五つの歳月
治癒術師の診察が終わったのは、陽が山の端へ触れ始めた頃だった。
オーレリアンの背中には広い範囲に打撲が残り、左の肩にも軽い筋の損傷が見つかった。骨や内臓に異常はなく、数日安静にしていれば問題なく回復するという。しかし、痛みが引くまでは剣を握ることも、馬へ乗ることも禁じられた。寝台から起き上がる際には誰かの手を借り、無理に身体を捻らないようにも言い渡されている。
本人は終始不満そうだった。
怪我の重さを軽く見ているわけではない。辺境軍の兵士として、治療を怠れば後の任務へ影響することも理解している。それでも、身体を動かせない状況そのものが性に合わないらしく、治癒術師が部屋を出る前から、明日の朝には歩いてもよいかと何度も尋ねていた。
返ってくる答えは、そのたびに同じだった。
許可が出るまで寝ていろ。
最後にはアルベルトからも念を押され、ようやく諦めたように寝台へ沈んだものの、窓の外を飛ぶ鳥を眺める目には、自由を奪われた獣のような色が浮かんでいた。
シンクレアは診察の間、部屋へ入らなかった。
廊下の向こうには両家の当主や騎士団長が集まり、今回の襲撃について話し合っている。魔狼の群れを率いていた魔角熊は、森の奥に棲む個体としても異常なほど魔力を蓄えていた。あれほど大きな魔物が長く森へ潜んでいたなら、見張りや巡回の騎士が何らかの痕跡を見つけているはずである。それがなかったということは、最近になって別の場所から移動してきた可能性が高い。
自然な移動なのか。
何者かに追われたのか。
あるいは、意図的に人里へ近づけられたのか。
今の段階では何も分からない。父や兄は夜になっても話し合いを続けるつもりらしく、騎士たちも再び森へ入る準備を始めていた。シンクレアも本来なら、その場へ加わるべきだった。
だが、部屋へ戻って血に汚れた衣服を替えてからも、意識は客室の方角へ引かれていた。
オーレリアンは眠っているだろうか。
痛みは強くなっていないか。
夕食をきちんと取れるのか。
治癒術師が問題ないと告げたことは聞いている。命に関わる怪我ではなく、身体を休ませれば治る。それでも、馬車の中で見た苦しげな顔が消えなかった。
自室の窓辺には、洗われたキララが丸くなっている。魔物の血と泥を落とした白い毛は、まだ完全には乾いていない。普段なら敷物の上で身体を休めているところだが、今夜は何度も扉へ顔を向けていた。
おそらく彼女も、オーレリアンのもとへ行きたいのだろう。
「お前まで落ち着かないのか」
声を掛けると、キララは当然だと言わんばかりに一度だけ尾を床へ打ちつけた。
シンクレアは小さく息を吐く。
自分も同じだとは認めたくなかった。
見舞うだけなら不自然ではない。共に戦い、自分を庇って負傷した相手である。しかも彼は公爵家の客人だ。屋敷の者として様子を確かめることは、むしろ当然の気遣いとも言える。
そう理由を並べながら立ち上がった時点で、すでに答えは出ていた。
夕食を運ぶ使用人と廊下で行き合い、シンクレアはその盆を自分が持つと告げた。使用人は一瞬驚いたが、何も問わずに頭を下げる。深い皿には肉と根菜を柔らかく煮込んだ料理が盛られ、薄く切ったパンと果実水も添えられていた。負傷者でも食べやすいものを、厨房が選んだのだろう。
キララは待っていましたとばかりに立ち上がり、シンクレアの後ろへ続いた。
客室の扉を叩くと、中からすぐに返事があった。
「どうぞ」
声は思っていたよりもしっかりしている。
シンクレアが扉を開けると、オーレリアンは寝台へ半身を起こしていた。背中にはいくつもの枕が重ねられ、身体を支えるように置かれている。濃紺の騎士服から薄い部屋着へ替えていたため、肩や胸元の線が普段より柔らかく見えた。黒髪はまだ少し湿り、額へ無造作に落ちている。
彼は盆を持つシンクレアを見るなり、目を大きくした。
「シンクレア」
その声が明るくなる。
足元では、キララが同じように尾を振っていた。
昼間に自分が言ったことを思い出し、シンクレアは二人を交互に見る。本当に、感情の表れ方がよく似ている。オーレリアンに尾があれば、キララと同じ速さで振っていたに違いない。
「夕食だ」
「運んできてくれたのか?」
「使用人と廊下で会っただけだ」
「それでも、ここまで持ってきてくれたんだろ」
僅かなことでも喜びを見つける。否定するほど意地になれば、かえって彼の喜びを深めるだけだと分かり始めていたため、シンクレアは返答せず、盆を寝台脇の卓へ置いた。
キララがすぐにオーレリアンのそばへ寄る。前足を寝台へ掛けようとしたが、シンクレアが名を呼ぶと動きを止め、代わりに床へ伏せた。黒い瞳だけは彼の顔へ向けたままである。
「治癒術師からは、何と言われた」
「数日大人しくしていろって」
「そのとおりにしろ」
「明日には歩けると思う」
「許可が出るまで動くな」
「父上と同じことを言うんだな」
「正しいことは誰が言っても同じだ」
シンクレアは椅子を引き、寝台の横へ座った。料理から立つ湯気が、二人の間をゆっくり上っていく。肉と香草の匂いを感じた途端、オーレリアンの視線が皿へ向いた。戦闘の後で何も口へしていないため、空腹なのだろう。
「食べろ」
「そのつもりだけど、盆を膝に乗せるのは少し怖いな」
身体を捻らないよう気をつけながら、オーレリアンが右手を伸ばす。しかし皿を取ろうとしただけで左肩が動き、顔が僅かに歪んだ。
シンクレアは眉を寄せた。
「痛むのか」
「少しだけ」
「なら無理をするな。使用人を呼ぶ」
呼び鈴へ手を伸ばそうとしたところで、オーレリアンが止めた。
「シンクレアが食べさせてくれればいい」
あまりにも自然に言われ、彼女の手が空中で止まった。
「何だと?」
「身体を動かすなって言ったのは、あんただろ」
「自分で食べられないほどの怪我ではない」
「食べようとしたら痛そうな顔をしたって、今言ったばかりだ」
「痛そうな顔をしたとは言っていない」
「顔がそう言ってた」
昼間、自分が彼へ向けた言葉をそのまま返され、シンクレアは口を閉じた。
オーレリアンは期待を隠そうともせずに待っている。悪戯やからかいだけで頼んでいるわけではなさそうだった。傷が痛むことも事実だろう。ただし、使用人ではなくシンクレアへ食べさせてもらいたいという望みが含まれていることは、誰が見ても明らかだった。
「使用人を呼ぶ」
「シンクレアがいい」
「なぜだ」
「好きな人に食べさせてもらえる機会なんて、そう何度もないだろ」
「普通は一度もない」
「なら、今が最初だな」
前向きというより、都合よく考えすぎている。
シンクレアは黙って彼を見つめた。オーレリアンは少しも視線を逸らさない。ただ、断られれば無理強いはしないつもりなのだろう。期待を向けながらも、自分から手を伸ばすことはなかった。
キララが二人の顔を交互に見たあと、オーレリアンの膝へ鼻先を寄せる。まるで早く食べさせてやれと催促しているようだった。
「お前まで味方をするのか」
シンクレアが呟くと、キララは尾を一度振った。
「ほら、キララも頼んでる」
「勝手にキララの意思を決めるな」
「違うのか?」
白い聖獣はまた尾を振る。
シンクレアは深く息を吐いた。
負傷者へ食事を取らせるだけだ。
それ以上の意味はない。
そう自分へ言い聞かせながら、皿を手元へ引き寄せた。匙で肉と根菜を小さく崩し、汁が落ちないよう慎重に掬う。
オーレリアンは嬉しそうに口を開いた。
「待て」
思わず止めると、彼はそのまま動きを止めた。
「何だ?」
「その顔をやめろ」
「どんな顔?」
「……嬉しそうな顔だ」
「嬉しいんだから仕方ないだろ」
本当にキララと同じである。隠すという発想がない。
シンクレアは不本意そうに眉を寄せたまま、匙を彼の口元へ運ぶ。オーレリアンは素直に口へ含み、ゆっくり噛んだ。
その様子を間近で見守ることへ、奇妙な恥ずかしさがあった。
剣を交えるときには、相手の呼吸や視線をどれほど近くで感じても気にならない。戦場では肩を並べ、抱き止められたときでさえ、状況を把握することで精一杯だった。
今は違う。
静かな部屋で、食事を口へ運んでいるだけ。
オーレリアンが匙を受け入れるたび、唇の動きや喉が上下する様子が目に入り、どこへ視線を置けばよいのか分からなくなる。
「おいしい」
「厨房へ言え」
「シンクレアが食べさせてくれるから、もっとおいしい」
「次に余計なことを言ったら、使用人を呼ぶ」
「余計なことじゃないけど、黙る」
そう答えた直後から、オーレリアンは本当に口を閉ざした。食べるときだけ素直に口を開き、咀嚼が終われば次を待つ。だが、金色の瞳には隠しきれない喜びが浮かび続けている。
キララも寝台の脇へ伏せ、同じような目で食事を見つめていた。
「お前には後で別のものをやる」
シンクレアが告げると、キララは理解したように耳を動かす。
その横で、オーレリアンも匙を待っていた。
「お前はキララより手が掛かるな」
「今は反論しない方が食べさせてもらえる気がする」
「そこまで分かっているなら、自分で食べろ」
「肩が痛い」
途端に弱々しい声を出す。
先ほどまで平然と話していた男とは思えない。仮病ではないと分かっているが、必要以上に痛みを強調していることも分かる。
シンクレアは呆れながらも、次の一口を掬った。
「甘えるのが上手いな」
「末っ子だから」
「兄が三人もいるのだったな」
「ああ。皆、年が離れてる」
オーレリアンは料理を飲み込んでから答えた。長兄レオンは三十四歳、次兄カイルは三十一歳、三兄ガイアスは二十九歳。十七歳の彼とは、最も近いガイアスでも十二歳離れている。
「それだけ離れていれば、幼い頃は随分甘やかされたのではないか」
「兄上たちは否定するだろうけど、たぶん甘やかされてた」
「自覚はあるのか」
「今も困ったら助けてくれる。ただ、ガイアス兄上は軍だと容赦ないけど」
オーレリアンが所属する辺境軍第一遊撃隊を率いるのは、そのガイアスである。家では優しい兄でも、任務中には厳格な上官となるのだろう。今日の怪我を知られれば、心配されるより先に無茶を叱られるかもしれない。
それでもオーレリアンの声には、兄たちへの深い信頼があった。
年齢が離れていることを、彼は寂しいものとは考えていないらしい。むしろ、自分より長く生き、多くを知る者たちへ囲まれて育ったことを当然のように受け入れている。
シンクレアは、匙を皿へ戻した。
「お前は、年齢の差が気にならないのか」
声が先ほどまでより低くなった。
オーレリアンはすぐに答えなかった。問いの奥に別の意味があることへ気づいたのだろう。嬉しそうに食事を待っていた表情が消え、まっすぐシンクレアを見つめる。
「五歳のことか?」
「ああ」
「気にならない」
即答だった。
シンクレアは眉を寄せる。
「少しは考えろ」
「考えたうえで、気にならないんだ」
「お前は十七歳だ。もっと歳の近い娘がいるだろう」
言葉へすると、胸の中で形を持たなかった不安が、急に明確なものへ変わった。
オーレリアンは若い。
十七歳なら、本来はこれから多くの人と出会う年齢である。社交の場へ出れば、彼と同年代の令嬢も大勢いる。婚約を破棄された過去もなく、王子との噂を背負ってもいない。彼の明るさに似合う、愛らしく、素直に笑う娘もいるだろう。
なぜ、五つも年上の自分なのか。
剣ばかり握り、愛想もなく、社交の場では冷たいと評されてきた女。
第二王子から女らしくないと捨てられた女。
婚約破棄を目にした勢いで、同情と憧れを恋だと思い込んでいるだけではないのか。
「私より若くて、綺麗な娘はいくらでもいる」
シンクレアは皿へ視線を落とした。
「お前なら選べるはずだ。家格の釣り合う令嬢も、明るく愛想のよい女性もいる。私のように剣を振るい、夫より前へ出るような女を、わざわざ選ぶ必要はない」
言い終えたあと、部屋がひどく静かになった。
キララさえ動かず、床へ伏せたままシンクレアを見上げている。
オーレリアンはすぐには言葉を返さなかった。
軽い調子で否定されることを、シンクレアはどこかで恐れていた。そんなことは関係ない。好きなのだからよい。そう言われても、不安は消えない。気持ちだけで乗り越えられるものではないと、彼女は長い婚約の中で知っている。
恋情は変わる。
美しさは衰える。
若さへの憧れも、やがて現実へ変わる。
今は魅力に見える剣も、妻が自分より強いことを思い知らされ続ければ、疎ましくなるかもしれない。
オーレリアンは皿ではなく、シンクレアの顔を見続けていた。やがて、穏やかな声で問い返す。
「俺が、若くて綺麗な娘を選びたいって言ったか?」
「言っていない」
「年が近い方がいいとも?」
「それも言っていない」
「なら、それは誰の望みなんだ?」
シンクレアは答えられなかった。
世間の望み。
貴族社会の常識。
夫より妻が若く、柔らかく、愛想よくあるべきだという価値観。
そして、第二王子から長く向けられてきた言葉。
もっと女らしくしろ。
剣を置け。
笑え。
夫を立てろ。
それらを自分の不安として抱え込み、オーレリアンも同じものを望むはずだと決めつけていた。
「俺は、娘を選びに来たわけじゃない」
オーレリアンは静かに続ける。
「若い女の中から一番綺麗な人を探して、妻にしたいと思ったわけでもない。シンクレアを好きになったから、シンクレアに求婚したんだ」
「だが、お前は私をほとんど知らない」
「だから知りたいって言った」
返答に迷いはない。
「昨日より今日は、あんたのことを知ってる。剣を振るってるときは楽しそうにすること。人前では口数が少ないけど、言葉を適当に使わないこと。負傷した仲間を放っておけないこと。心配してても、心配してるって素直に言えないこと」
シンクレアは視線を上げた。
オーレリアンは指を折って数えることもなく、一つずつ丁寧に言葉を重ねていく。
「笑うとすごく綺麗なこと。キララを家族として大切にしてること。強いのに、自分が誰かを傷つけることを怖がってること。それから、嫌だって言いながら、怪我人に食事を食べさせてくれること」
「最後はお前が無理に頼んだのだろう」
「断ろうと思えば断れた」
「負傷者を空腹のままにできるか」
「そういうところが好きなんだ」
あまりにも自然に言われ、シンクレアは言葉を失った。
オーレリアンは笑っていない。好意を押しつけるときの勢いもなく、ただ、自分が知った事実を伝えている。
「もっと知ったら、嫌いになるかもしれない」
シンクレアが低く言うと、彼は少し考えた。
「そういうことが絶対にないとは言わない」
予想していなかった答えに、彼女は目を見開いた。
オーレリアンなら、何を知っても嫌いにならないと言うのだと思っていた。
「俺だって人間だから、喧嘩することもあるだろうし、あんたの考えが分からなくて困ることもあると思う。シンクレアも、俺の嫌なところを見つけるだろ」
「すでに見つけている」
「例えば?」
「無茶をする。甘える。聞き分けがない。感情が顔へ出すぎる」
「結構あるな」
それでも傷ついた様子はない。むしろ、シンクレアが自分を見てくれていることを喜んでいるようだった。
「でも、嫌なところを一つ見つけたら、全部嫌いになるわけじゃないだろ。分からなければ話せばいいし、腹が立ったら怒ればいい。俺が間違ってたら直す。あんたが間違ってると思ったら、俺も言う」
夫婦とは、おそらくそういうものだとオーレリアンは続けた。
最初から何もかも理解し合い、欠点のない相手を選ぶのではない。知らないことを知り、違う部分を話し合い、共に過ごすうちに互いへ合う形を作っていく。
彼の両親がそうだった。
十七歳離れた長兄とも、十四歳離れた次兄とも、十二歳離れた三兄とも、年齢が違うから分かり合えないと思ったことはない。自分にない経験を持つ相手であれば教えてもらい、自分にできることで相手を支えればよい。
「父上と母上も七つ離れてる。母上の方が若いけど、父上が母上を子ども扱いしてるところなんて見たことがない。大事なことは何でも二人で話してる」
「私たちの場合は、私の方が年上だ」
「それが何か違うのか?」
オーレリアンは本当に分からないという顔をした。
「妻が年上なら、夫婦で話し合えなくなるのか? あんたが五年多く生きてるから、俺が隣に立てなくなるのか?」
「世間は、そう単純には見ない」
「世間と結婚するわけじゃない」
「だが、世間の中で生きることになる」
シンクレアが返すと、オーレリアンは一度黙った。軽く否定せず、彼女の懸念を受け止めるように視線を伏せる。
「陰口を言う奴はいると思う」
やがて、彼は正直に認めた。
「婚約破棄されたから辺境伯家へ嫁いだとか、年下の男を選んだとか。俺にも、身の程知らずだって言う奴がいるかもしれない」
「それでもよいのか」
「よくはない。シンクレアが傷つくのは嫌だ」
声に強さが戻る。
「でも、陰口を言われないためにあんたを諦める方が、俺は嫌だ。言われたら、俺が違うって言う。俺だけじゃ足りないなら、家族にも辺境軍の仲間にも分かってもらう。すぐには変えられなくても、俺たちがちゃんと生きてれば、そのうち黙る奴も増えるだろ」
あまりにも前向きで、理想的すぎる考えだった。
現実はそれほど容易ではない。
一度広まった悪意ある噂は消えず、貴族の評価は本人の努力だけでは変わらないこともある。
それでも、彼が何も考えていないわけではなかった。
困難があることを認めたうえで、それを理由に手を離そうとはしない。二人で向き合うものだと考えている。
「俺は、今のあんたがいい」
オーレリアンはまっすぐに言った。
「若くて綺麗な娘がいるって言われても、俺には関係ない。その人はシンクレアじゃないだろ」
胸の奥へ、言葉が静かに落ちた。
綺麗だからではない。
若いからでもない。
公爵令嬢だからでもない。
自分だから。
そんなふうに選ばれることを、シンクレアは一度も想像したことがなかった。
第二王子との婚約は、家同士の利益によって決められた。王子妃となるために必要な教育を受け、彼に相応しい女性になろうとした。けれど最後まで、シンクレア本人を求められたことはない。
オーレリアンは、王子が不要だと切り捨てた部分を知るたびに、好きだと言う。
それが嬉しい。
同時に、怖かった。
信じてしまえば、失ったときに深く傷つく。
「私は、お前ほど前向きにはなれない」
シンクレアは正直に告げた。
「結婚すれば何とかなるとは思えない。年齢のことも、家格のことも、お前が辺境軍に所属していることも不安だ。任務へ出れば、今日より酷い怪我をするかもしれない。帰らないこともある」
口へ出すほど、恐怖が現実味を帯びていく。
夫になる人間を戦場へ送り出す。
自分も剣を取る身でありながら、待つ側の恐怖を今まで深く考えたことはなかった。オーレリアンが魔角熊に弾き飛ばされた姿を見て初めて、失うかもしれない相手を持つ怖さを知った。
「私が、お前を不幸にするかもしれないとも思う」
「それなら、俺もあんたを不幸にするかもしれない」
「なぜそこで張り合う」
「片方だけが怖がる話じゃないからだ」
オーレリアンは少し笑った。
「俺も不安がないわけじゃない。断られるかもしれないし、結婚しても好きになってもらえないかもしれない。シンクレアが俺よりずっと強くて、頼りないと思われるかもしれない」
「お前は頼りなくない」
思わず言うと、彼の目が僅かに見開かれた。
シンクレアは言葉を引っ込めなかった。
「今日、背中を預けられた。お前がいなければ魔角熊は倒せなかった。それは事実だ」
オーレリアンは、ゆっくりと笑った。嬉しさを露わにしながらも、話を逸らすことはしない。
「ありがとう。でも、俺にも怖いことはある。それでも、シンクレアと一緒にいたい方が大きいんだ」
不安がなくなるまで待っていたら、何も選べない。
傷つかないと確信できる相手などいない。
未来をすべて知ることもできない。
だから、今分かっていることを信じて前へ進む。
それがオーレリアンの生き方なのだろう。
シンクレアには、同じ速さでは進めない。
けれど、彼が先へ走っていくのではなく、こちらが歩き始めるまで待つと言ってくれていることは知っていた。
「すぐに答えを出せとは言わない」
オーレリアンは静かに続けた。
「不安なことは、全部言ってくれればいい。一つずつ話そう。それでも無理だと思ったら、そのときはちゃんと聞く」
最後の言葉には、僅かな痛みが混じっていた。
拒まれる可能性を、彼も分かっている。
前向きに見えるからといって、傷つかないわけではない。ただ、それを理由にシンクレアを急かすことをしない。
彼の好意は強い。
だが、彼女の選択を奪うほど強引ではなかった。
シンクレアは皿へ目を落とす。料理は少し冷め始めていた。
「食事が止まっている」
「あんたが真剣な話を始めたからだろ」
「お前が若い娘の話をさせたのだ」
「俺はさせてない」
「反論するなら自分で食べろ」
「肩が痛い」
また同じ言葉を使う。
シンクレアは呆れたように息を吐いたが、匙を取り直した。冷めた肉と根菜を掬い、オーレリアンの口元へ運ぶ。
彼は少し驚いたように見たあと、素直に口を開いた。
「言っておくが、これは求婚を受けるという意味ではない」
飲み込んだオーレリアンが頷く。
「分かってる」
「怪我人だからだ」
「それも分かってる」
「嬉しそうな顔をするな」
「それは無理だ」
即答に、シンクレアは眉を寄せた。
しかし、もう使用人を呼ぼうとはしなかった。
食事が半分ほど減った頃、オーレリアンが皿ではなく彼女の顔を見つめていることへ気づく。
「何だ」
「さっき、俺を不幸にするかもしれないって言っただろ」
「ああ」
「俺はたぶん、シンクレアと結婚できなかった方が不幸になる」
「大げさだ」
「本当だ」
「十七歳で人生を決めつけるな」
「じゃあ、今の時点では一番不幸ってことにする」
言い換えればよいというものではない。
シンクレアは匙を皿へ置き、彼を睨んだ。オーレリアンは怒られると察したのか、僅かに身構える。
「そのような言い方で、私へ責任を負わせるな」
声は厳しかった。
「お前の幸不幸は、お前自身が背負え。私が求婚を断ったとしても、自分の人生を捨てるようなことを言うな」
オーレリアンはすぐに笑わなかった。
シンクレアの言葉を正面から受け止め、静かに頷く。
「悪かった。言い方を間違えた」
「分かればいい」
「断られたら、すごく落ち込む。でも、シンクレアのせいにはしない。俺が好きになったのも、求婚したのも、自分で決めたことだから」
その答えに、シンクレアは僅かに肩の力を抜いた。
「ただ、受けてもらえたら、すごく幸せになる」
懲りずに付け加える。
「それは今言う必要があるのか」
「今なら伝わると思って」
前向きなのか、図太いのか。
おそらく両方なのだろう。
シンクレアは次の一口を少し大きめに掬い、そのままオーレリアンの口へ入れた。彼は驚きながらも受け止め、頬を僅かに膨らませて噛んでいる。
キララがその姿を見上げ、羨ましそうに鼻を鳴らした。
「お前も欲しいのか」
キララのために取り分けられた肉を小皿へ移すと、白い聖獣はすぐに食べ始めた。
右にはオーレリアン。
左にはキララ。
二人へ順番に食事を与えている状況へ気づき、シンクレアは何とも言えない顔になった。
「どうした?」
オーレリアンが尋ねる。
「まるで、手の掛かる獣を二匹世話している気分だ」
「俺はもう少し扱いが上だと思う」
「自分で食べられないのだから同じだ」
「怪我が治ったら、俺がシンクレアに食べさせる」
「断る」
「まだ頼んでもいない」
「頼むつもりだっただろう」
「分かるようになってきたな」
満足そうに言われ、シンクレアは匙で皿の底を軽く叩いた。オーレリアンはすぐに口を閉ざしたものの、笑みまでは消せていない。
食事が終わる頃には、窓の外は深い藍色へ変わっていた。部屋の燭台へ火が灯され、壁に二人と一匹の影が揺れている。外では夜番の騎士が交代する声が聞こえ、遠くの森から鳥とも獣ともつかない鳴き声が届いた。
シンクレアは空になった皿を盆へ戻し、布でオーレリアンの口元を拭こうとした。だが、途中で自分が何をしようとしているのかへ気づき、手を止める。
オーレリアンは当然のように待っていた。
「自分で拭け」
布を渡すと、彼は右手で受け取った。
「ここまで食べさせてくれたのに?」
「調子に乗るな」
「はい」
返事だけは素直である。
口元を拭いたあと、オーレリアンは再び枕へ身体を預けた。食事を終えた安心と、戦いの疲労が戻ってきたのだろう。瞼が僅かに重くなっている。
シンクレアは盆を持ち上げ、立ち上がった。
「もう休め」
「シンクレアは?」
「父上たちの話を聞いてから、自室へ戻る」
「今日は来てくれてありがとう」
まっすぐな礼に、シンクレアは一瞬言葉を詰まらせた。
食事を運び、世話をしたのは自分の意思である。頼まれたから仕方なく行ったことではない。だからこそ、礼を言われると落ち着かない。
「お前が怪我をした原因の一部は私だ」
「違う。魔物が原因だ」
「私を受け止めたから傷ついた」
「受け止めるって決めたのは俺だ」
何を言っても、自分を責めさせてはくれない。
シンクレアは彼を見つめた。オーレリアンも穏やかな目で見返している。
不安が消えたわけではない。
五歳の年齢差も、婚約破棄された過去も、辺境軍に生きる彼との未来も、考え始めれば怖いことばかりだった。
しかし、不安だから離れるのではなく、言葉へして話せばよいのだと、少しだけ思えるようになった。
彼は何でも楽観しているわけではない。
恐れるものを認めたうえで、共に進む道を探そうとしている。
その姿勢なら、信じてみてもよいのかもしれない。
まだほんの少しだけ。
「明日も来てくれる?」
オーレリアンが尋ねた。
期待が顔に出ている。
キララも同時にシンクレアを見上げ、尾を床へ打ちつけた。
また二人で同じ顔をしている。
シンクレアの口元が自然に緩んだ。
「大人しくしていたら考える」
「絶対に大人しくする」
「先ほど、明日には歩けると言っていただろう」
「今から考えを改めた」
「信用できないな」
「じゃあ、キララに見張ってもらう」
名を出されたキララが誇らしげに胸を張る。しかし彼女もオーレリアンを止めるより、共に部屋を抜け出す側に回りそうだった。
「見張り役が一番信用できない」
シンクレアが言うと、オーレリアンが笑った。
その笑い声を聞きながら、彼女は扉へ向かう。部屋を出る前に一度だけ振り返ると、オーレリアンはまだこちらを見ていた。
「おやすみ、シンクレア」
「おやすみ、オーレリアン」
自然に返したあと、扉を閉じる。
廊下へ出ると、客室の温かさが途切れ、夜の冷たい空気が頬へ触れた。盆を抱えたまま歩き出したシンクレアの耳には、先ほど交わした言葉が残っている。
『今のあんたがいい』
『その人はシンクレアじゃないだろ』
何度思い返しても、胸の奥が熱を持った。
階段を下りる途中、窓の外には星が浮かび始めていた。長い一日だった。朝に剣を交え、魔物の群れと戦い、オーレリアンが傷つき、馬車の中で手を握った。夕食を食べさせ、これまで誰にも話せなかった不安を口にした。
一日で距離が近づきすぎたようにも思う。
それでも、不快ではない。
むしろ明日、彼とまた話すことを考えている自分がいる。
求婚への答えは、まだ決められない。
ただ、以前よりも前を向いて考えられるようになっていた。
誰かに選ばれるために自分を変えるのではない。
今の自分を選ぶと言う男の隣で、どのように生きたいのか。
それを考えてよいのだと、初めて思えた。
シンクレアは窓辺で一度足を止め、夜空を見上げた。
不安は消えない。
だが、その向こうに見える未来を、もう恐れるだけではなくなっていた。




