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武人の誓い 前編

夜は長かった。


自室へ戻ったあとも、シンクレアは一度として深く眠ることができなかった。


燭台の火を消した部屋は静まり返り、窓の外では風が木々を揺らす音だけが絶え間なく続いている。その単調な音に耳を澄ませば澄ますほど、昼間に交わした言葉が胸の奥で何度も反芻された。


──だったら、俺の隣で剣を振るえばいい。


あまりにも簡単に。

まるで当然のことのように。

あの少年はそう言って笑った。


寝返りを打つ。

天井へ視線を向けても、暗闇しか映らない。

それでも瞼を閉じれば、昨日の森が蘇る。


魔物の咆哮。

剣と牙がぶつかる音。

背中越しに感じたオーレリアンの気配。

そして、自分の死角へ飛び込んだ魔物を、彼が迷いなく斬り伏せた一瞬。


互いに声を掛ける暇などなかった。

それでも不思議と恐怖はなかった。


背後には彼がいる。

その確信だけで剣を振るえた。


(……あれほど自然に背中を預けたのは、初めてだったな)


公爵家の騎士たちと鍛錬を積んだことはある。

王国軍とも合同演習をした。

だが、誰一人としてあれほど息が合う者はいなかった。


彼が前へ出れば、自分は横へ回る。

自分が踏み込めば、彼は死角を埋める。

互いに何も言わず、それでも剣だけは迷わなかった。


あれは技術だけではない。

信頼だ。


その結論へ辿り着いた瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。

ゆっくり息を吐き、寝台から身を起こす。


窓辺へ歩み寄り、夜空を見上げた。

雲一つない空には無数の星が瞬いている。


王都より空気が澄んでいるせいか、一つ一つが近い。

辺境の夜空も、きっとこんな風なのだろう。


結婚すれば、あの地で暮らす。

冬は厳しく。

魔物は王都より多い。

辺境軍は一年中休む暇もなく剣を振るう。


そしてオーレリアンも。

今日のように笑いながら屋敷を出て。

命懸けの任務へ向かう。


その姿を見送る未来を思い浮かべた途端、胸の奥が重く沈んだ。


怖い。


それは認めるしかなかった。

今まで幾度も戦場へ立った。

死を恐れたことはない。

だが、自分ではない誰かの死を、これほど恐れたことはなかった。


窓硝子へ映る自分を見る。


婚約破棄されたあの日と比べれば、表情は随分変わった。

あの日の自分は何もかも失ったと思っていた。


王太子妃という立場。

未来。

信頼。


そして、女としての価値まで否定されたような気がしていた。


剣しかない女。

女らしくない女。


そんな言葉を何度浴びせられただろう。

だから結婚とは、自分を削るものなのだと思っていた。


剣を置き。

鎧を脱ぎ。


誰かの理想の妻になる。

それが貴族の婚姻だと。

そう思い込んでいた。


だが。

オーレリアンは違った。


剣を捨てろとは言わない。

屋敷で待てとも言わない。

女だから。

妻だから。

そんな言葉を一度も口にしなかった。


あの少年が見ていたのは、肩書きでも性別でもない。

シンクレアという、一人の剣士だった。


(……ずるい男だ)


自然と口元が緩む。


思い返せば、最初からそうだった。

婚約破棄された女に求婚し。

身分も年齢も気にせず。

剣を交えれば目を輝かせ。

褒められれば子どものように喜ぶ。


あまりにも真っ直ぐで。

あまりにも裏表がない。

だからこそ。


気付けば、自分も笑っていた。

婚約破棄されて以来、一度も浮かべられなかった笑顔を。

あの少年は何度も引き出した。


(……私は)


窓へ手を添える。

硝子は冷たい。

その冷たさが、熱を帯び始めた思考を静かに鎮めていく。


愛している。

そこまで言えるほど、自分は恋に酔ってはいない。


まだ出会って数日。

彼の知らない部分も多い。

それなのに愛を口にするのは、不誠実だ。


だが。

愛していないから結婚できない、とも思わなかった。

むしろ逆だった。


──この先。

夫婦として共に生きれば。

もっと彼を知るだろう。


喧嘩もする。

笑い合う日もある。

命懸けで剣を交える日も来る。


そうやって少しずつ。

夫婦になっていく。


その未来を見てみたい。

その想いは、もう誤魔化せなかった。


東の空が白み始める。

鳥の声が聞こえた。

夜明けだった。

シンクレアは静かに目を閉じる。


そして。

一度だけ、小さく息を吐いた。


「……決めた」


その声は驚くほど穏やかだった。

迷いは残っている。

未来への不安も消えていない。


それでも。

剣を握る時と同じだった。


恐れがあるから退くのではない。

恐れがあっても、一歩踏み出す。


それが武人だ。

だから自分も進む。

身支度を整え、髪を結う。


鏡へ映る女は、昨日までより少しだけ柔らかな表情をしていた。

しかし、その瞳だけは剣を握る時と同じ強さを宿している。


扉を開ける。

朝の空気が肺を満たした。

廊下を歩く足取りに迷いはない。

昨日まで何度も通った客室。

その扉の前で立ち止まり、軽く扉を叩く。


「入っていいか」


中から返事が聞こえる。

扉を開くと、寝台へ身を預けたオーレリアンがこちらを見た。


昨日より顔色はさらに良い。

まだ包帯は痛々しいが、その瞳にはいつもの明るさが戻りつつあった。


シンクレアは扉を閉める。

部屋の中央まで歩き、静かに立ち止まった。

言葉を探す必要はなかった。


昨夜、一晩かけて決めた。

だから迷わない。

窓から差し込む朝日が二人の間へ伸びる。

柔らかな光の中で、シンクレアは真っ直ぐオーレリアンを見据えた。


「人は婚姻を結ぶ時、神の前で誓いを立てるらしいな」


突然の言葉に、オーレリアンは目を瞬かせた。

何の話だろう、と問いかけようとした唇がわずかに開く。

だが、その先を促すように黙って耳を傾ける。


シンクレアは小さく頷いた。

そして、静かに口を開いた。


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