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呼び名の温度

重ねられた掌は、朝の光の中で静かに温もりを交わしていた。


神へ捧げた誓いではない。

証人もいなければ、祝福の鐘も鳴らない。

それでも二人の間に流れる空気は、どんな婚礼の祭壇よりも厳かで、どんな契約書よりも重い約束を宿していた。


シンクレアは何も言わず、握られた自分の右手を見つめる。


長年、剣だけを握り続けてきた手だった。

柄革との摩擦で固くなった皮膚。訓練や実戦で刻まれた細かな傷。公爵令嬢らしくないと何度も揶揄され、それでも磨こうとは思わなかった証。

その手を、目の前の青年は何の躊躇いもなく包み込んでいる。


嫌悪も憐れみもない。

あるのは、失いたくない宝物へ触れるような慎重さだけだった。


指先から伝わる体温は、まだ少し高い。傷の熱が残っているのだろう。薬草を煎じた独特の青い香りが鼻先をかすめ、窓から流れ込む朝の風が、その匂いを少しずつ薄めていく。白い帳がゆっくりと揺れるたび、差し込む陽光も形を変え、二人の重ねた手へ柔らかな影を落としていた。


世界は何も変わっていない。

部屋も、寝台も、包帯も、昨日と同じ。

それなのに、自分だけが別の場所へ立ってしまったような感覚がある。


婚約者。

ほんの少し前まで、その言葉は遠い未来のものだった。

誰かに決められ、誰かの都合で与えられる立場だと思っていた。


だが今は違う。

自分の口で誓い、自分の意思で選び、自分の足で踏み出した未来だった。


その重みを噛み締めるほど、胸の奥は不思議な静けさに満たされていく。


ふいに、掌へ弱い力が返ってきた。

驚くほど小さな動きだった。


オーレリアンが無意識に指先へ力を込めただけなのだろう。

けれど、その僅かな反応だけで、彼がまだ現実を信じ切れていないことが伝わってくる。


寝台へ視線を上げると、彼は瞬きすら忘れたようにシンクレアを見つめていた。

先ほどまで涙で滲んでいた瞳は、まだ赤みを残している。


嬉しさを堪えようとしているのか、何度も喉が上下し、言葉だけが行き場を失っているようだった。


やがて細く息を吐く。

肺の奥へ溜め込んでいた熱を逃がすように。

その吐息が静かな室内へ溶けても、彼はなお彼女から目を逸らさない。


「……まだ、夢みたいだ」


掠れた声だった。

決して大きくはない。

それでも、その一言には今までの喜びがすべて詰め込まれていた。


シンクレアはすぐに返事をしなかった。

返すべき言葉が見つからなかったのではない。

彼の表情を見ていたかった。


求婚した時よりも、剣を交えた時よりも、今の方がずっと幼く見える。

辺境で育った十七歳の青年が、初めて人生で望んだ未来を手に入れた顔。

その笑顔は眩しすぎて、まともに見続けるには少し照れくさかった。


自然と視線が逸れそうになる。

だが逃げれば負けたような気がして、彼女は静かに見返し続けた。


その沈黙だけで十分だった。

オーレリアンもまた、それ以上の言葉を求めなかった。


互いの呼吸だけが部屋へ響く。

窓の外では鳥が枝から枝へ飛び移り、葉擦れが朝の風へ溶けていく。


遠くで屋敷の使用人たちが動き始めた気配もする。

新しい一日は、すでに始まっていた。

だが、この部屋だけはまだ、誓いを交わした瞬間の余韻へ包まれている。


その静寂を破ったのは、オーレリアンだった。


「……一つだけ、お願いしてもいいか」


言葉を選ぶような間があった。

嬉しさだけではない。


どこか躊躇いも混じっている。

彼がこんな声音を出すのは珍しい。


シンクレアは小さく頷いた。

促されるまま続きを待つ。


オーレリアンは一度だけ口を閉じる。

そして、ほんの少しだけ頬を赤くした。


「俺の家族は、みんな俺を『リアン』って呼ぶんだ」


そう言って照れ臭そうに笑う。

その笑みには、辺境の家で過ごした穏やかな時間が滲んでいた。


母が朝食を運びながら呼ぶ声。

兄たちが訓練場でからかう声。

父が剣を教えながら低く呼ぶ声。


そのどれもが、「オーレリアン」という格式ばった名前ではなく、「リアン」という短く温かな響きだったのだろう。


「……もし」


彼は一度だけ息を飲み込む。


「嫌じゃなかったら」


そこで言葉を切る。

続きを言う勇気を集めるように。


「クレアにも、そう呼んでもらえたら嬉しい」


シンクレアは何も答えなかった。


ただ彼を見つめる。


リアン。


その二文字を頭の中で静かに転がしてみる。


名を縮めて呼ぶ。

それだけのこと。

それなのに、胸の鼓動が先ほどより少しだけ速くなる。


王子を愛称で呼んだことは一度もなかった。

呼ぶことを許される関係ではなかったからだ。

家族以外の男を愛称で呼ぶなど、考えたこともない。


けれど目の前の青年は、もう他人ではない。

今日、自分の婚約者になった男だ。


ならば、この距離を受け入れることもまた、自分が選んだ未来なのだろう。


シンクレアはゆっくりと息を吸った。

緊張していることが、自分でも少し可笑しい。


戦場では魔物の群れを前にしても震えなかったというのに、たった二文字を口にするだけで喉が乾く。


(……まったく)


心の中で苦笑する。

剣ではどうにもならない相手とは、こういうものなのかもしれない。


視線を真っ直ぐ彼へ戻す。

逃げる理由はない。


昨日、自分は命を懸ける覚悟よりも重い決断をした。


ならば今さら、この程度でためらう必要はなかった。


唇がゆっくりと開く。


「……リアン」


声は小さかった。

しかし静かな部屋では、それだけではっきりと届く。


たった二文字。

それだけで、オーレリアンの表情が変わった。


目を大きく見開き、息を呑み、次の瞬間には頬が一気に紅潮していく。

握った手へ、思わず力が入る。

傷口が痛んだのか眉が僅かに寄る。


それでも彼は苦痛より喜びを優先し、嬉しそうに目を細めた。

その反応を見た瞬間、シンクレアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


たった一言で、ここまで嬉しそうに笑う人間がいる。

その事実が、なぜだか自分まで嬉しかった。

オーレリアンは何度か呼吸を整え、それから照れ隠しのように笑う。

その笑みは少しだけ落ち着きを取り戻していたが、瞳の奥に宿る光だけは変わらない。


彼は重ねた手を見下ろし、再び彼女を見上げた。

今度は確かめるように、慈しむように。


「じゃあ、俺も」


短い言葉のあと、彼は迷いなく口を開く。


「……クレア」


その響きは驚くほど自然だった。

まるで何年もそう呼び続けてきたかのように柔らかく、どこまでも優しい。

シンクレアの肩が、ごく僅かに震える。


自分の名なのに、初めて聞く音のようだった。

公爵令嬢でもなく。

婚約者でもない。

ただ一人のシンクレアへ向けられた呼び名。


その響きを胸の奥で静かに受け止めながら、彼女はほんの少しだけ目を細めた。


否定する言葉は、もうどこにも浮かばなかった。


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