爵が手を離すのを待ってから、公爵夫人が静かに歩み寄った。

目元には薄く涙が滲んでいたが、娘を困らせまいとするように穏やかな笑みを浮かべている。婚約破棄のあと、公爵夫人は何度もシンクレアへ言葉を掛けようとした。けれど、慰めれば傷を認めさせることになり、励ませば早く立ち直るよう急かしてしまう気がして、結局は何も言えなかった。

娘の好物を食卓へ並べ、破れた鍛錬着を黙って繕い、帰りが遅い夜には部屋の灯りを残して待つ。

その程度のことしかできなかった母にとって、シンクレアが自らの意思で新しい未来へ踏み出した事実は、何よりも喜ばしいものだった。

公爵夫人は抱き締める代わりに娘の両手を包み、その指先へそっと力を込めた。


「おめでとう、シンクレア。あなたが選んだ方なら、私たちは喜んで祝福します」


「母上にも心配を掛けました」


「母親は、子どもの心配をするものです。だから謝らなくていいのですよ」


公爵夫人の指先から伝わる温かさに、シンクレアの表情が僅かに緩んだ。それは声を上げて笑うほど明確な変化ではなかったが、父母には十分だった。娘が笑顔を失っていたわけではない。

それでも婚約破棄以降、何かに耐えるような硬さが常に残っていた。その張り詰めたものがようやく消え、今は一人の女性として未来を見つめている。公爵夫人はその顔を目へ焼き付けるように眺めたあと、寝台にいるオーレリアンへ視線を移した。

身体を起こしているとはいえ、包帯の下にはまだ深い傷が残っている。娘を庇って負ったものだと知っているからこそ、感謝と同じだけ心配もあった。だが、オーレリアンの金色の瞳には迷いがなく、シンクレアを見つめる眼差しにも打算の色はなかった。


オーレリアンは寝台の上で姿勢を正そうとしたものの、胸元へ痛みが走ったのか僅かに眉を寄せた。それを見逃さなかったシンクレアが振り返り、無言のまま彼を見据える。起き上がるなと命じるような視線に、オーレリアンはすぐさま動きを止めた。

戦場であれば、多少の怪我を押してでも立ち上がっただろう。しかし、今ここで無理をすれば、婚約を受け入れたばかりの相手からどれほど厳しく叱られるか分からない。何より、その眼差しの奥に自分を案じる色があることが嬉しく、逆らう理由を見つけられなかった。

そんな二人の様子を黙って見ていたアルベルトは、豪快に笑いたくなるのを堪えるように口元を歪めた。命知らずで、兄たちから止められても戦場へ飛び出していく末の息子が、たった一度睨まれただけで大人しくなる。父としては驚くべき光景であり、同時にこれ以上なく安心できる光景でもあった。


アルベルトは寝台の傍らまで歩み寄ると、傷へ響かないよう注意しながらオーレリアンの肩へ手を置いた。幼い頃から自由奔放で、目を離せばすぐに森へ入り込み、剣を持てるようになれば兄たちへ勝負を挑み、十五歳で軍へ入ってからは誰より危険な場所へ向かおうとする息子だった。

そんなオーレリアンが一人の女性へ心を奪われ、彼女の隣を歩くために生き方まで見つめ直そうとしている。アルベルトには、それだけで十分だった。


「よかったな、オーレリアン」


「はい、父上」


返事をしたオーレリアンの顔には、隠しようのない喜びが浮かんでいた。普段なら照れもせずに感情を口へする青年が、今ばかりは何を言えばよいのか分からないように唇を結んでいる。

アルベルトが肩から手を離すと、オーレリアンは一度シンクレアへ目を向けた。その視線に気づいたシンクレアも黙って見返す。

僅かな時間、二人の間には誰も踏み込めない静けさが流れた。オーレリアンは彼女へ向けていた目を父へ戻し、胸元の痛みを避けるようゆっくり息を吸った。


「俺はクレアを幸せにすると言いたいけど、それだけじゃ違う気がします。クレアは、誰かに幸せにしてもらうのを待つ人じゃないから。俺たち二人で幸せになります」


アルベルトはしばらく息子を見つめたあと、満足そうに頷いた。シンクレアも何も言わなかったが、横顔から僅かに力が抜けている。

自分の在り方を理解した上で、それでも共に生きたいと望んでくれる。その事実が、彼女の胸へ静かに根を張っていた。ローゼンタール公爵は二人の姿を見届けると、改めてアルベルトへ向き直った。家格や領地の利害を考えれば、今後は正式な書類を交わし、王家へも届け出なければならない。

しかし、今この場で優先すべきなのは、当主同士の形式ではなかった。互いの子どもが選んだ道を、父親として受け入れることだった。


「アルベルト殿。娘の決断を尊重し、この縁談を正式に進めたいと思います」


「こちらからお願いするべきところです。オーレリアンは剣の腕だけなら頼りになりますが、それ以外はまだまだ未熟です。シンクレア殿には苦労を掛けるでしょう。それでも息子を選んでくださったこと、心から感謝します」


「未熟なのは娘も同じです。夫婦となるなら、互いに足りないものを補えばよい」


二人の父親が交わした言葉に、政略を巡る探り合いはなかった。ローゼンタール家とエルフレイム家という二つの名門が結ばれる以上、周囲が様々な思惑を抱くことは避けられない。

それでも、この婚約の始まりにあるのは家同士の利益ではなく、オーレリアンとシンクレア自身の意思だった。その事実だけは、何があっても守らなければならない。アルベルトとローゼンタール公爵は同時に頷き、言葉にせずとも同じ決意を確かめ合った。


その時、扉の隙間から白い毛並みが現れた。キララは部屋の空気を窺うように顔だけを覗かせたあと、許しを得ることもなく中へ入り、真っ直ぐシンクレアの傍らまで歩いてくる。豊かな尾を大きく揺らし、次いで寝台のオーレリアンを見上げると、満足そうに短く鳴いた。十二年前から二人を覚えているキララにとって、ようやく辿り着いた結果だったのかもしれない。

もっとも、その事実を知らないオーレリアンは、自分たちの婚約を祝ってくれているのだと受け取ったらしく、傷へ障らないよう身を屈めて手を差し出した。

キララがその掌へ鼻先を押し当てると、シンクレアの口元にも小さな笑みが浮かんだ。

朝から張り詰めていた空気が和らぎ、公爵夫人が安堵したように息を吐く。アルベルトは堪えきれずに笑い、ローゼンタール公爵も僅かに目元を緩めた。婚約の報告は、厳かな儀式ではなく、家族たちの穏やかな笑いの中で受け入れられた。


午後になると、オーレリアンは寝台の上へ運ばれた小机に向かい、辺境で待つ家族への手紙を書き始めた。母エレノアと、長兄レオン、次兄カイル、三兄ガイアスへ、一刻も早く婚約を知らせるためだった。剣を握る時には迷いのない手が、羽根ペンを持った途端に何度も止まる。

求婚を受け入れてもらったと率直に書けば、レオンは穏やかに祝福してくれるだろう。

カイルは文章の一語一句を拾い上げ、皮肉を交えながらからかうに違いない。

ガイアスに至っては、王都へ戻った時に軍人としての顔を保ってくれるかどうかさえ怪しかった。

何より、娘が欲しいと常々口にしていたエレノアが、シンクレアとの婚約を知ればどのような反応をするのか想像もつかない。

書いては止まり、書き直しては首を捻るオーレリアンの傍らで、シンクレアは椅子に腰掛け、静かにその様子を眺めていた。


「戦場へ出るより難しそうだな」


「敵なら斬ればいいけど、家族への手紙は何が正解か分からない」


「正直に書けばいいだろう」


「正直に書いたら、クレアのことを十枚くらい書くことになる」


あまりにも真剣な顔で告げられ、シンクレアは返す言葉を失った。冗談ではないことが分かるだけに、なおさら始末が悪い。視線を逸らした彼女の頬へ、窓から差し込む午後の光が触れる。

オーレリアンはその横顔を見て笑い、結局、便箋の最初へ大きく「婚約しました」と書いた。飾り気のない、彼らしい報告だった。シンクレアはそれを咎めず、ただ僅かに口元を緩める。

二人はまだ、十二年前に同じ森で出会っていたことを知らない。オーレリアンが探し続けた初恋の少女と、今こうして隣にいる婚約者が同じ人物だとも気づいていなかった。

それでも過去を知らぬまま選び合った二人の未来は、すでに静かに動き始めていた。


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