隣に立つ未来 後編
その一言は、あまりにも自然に差し出された。
考え抜いた末の提案というより、目の前にある最も単純な道を指し示しただけのような口調だった。だからこそ、シンクレアはすぐに意味を掴めなかった。
風が窓辺の薄布を持ち上げ、朝の光が部屋の中をゆっくり移動していく。卓上に残された薬湯の表面には、揺れる光の筋が細く映り込んでいた。遠くでは、庭木の枝を切る鋏の音が一度だけ鳴り、その余韻が途切れると、室内には二人の呼吸だけが残る。
オーレリアンは冗談を言った顔ではなかった。
寝台の背へ身体を預けたまま、真っ直ぐこちらを見つめている。負傷のせいで顔色にはまだ薄い影が差しているものの、淡い金色の瞳には迷いがない。シンクレアが何を理解できずにいるのか、彼の方こそ不思議に思っているようだった。
やがて言葉の意味が胸へ落ちた。
自分も任務へ出る。
彼と同じ場所へ立ち、同じ危険を引き受け、同じ敵へ剣を向ける。
それは、これまで誰からも示されたことのない未来だった。
貴族の令嬢が剣を学ぶこと自体、好意的に見られていたわけではない。幼い頃は珍しい趣味として笑われ、年頃になれば、そろそろ慎むべきだと遠回しに諭された。剣を持つことを完全に禁じられなかったのは、公爵家の権威と父の理解があったからにすぎない。婚姻の話が現実味を帯び始めてからは、その視線はいっそう露骨になった。
妻となるなら、夫の家を支えるべきだ。
社交を担い、家を整え、跡継ぎを産み育てる。
剣は過去のものとして置いていく。
誰もが、それを当然の前提として語った。
かつて婚約者だった王子も同じだった。むしろ彼は、その考えを隠そうとすらしなかった。シンクレアの剣を一時の気まぐれと見なし、結婚後には捨てるものだと決めていた。戦場へ立つ女は王族の妻に相応しくない。傷を負えば見苦しく、男たちと肩を並べれば品位を失う。そう語る彼の表情には、疑問を挟む余地などなかった。
シンクレア自身も、いつからか抗うことを諦めかけていた。
剣を捨てたいと思ったことは一度もない。けれど、婚姻とは何かを失うことなのだと、静かに受け入れようとしていた。相手の家へ入り、その家の形に己を合わせる。公爵令嬢として生まれた以上、個人の望みだけで道を選べないことは理解している。だから、心の奥でどれほど息苦しさを覚えても、それを幼い我儘として押し込めてきた。
だが、目の前の少年は、その前提を根元から知らないかのように覆した。
待つことが不安なら、共に来ればいい。
剣を持たずにいることが苦しいなら、剣を振るえばいい。
あまりに単純で、あまりに乱暴で、そして息を呑むほど真っ直ぐだった。
シンクレアは膝の上で重ねた手をゆっくり解いた。指先にこもっていた力が抜ける。掌には爪の痕が薄く残り、そこへ朝の冷たい空気が触れた。
「……お前は」
声を出した瞬間、自分でも分かるほど掠れていた。喉を整えるように一度息を吸う。室内には焼いたパンの香ばしさと薬草の青い匂いが混じり合い、どちらともつかない苦い香りになって漂っている。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか」
ようやく問いかけると、オーレリアンはわずかに眉を上げた。
彼の視線が一度、シンクレアの腰元へ向かう。今は客室を訪ねるだけだったため剣を帯びていない。けれど、その目には昨日の戦場が映っているのだろう。泥を跳ね上げながら駆け、魔物の爪を受け流し、互いの死角を補った時間。言葉を交わす暇さえない中で、呼吸と足運びだけを頼りに戦った、あの一刻。
オーレリアンは慎重に身体を起こしかけ、傷へ響いたのか、すぐに動きを止めた。短く息を詰めたあと、何事もなかったように姿勢を戻す。シンクレアは反射的に手を伸ばしかけたが、彼が先に大丈夫だと示すよう目を細めたため、その手を膝へ戻した。
「分かってるつもりだよ」
その声は、先ほどより静かだった。
「辺境軍は遊びじゃない。昨日みたいに怪我をするし、もっと酷いことだってある。入ると言えば、たぶん簡単には認めてもらえない。シンクレアが公爵令嬢だからとか、女だからとか、そういう理由で反対する人もいると思う」
言葉を重ねるにつれ、彼の表情から無邪気さが薄れていく。
勢いだけで口にしたわけではないのだと、シンクレアはそこで初めて気づいた。最初の一言こそ直感的だったとしても、その先にある困難を何も考えていないわけではない。自分一人の願いで軍の規律を変えられるとは思っておらず、家同士の立場や周囲の反発まで、彼なりに想像している。
それでも、彼は提案を引っ込めなかった。
オーレリアンの右手が、寝台の上でゆっくり握られる。剣を取る時と同じ形だった。指の節には古い傷がいくつも残り、昨日できた新しい擦過傷も混じっている。その手はまだ十分な力を取り戻していないはずなのに、意志だけは揺らがなかった。
「でも、できないって決まったわけじゃない」
彼はそこで一度、呼吸を置いた。
「シンクレアは強い。昨日、俺が守っただけじゃない。俺も何度も助けられた。あんたがいなかったら、もっと怪我人が出てたと思う」
褒め言葉として受け取るには、その口調はあまりにも真剣だった。
戦場での働きを飾って語っているのではない。実際に背中を預けた者として、目にしたものをそのまま告げている。そこには身分への遠慮も、求婚相手を喜ばせようとする甘さもなかった。
シンクレアの胸の奥で、硬く閉じていた何かが軋んだ。
「それに」
オーレリアンは窓の外へ短く目を向けた。
朝の陽はさらに高くなり、庭の露を溶かし始めている。葉先から落ちた雫が石畳へ弾け、小さな光を散らした。その一瞬を見届けてから、彼は再びシンクレアへ視線を戻す。
「俺は、あんたから剣を取り上げたくない」
低く落ち着いた声だった。
その一言が、これまでのどの言葉より深く響いた。
胸の内へ入り込んだ言葉は、すぐには形を持たなかった。ただ、長く凍っていた場所へぬるい水が触れたように、じわじわと感覚を取り戻していく。
剣を取り上げない。
許す、ではない。
続けてもよいと恩恵を与えるのでもない。
彼は、シンクレアからそれを奪う権利など最初から自分にはないと考えている。
その違いは小さく見えて、決定的だった。
「結婚したら、お前の妻になる」
シンクレアは言葉を選びながら、ゆっくりと告げた。
「辺境伯家の一員となり、果たすべき役目も増える。軍へ入るなど、私一人の希望だけでは決められない」
口にしながら、これは彼を諦めさせるための反論ではないのだと気づいた。
現実を挙げ、提案の難しさを確かめている。もし彼が少しでも迷いを見せれば、そこで話を終わらせるつもりだったのかもしれない。期待して傷つくくらいなら、最初から不可能だと決めた方が楽だからだ。
だが、オーレリアンは頷いた。
「うん。だから一緒に考えよう」
迷いのない返答だった。
「父上にも相談する。ガイアス兄上にも。軍でどういう立場なら認められるのか、何が必要なのか、ちゃんと聞く。シンクレアの家とも話さなきゃいけないし、辺境伯夫人としての仕事と両立できるかも考えないと駄目だ」
一つずつ、確かめるように挙げていく。
その言葉は夢物語ではなかった。何もかも簡単だと笑い飛ばすのではなく、障害があることを認め、その上で道を探そうとしている。
オーレリアンは少しだけ身を乗り出した。
距離が縮まる。
朝日の中で、彼の髪が淡く透けて見えた。まだ幼さの残る輪郭と、戦場で培われた鋭さが同居している。十七歳という年齢を思えば、もっと未熟であってもおかしくない。それなのに、ときおり彼は、シンクレアが長いあいだ求めても得られなかった答えを、何の迷いもなく差し出してくる。
「俺だけが前へ出て、あんたに待っててもらう形が嫌なら、そうじゃない形にすればいい」
その声音は柔らかかった。
「俺がシンクレアを守る。けど、それだけじゃなくて、シンクレアにも俺を守ってほしい」
シンクレアの呼吸が止まった。
昨日の森が、鮮明に蘇る。
背後から迫る気配へ振り返るより早く、オーレリアンの剣が閃いた。次の瞬間には、彼の死角へ飛び込んだ魔物をシンクレアが斬り伏せていた。互いに声を掛ける暇などなく、それでも相手がどこへ動くのか分かった。背を向けることが怖くなかった。己の見えない場所に彼がいると知るだけで、剣筋は迷いを失った。
守られた。
同時に、自分も守った。
あの感覚を、シンクレアは知っている。
どちらか一方が庇護されるのではなく、互いの命を互いへ預ける。そこには身分も性別もなく、ただ剣を握る者同士の信頼があった。
そしてオーレリアンは、それを夫婦の未来へ持ち込もうとしている。
「夫婦って、そういうものでもいいだろ」
穏やかな声が静寂へ溶けた。
シンクレアは返事をできなかった。
言葉を探そうとすればするほど、胸の内で感情が絡み合う。驚き、戸惑い、安堵。それらのさらに奥には、容易に名づけられない温かなものが生まれていた。
長いあいだ、自分は結婚を、削られていくものだと思っていた。
自由を失い、剣を置き、役目に合わせて形を変える。相手の望む妻になるため、自分の一部を静かに切り離していく。それが貴族の婚姻であり、逃れられない責務なのだと受け入れようとしてきた。
だが、彼の隣に立つ未来は違って見えた。
失うのではない。
今あるものを持ったまま、二人で新しい形を作る。
それはシンクレアにとって、あまりに眩しく、すぐには信じられないほど都合のよい話だった。期待すればするほど、叶わなかった時の痛みは深くなる。その怖さが、胸の底から遅れて湧き上がる。
「……本当に」
シンクレアは一度言葉を切った。
声が震えぬよう、ゆっくり息を吐く。指先へ意識を向けると、膝の上で再び力が入りかけていた。今度は握り込まず、掌を開いたまま布地へ置く。
「私が剣を持ち続けても、お前は構わないのか」
口にした途端、自分でも愚かな問いだと思った。
彼はすでに、何度も同じ答えを示している。それでも、確認せずにはいられなかった。これまで否定され続けたものを、たった一度の肯定だけで信じ切れるほど、心は単純ではない。
オーレリアンは笑わなかった。
驚きも、呆れも見せず、ただ真っ直ぐシンクレアを見つめる。その瞳には、何を今さら問うのだという軽さではなく、傷つけぬよう慎重に言葉を渡そうとする真剣さがあった。
「構わないんじゃない」
彼は静かに首を振った。
「持っててほしい」
その瞬間、胸の奥にあった硬いものが、音もなく崩れた。
涙が出るほどではない。
けれど、息を吸ったはずなのに肺へ十分な空気が入らず、視界の端が一瞬だけ滲んだ。シンクレアはそれを悟られぬよう、窓の方へ目を逸らした。
庭は変わらず明るい。
風が木々の梢を揺らし、葉と葉の擦れる音が細かな波のように続いている。その穏やかな響きを聞きながら、シンクレアは胸の内へ生まれた変化を確かめた。
不安が消えたわけではない。
辺境軍へ加わることが本当に可能なのかも分からない。婚姻後の責務、家同士の調整、周囲の反発。考えるべきことはいくらでもある。
それでも、先ほどまで未来を覆っていた暗い霧の向こうに、初めて一本の道が見えた。
オーレリアンは、その道を一人で決めようとしていない。
こちらへ手を伸ばし、共に探そうとしている。
シンクレアはゆっくり彼へ視線を戻した。
オーレリアンは返事を急かさず、黙って待っていた。その表情には不安が滲んでいる。自分の言葉が彼女を困らせたのではないかと、今になって心配し始めたらしい。膝の上の右手が僅かに動き、指先が掛布の皺を無意識になぞっている。
その仕草を見た瞬間、シンクレアの口元がほんの少し緩んだ。
強く、真っ直ぐで、時に驚くほど大胆な言葉を口にするくせに、受け入れられるかどうかにはひどく臆病になる。その不器用さが、なぜか胸へ柔らかく触れた。
「すぐには答えられない」
シンクレアが告げると、オーレリアンの瞳に一瞬だけ影が落ちた。
だが、その続きを待つため、彼は何も言わなかった。
「軍へ入ることも、結婚のことも、軽々しく決められるものではない。だが──」
そこで言葉を止める。
胸の内にあるものを、今の自分がどこまで口にしてよいのか分からなかった。感謝だけでは足りず、喜びと呼ぶにはまだ怖い。けれど、何も伝えずに部屋を出れば、彼はきっと自分の提案を悔やむだろう。
シンクレアは椅子から立ち上がった。
朝食の器を卓上へまとめ、乱れていた掛布の端を整える。先ほどと同じ動作なのに、触れる指先の感覚は違っていた。白い布の下にある彼の足、その先へ続く未来を、無意識に思い描いてしまう。
辺境の荒野を並んで馬で駆ける姿。
同じ軍服をまとい、剣を帯びて門を出る朝。
戦いを終え、傷だらけで帰った夜に、互いの無事を確かめる時間。
どれもまだ現実ではない。
それでも、想像した時に胸へ湧いたものは、拒絶ではなかった。
「お前の言葉は、考える」
シンクレアは寝台のそばで立ち止まり、彼を見下ろした。
「真剣に」
短い言葉だった。
けれど、それ以上は必要なかったらしい。
オーレリアンの顔から不安が消え、代わりに、眩しいほど率直な喜びが広がった。笑みを抑えようとしているのか、唇を一度引き結んだものの、目元までは隠せない。今にも起き上がりそうな気配を察し、シンクレアは先に片手を上げて制した。
「動くな」
その声には、先ほどまでの重さが少しだけ薄れていた。
オーレリアンは素直に背を寝台へ戻す。だが、喜びを持て余すように視線だけが落ち着かず、窓の外へ向かったかと思えば、すぐにまたシンクレアへ戻ってくる。
それを見ていると、昨日キララと並んで首を傾げていた姿が蘇った。
似ている。
本当に、どうしようもないほど。
笑いが漏れそうになるのを堪え、シンクレアは扉へ向かった。今はまだ、この部屋に長く留まるべきではない。胸の内へ生まれたものを、誰にも見られず、静かに確かめる時間が必要だった。
扉へ手を掛けたところで、背後から名を呼ばれる。
「シンクレア」
振り返ると、オーレリアンは先ほどまでの笑みを少しだけ収めていた。
何かを願うような、それでいて求めすぎまいとする眼差しだった。
「待ってる」
その言葉に、シンクレアはすぐ返事をしなかった。
ただ、扉の取っ手を握ったまま一度だけ頷く。
廊下へ出ると、朝の空気が頬へ触れた。室内より少し冷たく、熱を持ち始めていた頭を静かに冷ましていく。
扉を閉じても、彼の言葉は消えなかった。
待つのではなく、共に立てばいい。
守るだけではなく、守ってほしい。
剣を捨てなくていいのではない。
持っていてほしい。
その一つ一つが、歩くたび胸の内で形を変えながら響く。
シンクレアは廊下の窓辺で足を止めた。
眼下の庭では、キララがいつの間にか目を覚ましたらしく、朝露の残る芝の上を走っている。白い毛並みが陽を弾き、尾が楽しげに大きく揺れていた。やがてこちらの気配に気づいたのか、聖獣は足を止め、二階の窓を見上げた。
その澄んだ瞳と目が合う。
キララは何も知らないはずなのに、すべて分かっているような顔で小さく首を傾げた。
シンクレアは窓硝子へ指先を触れた。
冷たさが皮膚から伝わり、浮つきかけた心を現実へ引き戻す。それでも、胸の奥に生まれた温かさまでは消えなかった。
昨日まで、結婚という言葉の向こうには、失うものばかりが並んでいた。
今は違う。
その先に、自分の剣を持ったまま立つ姿が見える。
そして隣には、黒の髪を風になびかせ、当たり前のように背を預けてくる少年がいる。
その未来を思い浮かべた時、怖さよりも先に、そこへ行ってみたいという感情が生まれた。
まだ答えではない。
けれど、答えへ続く最初の一歩であることだけは、もう否定できなかった。




