隣に立つ未来 前編
翌朝、シンクレアは夜明けからさほど経たないうちに目を覚ました。
眠りは浅かった。
夜半に何度か意識が浮かび、そのたびに薄暗い天井を見上げては、昨日の出来事を辿った。
血の匂いが満ちた森。
足元で砕けた土。
魔物の咆哮に震えた空気。
視界を遮るように飛び込んできた、オーレリアンの背中。
目を閉じるたび、彼が魔角熊の一撃に弾き飛ばされた瞬間だけが、鮮明に蘇った。
地面へ叩きつけられた身体。
土煙の中で動かなかった指先。
呼びかけても、すぐには返らなかった声。
その記憶へ触れるたび、胸の奥を冷たい手で掴まれたように息が詰まる。
寝台の上でしばらく身じろぎもせず横たわっていたが、再び眠れる気はしなかった。
シンクレアは掛布を退け、床へ足を下ろした。
夜の冷気を残した石床が、素足の裏から熱を奪う。窓辺まで歩き、厚いカーテンを左右へ開くと、細い朝日が部屋を斜めに切り分けた。
夜露に濡れた庭は、淡い銀色を帯びていた。
低い植え込みの向こうでは、使用人たちが朝の支度を始めている。
箒が石畳を擦る音。
水桶を運ぶ足音。
厨房の煙突から立ち上る細い煙。
開けた窓の隙間から、焼きたてのパンと薪の匂いが流れ込んできた。
昨日、森で何が起きたかなど知らないように、屋敷はいつもどおりの朝を迎えていた。
その平穏さが、かえって落ち着かなかった。
鏡の前へ座り、銀髪へ櫛を通す。
髪を整える手は普段と変わらず動いているはずなのに、意識は別の場所へ引かれていた。
昨日、馬車の中で握った手。
剣を握る者らしく、節の硬い指だった。戦いのあとは力を失い、こちらが触れても抗うことなく、掌の中へ収まっていた。
あれは負傷者を安心させるための行為だった。
痛みに耐える相手を放っておけなかっただけだ。
そう理由をつけても、掌にはまだ彼の体温が残っているような気がした。
身支度を終える頃、朝食を告げる鐘が鳴った。
低い音が石壁を伝い、屋敷の奥へゆっくり広がっていく。
シンクレアは立ち上がったものの、食堂へ向かうことはできなかった。
昨夜、オーレリアンの容体に変化はないと聞いている。治癒術師からも、命に関わる怪我ではないと説明されていた。数日休めば治る。後遺症も残らない。
それでも、朝になれば自分の目で確かめずにはいられなかった。
扉を開くと、廊下にはまだ朝の冷気が残っていた。
高窓から差し込む光が、長い絨毯の模様を浮かび上がらせている。人の姿は少なく、シンクレアの足音だけが控えめに響いた。
客室へ近づくにつれ、扉の向こうから人の声が聞こえてきた。
低く諫める年嵩の声。
それへ食い下がる、聞き慣れた若い声。
言葉までは聞き取れなくとも、何が起きているかは容易に想像できた。
シンクレアは扉の前で足を止め、目を閉じた。
胸の内を占めていた不安へ、呆れが混ざる。
心配より先に腹立たしさを覚えられるということは、少なくとも元気に口を利ける状態なのだろう。
そう思うと、張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。
扉を叩く。
中の声が止まり、間を置かず返事が届いた。
「どうぞ」
扉を開けると、予想したとおりの光景が広がっていた。
寝台の上で半身を起こしたオーレリアンが、掛布を押し退け、右足を床へ下ろそうとしている。その正面には治癒術師が立ち、杖を横へ差し出して進路を塞いでいた。
枕元の卓には、湯気を立てる薬湯が置かれている。煮詰めた根と薬草の青臭い匂いが、部屋へ薄く漂っていた。
窓は僅かに開けられており、朝の風が白い寝間着の袖を揺らしている。
昨夜より顔色はよかった。
とはいえ、唇にはまだ血の気が薄い。左肩を固定する白い布が寝間着の襟元から覗き、背中を庇うためか、身体は不自然なほど真っ直ぐに保たれている。
右足へ重心を移そうとした瞬間、眉間へ細い皺が寄った。
本人はすぐに何事もなかったような顔へ戻したが、見逃すはずがなかった。
治癒術師はシンクレアを認めると、目に見えて安堵した。
長年、無数の負傷者を見てきた者であっても、オーレリアンの相手には手を焼くらしい。
「安静を申しつけているのですが、庭まで歩くと聞いてくださらないのです」
深く一礼したあと、治癒術師は半ば訴えるように続けた。
「治癒術を施したとはいえ、傷めた筋が元へ戻ったわけではありません。今日一日は寝台を離れぬよう、シンクレア様からもお伝えいただけませんか」
オーレリアンはばつが悪そうに視線を逸らした。
悪事を見つかった子どものような顔をしながら、掛布を押さえる左手はまだ離していない。その指先には、治癒術師が退けば再び立とうとする意思が残っていた。
シンクレアは治癒術師へ頷き、寝台の脇まで進んだ。
何も言わず、オーレリアンを見下ろす。
朝日を背負った影が、白い掛布の上へ落ちた。
オーレリアンは最初こそ視線を逸らしていたものの、やがて諦めたように顔を上げた。金色の目が、探るようにシンクレアを見返す。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に折れたのはオーレリアンだった。
「……庭を少し歩くだけだよ」
昨夜より声に張りがない。
強がっているというより、自分自身へ言い聞かせているように聞こえた。
普段なら何の意識もせずできる動作を禁じられ、身体の自由を奪われることが耐え難いのだろう。辺境で育ち、鍛錬と任務を日常としてきた彼にとって、寝台の上で時間をやり過ごすことは、痛みに耐えるより苦痛なのかもしれない。
その焦りが分からないわけではなかったが、理解できることと、許すことは別である。
昨日、土煙の中で彼が動かなくなった一瞬を思い出すだけで、喉が狭くなる。
再び同じ恐怖を味わうくらいなら、多少嫌われても構わないとさえ思った。
シンクレアは掛布の端を持ち上げ、床へ下ろされかけていた彼の足へかけ直した。
乱れた布を整え、最後に掌で軽く押さえる。
強い力は必要なかった。
その動作だけで、決定が覆らないことは伝わったはずだった。
「今日は休め」
短く告げる。
オーレリアンは何か言い返そうとした。
しかし、シンクレアの顔を見上げたまま、口を閉じる。視線が目元へ留まり、そこに残る寝不足の痕へ気づいたらしい。
金色の瞳から、僅かに反抗の色が薄れた。
「……分かった」
ようやく身体を寝台の背へ預ける。
治癒術師は小さく安堵の息を吐いた。
薬湯をすべて飲み終えること。朝食後もしばらく身体を起こさず、痛みが強くなった場合はすぐに知らせること。
いくつか念を押してから、治癒術師は部屋を出ていった。
扉が閉じると、先ほどまでの言い争いが嘘のような静けさが戻った。
窓の外では、鳥が一度だけ高く鳴いた。
木の葉が朝日を弾き、天井へ不規則な光の斑を映している。その穏やかな明滅を眺めながら、シンクレアは寝台の脇に置かれた椅子へ腰を下ろした。
オーレリアンは卓上の薬湯へ手を伸ばした。
器を鼻先へ近づけた途端、露骨に顔をしかめる。
薄緑色の液体からは、根と苦い葉を煮詰めた匂いが立ち上っていた。薬効が高いものほど味も悪くなるらしい。
彼はしばらく器を睨んでいた。
逃げ道がないと悟ると、一度息を止め、そのまま一息に飲み干す。
喉が動くたび、傷へ響くのか、呼吸が僅かに乱れた。空になった器を卓へ戻す指先も、ほんの少し震えている。
口では庭へ出られると言い張っていたが、身体はまだ戦いの負担から抜け出していない。
シンクレアは水差しを取り、杯へ水を注いだ。
硝子の表面は朝の空気に冷やされ、指先へひやりとした感触を伝える。
差し出すと、オーレリアンは素直に受け取った。
「昨日より、顔色はよいな」
言ってから、それが今朝一番に確かめたかったことだと気づいた。
もう少し違う言葉を選べたはずだった。調子はどうか。痛みは強くないか。治癒術師の言いつけを守れ。
そうした言葉なら、まだ取り繕うこともできた。
しかし口から出たのは、彼の顔色を一晩中気にしていた者の言葉だった。
オーレリアンは杯を下ろし、僅かに目を細めた。
笑ったのだと分かるまで、シンクレアには一拍かかった。
揶揄するような笑みではなかった。
彼女が自分を案じていることを、嬉しさとともに静かに受け取った顔だった。
「シンクレアが来てくれたから、もっと良くなった気がする」
冗談めいた調子ではあったが、声は穏やかだった。
以前なら、あまりにも率直な言葉へどう返せばよいか分からず、冷たく切り捨てていたかもしれない。
今朝は、その無防備な喜びを否定する気になれなかった。
代わりに視線を卓へ落とす。
器の縁に残った薬湯の雫が、朝日を受けて鈍く光っていた。
やがて扉が叩かれ、二人分の朝食が運び込まれた。
焼きたての小麦パン。
柔らかく煮込まれた野菜のスープ。
香草を混ぜた卵料理。
温かな湯気が薬草の匂いを押し流し、部屋へ素朴な香ばしさを満たしていく。
シンクレアの分まで用意されていることへ、使用人は何も説明しなかった。
彼女が食堂へ現れず、朝から負傷者の客室へ入ったことなど、屋敷の者にはすでに知られているのだろう。
オーレリアンは右手で匙を取った。
左肩を動かさないよう慎重に腕を運び、スープを掬う。
一口目は問題なく飲み込んだ。
二口目も、時間をかければ口元まで運べた。
三口目を掬ったところで、寝台の背へ身体を預け直そうとした。ほんの少し左へ重心が傾いただけだった。
次の瞬間、呼吸が止まった。
匙の中でスープが揺れ、白い寝具へ零れかける。
シンクレアは反射的に手を伸ばした。
オーレリアンの手首を支え、そのまま匙を受け取る。
触れた皮膚は、朝の空気とは不釣り合いなほど熱かった。
熱病というほどではない。
治癒のため、身体が熱を持っているのだろう。
オーレリアンは何も言わなかった。
言い訳も、強がりも口にしない。
シンクレアも責めなかった。
昨夜のように使用人を呼ぶと言うことも、食べさせる理由を自分へ言い聞かせることもしなかった。
ただ匙を器へ戻し、スープを一口分だけ掬う。
そのまま、彼の口元へ差し出した。
オーレリアンの目が少し見開かれた。
驚きのあと、隠しきれない喜びが浮かぶ。
「何も言うな」
先回りして告げる。
オーレリアンは口を閉じたまま、素直に匙を受け入れた。
頬がわずかに緩んでいる。
言葉を止めても、表情までは隠せないらしい。
朝食は静かに進んだ。
匙が器の縁へ触れる小さな音。
パンを割る乾いた響き。
風がカーテンを持ち上げ、庭の草花の匂いを運んでくる。
昨夜のような気恥ずかしさが、まったくないわけではなかった。
それ以上に、オーレリアンが痛みを堪えて腕を動かす姿を見ている方が落ち着かなかった。
彼は一口ごとにシンクレアの手元を見ていたが、やがて安心したように寝台へ身を委ねた。
その姿を眺めているうち、シンクレアの意識は昨日の森へ引き戻された。
剣を振るうオーレリアンは、今とはまるで別人だった。
足場の悪い斜面を迷いなく駆け、迫る爪を紙一重でかわし、味方の死角へ入った魔物を一閃で斬り伏せる。
若さだけに任せた動きではない。
積み重ねた鍛錬と、辺境で幾度も死線を越えてきた者の判断が、そのすべての動きに宿っていた。
あれが、彼の日常なのだ。
オーレリアンから求婚された日から、シンクレアは何度も、その先にある暮らしを考えようとしてきた。
彼の妻となれば、辺境伯家へ移ることになる。
王都から遠く離れた北方の地。
雪深い冬。
魔物の棲む森。
王都とは比べものにならないほど荒々しい自然。
そこへ赴くこと自体に、強い抵抗はなかった。
華やかな社交界へ未練などない。公爵令嬢としての役目を投げ出すつもりはないが、笑みを貼りつけ、興味のない話へ相槌を打ち続ける日々より、剣を握り、己の力を役立てられる場所の方が、むしろ息がしやすいように思えた。
オーレリアンの家族が自分を受け入れるか。
辺境伯家の者たちが、婚約を破棄された年上の女をどう見るか。
考えるべきことは多い。
それでも、辺境で暮らす未来そのものを、嫌だと思ったことはなかった。
辺境で暮らすことと、辺境軍の任務へ赴く夫を送り出すことは別だからだ。
昨日のような戦いは、これからも繰り返される。
そのたびにオーレリアンは屋敷を発ち、帰りの日時も定かではないまま、森や山へ入っていくのだろう。
シンクレアは邸内で報せを待つ。
廊下を走る足音が聞こえるたび、扉を振り返る。
予定の日を過ぎるたび、最悪の想像に苛まれる。
血に濡れた装備だけが戻ってくる可能性さえ、辺境では決して空想ではない。
胸の内側が、鈍く縮んだ。
昨日までのシンクレアは、それを「軍人の妻になる以上、耐えるべきこと」だと考えようとしていた。
第二王子の婚約者だった頃から、妻とは夫を支え、夫を送り出し、帰りを待つ者だと教えられてきた。
剣を置け。
夫より前へ出るな。
夫の帰る場所を守れ。
相手が変わったとしても、妻になるなら、やるべきことは同じなのだと。
そう思っていた。
食事を終えたオーレリアンは、シンクレアの手が止まっていることへ気づいたらしい。
口元に浮かんでいた笑みを消し、静かに彼女を見ていた。
何があったのかと問い詰めることはしない。
言葉が出てくるまで待っている。
昨夜、不安なことは一つずつ話せばよいと告げたときと、同じ眼差しだった。
その静けさに促され、シンクレアは匙を器へ置いた。
金属と陶器が触れ、澄んだ音が一度だけ鳴る。
窓の外へ目を向けると、一羽の鳥が庭の上を横切った。
翼を広げ、朝の光の中をためらいなく進んでいく。
シンクレアはその姿を目で追った。
口に出せば、自分が何を恐れているのか認めることになる。
黙ったまま求婚への答えを考えたつもりになることは、もうしたくなかった。
「お前の求婚を受ければ、私は辺境へ行くことになる」
声は思ったよりも落ち着いていた。
オーレリアンは遮らず、僅かに頷く。
「そのことが嫌なわけではない」
言葉を選びながら、シンクレアは続けた。
「王都を離れることにも、辺境で暮らすことにも、大きな不安はない。だが……」
そこで、息が止まった。
昨日の光景が脳裏を掠める。
空中へ投げ出された身体。
地面を叩いた鈍い音。
土の上へ投げ出された腕。
動かなかった指先。
あの瞬間に感じた恐怖は、戦場で仲間を失いかけたときのものとは違っていた。
理由を掘り下げれば、まだ明確な名を与えられない感情へ触れてしまう。
シンクレアは膝の上で両手を重ねた。
爪が掌へ食い込まないよう、意識して指の力を抜く。
「お前が任務へ出るたび、私は屋敷で帰りを待つことになる」
オーレリアンの表情が、少しだけ変わった。
驚いたのではない。
初めて聞く考えを、理解しようとする顔だった。
シンクレアは視線を下げた。
「昨日、お前が倒れたとき」
声が僅かに掠れる。
それでも止めなかった。
「私は、怖かった」
言葉が部屋へ落ちた。
それだけで、胸の奥へ長く閉ざしていた扉を一つ開けたような感覚があった。
オーレリアンは目を見開いた。
すぐに慰めることも、喜ぶこともしなかった。
静かに続きを待っている。
その沈黙がありがたかった。
軽く大丈夫だと言われれば、それ以上は話せなかったかもしれない。
「これから先も、同じことは起こる」
シンクレアは重ねた手へ視線を落としたまま続ける。
「辺境で暮らすなら、避けられない。お前は軍人だ。危険を前にして、自分だけ退くような者ではない」
それは、彼の好きなところでもあった。
誰かを守るためなら、ためらわず前へ出る。
昨日もそうだった。
だからこそ、変わってほしいとは言えない。
剣を置けとも、危険な場所へ行くなとも言えない。
そのようなことを求めれば、かつて自分へ剣を捨てろと言った者たちと同じになる。
「私は」
一度、喉を鳴らした。
「剣を持たずに待つことへ、耐えられるのか分からない」
ようやく言い終えると、胸の奥に沈んでいた重石が、僅かに動いた。
消えたわけではないが、隠さず差し出したことで、一人だけで抱えずに済んだ。
オーレリアンはすぐには答えなかった。
寝台の上で視線を伏せ、静かに考えている。
窓から入る風が、朝日を受けた黒髪を揺らした。額へ落ちた一筋が、金色の瞳へかかる。
眉間には皺が寄っていた。
シンクレアはその横顔を見つめ、返される言葉を待った。
危険な任務へ出ないと約束することはできないだろう。
心配するなと言われても、頷けない。
辺境伯夫人になるなら耐えてほしいと求められれば、それが現実なのだと受け止めるしかないのかもしれない。
妻とは、そういうものなのだと。
やがてオーレリアンは顔を上げた。
難しい答えを見つけた者の顔ではなかった。
むしろ、考えた末に複雑な問題を解いたというより、最初から一つしかない答えを確かめたような表情だった。
金色の瞳が、まっすぐシンクレアへ向けられる。
「だったら」
ひどく自然な声だった。
「俺の隣で剣を振るえばいいんじゃない?」




