武人の誓い 後編
「健やかなる時も、病める時も。喜びの時も、悲しみの時も。これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」
シンクレアは抑えた声で、一節ずつ噛みしめるように読み上げた。昨日血を流していたオーレリアンを見た彼女にとって、それは飾り文句ではなく、いつか訪れるかもしれない現実だった。
オーレリアンは身じろぎもせず彼女を見つめている。包帯の巻かれた胸が浅く上下し、驚きのあまり声を挟めずにいた。窓の外では鳥が鳴き、風が帳を揺らしている。
かつてシンクレアにとって婚姻の誓いは、遠い儀式の言葉でしかなかった。決められた相手の隣に立ち、決められた言葉に頷く。それが公爵令嬢の務めだと思っていた。
だが今、同じ文言を口にしながら浮かぶのはオーレリアンの姿ばかりだった。剣を握って笑う顔、痛みを隠そうとする顔、無鉄砲に飛び込んでくる背中。婚姻とは己を明け渡すことではなく、肩を並べて未知へ踏み込むことなのかもしれない。その未来なら、自分で選べる。
昨夜、夜明けを待ちながら幾度も考えた。彼を受け入れるとは、傷つく可能性ごと引き受けることだ。それでも踏み出したいと思った。
「私は、その誓いを否定するつもりはない」
否定はしない。愛し、敬い、助け合うこと自体は尊い。だが神の名を借りねば保てない誓いを、シンクレアは信じていなかった。誓いとは天への祈りではなく、自分の手で握り、自分の足で貫くものだ。
彼女は顔を上げ、胸の前で拳を握って軽く左胸へ当てた。騎士が忠誠を示す時の所作だった。
「だが、私は神を信じていない。いたとしても、私を加護する神ではないだろう。だから、神へ誓いは立てん」
そこに恨みも嘆きもない。長く剣を握ってきた者の、乾いた確信だけがあった。二人の未来が穏やかなものになるとしても、それは天からの恩寵ではなく、互いが血を流し歯を食いしばって築くものだ。
オーレリアンは何か言おうとして、結局黙ったまま彼女を見ていた。
その無防備な眼差しに、シンクレアの胸へ小さな熱が灯る。守らねばならないからではない。初めて、自分の意志で守りたいと思った。
彼女は寝台へ一歩、また一歩と近づいた。手を伸ばせば届く距離まで来ても、まだ触れない。言葉で越えるべき境界が残っている。
「私は、お前へ誓う」
オーレリアンの瞳が揺れ、息を呑む音が響いた。朝の光が彼の虹彩に金色の輪を浮かべている。これは忠誠でも従属でもない。互いが同じ高さで交わす宣言だった。
彼女は手を下ろし、剣だこの残る掌を握り直した。この手のままでいい。オーレリアンはその手を恥じたことなど一度もなかった。
「武人としての誇りを忘れず、共に剣を握り、互いの背を預ける。喜びも苦難も分かち合い、互いの業を背負い、命尽きるその時まで、お前と共に歩み続ける」
一語ごとに、見えない楔を打ち込むように紡がれた誓いだった。共に剣を握るとは、互いの生き方を奪わないという約束。背を預けるとは、弱さを晒す覚悟。命尽きるまで歩むとは、どれほど無様でも手を放さないという、武人である彼女なりの愛だった。
言い終えたあとの静寂は長く続いた。庭木から落ちる雫の音まで聞こえるほどに。オーレリアンは驚きの重さを受け止めきれず、ただ固まっていた。
その顔を見ているうちに、シンクレアの腹の底へ苛立ちが湧いた。もっとも、それは照れを隠すためのものだと自分でも分かっていた。頬が熱い。それでも視線は逸らさなかった。
「オーレリアン。お前の求婚を受けよう」
名を呼ぶ声が、自然と柔らかくなった。これから何度も呼ぶことになる名だと、彼女は分かっていた。
オーレリアンの目に見る間に熱が集まり、唇が震える。それでも言葉は出てこない。シンクレアはわずかに顎を上げた。跪いて待つよりも、自分から未来を掴みにいく方が性に合っている。
「私がお前の妻になってやる。だから、最後まで私についてこい」
言い切ると、張り詰めていたものが少しほどけた。求婚したのは彼のほうだが、人の心に絶対はないと、シンクレアは身をもって知っている。だからこそ、相手の言葉を待たねばならなかった。
オーレリアンは身を起こそうとして傷に眉を歪めた。シンクレアは手を伸ばしかけ、寸前で止める。ここで支えれば、彼は勢いのまま抱きついてきそうだった。
起き上がることを諦めた彼は、寝台から真っ直ぐ彼女を見上げた。目に涙を滲ませながらも隠そうとしない。嬉しい時には嬉しいと晒す、その姿にシンクレアは改めて惹かれた理由を知った。
「もちろんだ。命の尽きるその時まで、必ずあなたの隣を歩く。俺も、この命と剣に懸けて誓う」
震える声だったが、言葉は明瞭だった。幸せにするという甘い約束ではなく、隣を歩くという返事が、彼女には何より嬉しかった。
その言葉を聞いた瞬間、身体の奥の糸が切れたように力が抜けた。朝の空気も光も鳥の声も、急に鮮やかに感じられる。
シンクレアは差し出すつもりのなかった手をゆっくりと持ち上げた。オーレリアンがその手を握る。傷のために慎重ではあったが、力は強かった。剣だこだらけの手同士が重なり、指が絡む。整った指輪よりも、この温もりの方が確かな契約に思えた。
もう言葉はいらなかった。オーレリアンは泣きそうな顔で笑い、シンクレアも抑えきれず小さく笑みを浮かべる。婚約を破棄されたあの日、未来は他者の言葉一つで失われたと思っていた。だが今、自分の意志で新しい未来を選び取った。
朝の光が、重ねられた二人の手を照らしていた。神の前の誓いでも、鐘の音も花も証人もない。それでもシンクレアには、これまで耳にしたどの婚姻の言葉よりも、揺るぎないものに思えた。




