選び取った未来(前編)
部屋へ静けさが戻ると、先ほどまで互いの手を重ねていた余韻だけが、朝の光の中へ静かに溶け込んでいた。シンクレアは右手をそっと胸元へ寄せる。もう指は触れ合っていない。
それでも、掌へ残る体温だけは容易に薄れなかった。長年剣を握り続けてきた男の手は、思っていた以上に温かく、思っていた以上に優しかった。その感触を意識してしまう自分がおかしくて、小さく息を吐く。窓の外では庭木の葉が朝風に揺れ、露を弾いた雫が石畳へ落ちる微かな音が聞こえていた。
厨房からは焼き立てのパンの香ばしい匂いが流れ込み、屋敷はいつもと変わらぬ朝を迎えている。だが、この部屋だけは違っていた。昨日まで婚約者ではなかった二人が、今日からは互いの未来を誓い合った者同士として向かい合っている。その事実は、部屋の空気そのものを穏やかに変えてしまうほど大きかった。
寝台へ身体を預けるオーレリアンも、まだ夢から覚め切っていないような顔をしていた。嬉しさを隠そうともしない表情は年相応の青年そのものであり、命を懸けて彼女を庇った戦場での姿とはまるで別人のようである。傷を負ってなお、彼の瞳はまっすぐだった。誓いを交わした今も、その眼差しには少しの曇りもない。
ただ、時折熱を帯びたように細められる瞳を見るたび、シンクレアは胸の奥が落ち着かなくなる。戦場ではどれほど近い距離へ踏み込まれても平然としていられたのに、この男が向ける真っ直ぐな好意だけは受け止めるたびに鼓動を乱された。
やがて廊下から足音が近づいてきた。公爵邸で暮らしてきた年月が長いシンクレアには、それだけで誰が歩いているのか分かる。父の重く落ち着いた歩幅。隣を歩く母の軽やかな靴音。
そして、その後ろにはもう一人。革靴の踵が床を打つ間隔は一定で、武人らしい無駄のない歩き方だった。アルベルトだろう。診察の時間ではない。恐らく侍女から、シンクレアが朝早くオーレリアンの部屋へ入ったことを聞き、様子を見に来たに違いない。
その瞬間、シンクレアの胸へ静かな緊張が走った。先ほどまで二人だけの世界だった空間へ、現実が戻ってくる。婚約とは二人だけの約束では終わらない。
家族へ報告し、正式な許しを得て、多くの人々へ認められて初めて形となる。逃げたいとは思わなかった。むしろ、一刻も早く伝えたいという思いの方が強い。それは、この未来が誰かに決められたものではなく、自分自身が選び取ったものだからだった。
一方、オーレリアンも足音へ気づいたらしい。反射的に寝台から起き上がろうとする。包帯の巻かれた胸へ力が入り、肩が僅かに震えた。
その動きを見たシンクレアは、何も言わず歩み寄ると、彼の肩へ静かに手を置いた。押さえつけるほどの力はない。
ただ、それだけで十分だった。オーレリアンは動きを止め、彼女を見上げる。その瞳には「大丈夫だ」と言いたげな色が浮かんでいたが、シンクレアは小さく首を横へ振る。
「無理をするな、リアン」
その一言だけで、オーレリアンは観念したように苦笑した。傷の痛みを我慢してまで礼を尽くそうとする性格は分かっている。
しかし、それで傷口が開けば意味がない。彼女の眼差しは穏やかだったが、有無を言わせぬ強さも宿していた。戦場で退却を命じる時と同じ目で見つめられては、さすがのオーレリアンも逆らえない。
「分かった」
短く答える声には、残念そうな響きよりも安心したような色が混じっていた。止めてくれる者がいる。そのこと自体が、彼には嬉しかったのだろう。
シンクレアは肩から手を離すと、寝台の乱れた掛布を整え、彼が少しでも楽な姿勢で座れるよう枕の位置を直した。その一つ一つの動作はあまりにも自然で、自分でも驚くほど迷いがなかった。これまで誰かの世話を焼くことなど滅多になかったというのに、目の前の青年が相手になると身体が勝手に動く。
妻になるという実感はまだ薄い。それでも、彼を気遣う行為だけは不思議なくらい自然だった。
間もなく扉が叩かれ、返事を待って静かに開かれる。最初に姿を見せたのはローゼンタール公爵だった。その隣には公爵夫人。そして一歩後ろにはアルベルトが立っている。
三人は部屋へ足を踏み入れるなり、何も言わず二人を見つめた。視線が交差する。部屋へ流れる空気が昨日までとは違うことを、長く人を見てきた大人たちは一瞬で察したらしい。
公爵は娘の表情を見た。婚約破棄の日から今日まで、一度も見せなかった穏やかな眼差しがそこにはあった。肩から余計な力が抜け、どこか晴れやかな空気さえ纏っている。その姿を見た瞬間、父として胸へ込み上げるものがあった。
しかし、それを表情へ出すことはしない。公爵としての威厳を崩さぬまま、静かに娘の言葉を待つ。
公爵夫人は違った。娘の顔を見た瞬間、唇が僅かに震える。母親だからこそ分かる。婚約破棄以来、娘は笑ってもどこか心が遠かった。
その距離が、今は消えている。誰かと共に未来を見つめる者の穏やかな表情へ戻っていた。
アルベルトは息子へ目を向ける。オーレリアンは真っ直ぐ父を見返した。その視線だけで十分だった。父子の間に多くの言葉は要らない。
息子が覚悟を決め、その覚悟を受け入れてもらえたことを、アルベルトは静かに理解する。口元がほんの僅か緩み、それ以上は何も語らなかった。
シンクレアは三人の前へ一歩進み出る。昨日までなら、公爵令嬢として父へ報告しただろう。しかし今は違う。一人の女性として、自ら選んだ人生を家族へ伝えるために立っている。
胸の奥で一度だけ呼吸を整え、真っ直ぐ父と母を見据えた。
「父上、母上。私はオーレリアンの求婚を受けました」
部屋へ静寂が落ちた。ほんの数秒だったはずなのに、その時間はどこまでも長く感じられる。誰もすぐには口を開かない。
ただ、その沈黙は驚きによるものではなかった。娘が自分自身の意思で未来を選び、その答えを自らの言葉で告げたことを、三人とも噛み締めていたのである。




