五つの歳月
治癒術師の診察が終わったのは、傾き始めた陽が山の稜線へ触れ、屋敷の西側に長い影を落とし始めた頃だった。
客室の扉が開くと、薬草と消毒液の青い匂いが廊下へ流れ出した。
白い外套をまとった治癒術師は、待っていたアルベルトへ診察の結果を手短に伝えた。
オーレリアンの背中には広い範囲に打撲が残り、左肩には軽度の筋損傷が認められる。
骨折や内臓の損傷はなく、命に関わる状態ではない。
数日間安静にし、治癒術を受けながら身体を休めれば、後遺症もなく回復するだろう。
ただし、痛みが引くまでは剣を握ることも、馬へ乗ることも禁じられた。寝台から起き上がるときには必ず誰かの手を借り、上体を急に捻らないこと。
傷が塞がったように見えても、治癒術師の許可が下りるまでは鍛錬へ戻らないこと。
その説明を受けている間、オーレリアンは寝台の上で露骨に不満そうな顔をしていた。
怪我を軽く見ているわけではない。軍人として、治療を怠ればその後の任務へ支障を来すことも理解している。治りきらない傷を抱えたまま戦場へ戻る愚かさは、これまで何度も周囲から教え込まれてきた。
それでも、じっと寝ていること自体が彼の性には合わないらしい。
治癒術師が道具を片づけている間にも、明日の朝には歩いてよいか、庭へ出る程度なら問題ないか、剣を持たずに型だけ確かめるのはどうかと、次々に尋ねていた。
返ってくる答えは、すべて同じだった。
許可が出るまで寝ていろ。
最後にはアルベルトからも低い声で念を押され、オーレリアンはようやく諦めたように枕へ身体を沈めた。
しかし、窓の外を横切る鳥へ向けられた目には、檻へ入れられた獣のような色が浮かんでいる。
シンクレアは、その診察へ立ち会わなかった。
廊下の奥にある応接室には、両家の当主と騎士団長、森の警備を担う者たちが集まっている。今回の襲撃について、すでに話し合いが始まっていた。
魔狼の群れを従えていた魔角熊は、森の奥深くに棲む個体としても異常なほど巨大で、体内に蓄えた魔力も尋常ではなかった。
あれほどの魔物が以前から近隣の森へ潜んでいたなら、巡回の騎士や狩人が何らかの痕跡を見つけていたはずである。
樹皮へ残された爪痕、餌となった獣の死骸、地面へ刻まれた足跡。巨大な身体を隠したまま、長い間まったく痕跡を残さず生きることなどできない。
それが見つかっていなかったということは、最近になって別の場所から移動してきた可能性が高い。
自然な移動だったのか。
より強い魔物に縄張りを追われたのか。
あるいは、何者かの手によって人里へ近づけられたのか。
現時点では、何も分からない。
父も兄も、夜になっても協議を続けるつもりらしい。騎士たちはすでに装備の点検を始め、日が完全に沈む前に森の周辺を封鎖する準備へ入っていた。
シンクレアも、本来ならそこへ加わるべきだった。
魔角熊と直接剣を交え、その動きを最も近くで見た者として、伝えられることは多い。戦いの最中に感じた違和感も、魔狼たちの統率された動きも、今後の調査に必要な情報となるだろう。
それにもかかわらず、血と泥に汚れた衣服を脱ぎ、身体を洗い、自室で新しい服へ着替えたあとも、意識は廊下の向こうにある客室へ引かれ続けていた。
オーレリアンは眠っているだろうか。
肩の痛みは強くなっていないか。
夕食をきちんと取れるのか。
治癒術師から命に関わる怪我ではないと聞いている。身体を休ませれば治る。後遺症も残らない。
分かっている。
それでも、馬車の中で見た彼の顔が消えなかった。
痛みを隠そうとしながら、浅い呼吸を繰り返していた。額には汗が浮かび、身体が揺れるたびに唇がわずかに歪んでいた。
それでも彼は、自分よりシンクレアの状態を気にしていた。
自室の窓辺には、洗い終えたキララが丸くなっていた。
魔物の血と泥を落とした白い毛は、まだ完全には乾いていない。柔らかな毛先がところどころ細い束になり、窓から入る夕風に揺れている。
普段であれば、身体を洗われたあとは敷物の上で長く眠る。しかし今夜のキララは落ち着かないらしく、扉の向こうで足音がするたびに顔を上げていた。
「お前まで落ち着かないのか」
声を掛けると、キララは当然だと言わんばかりに尾を一度だけ床へ打ちつけた。
乾ききっていない毛から、水と石鹸の匂いがした。
シンクレアは小さく息を吐いた。
自分も同じだとは、認めたくなかった。
見舞うだけならば、不自然なことではない。
共に戦い、自分を庇って負傷した相手である。しかも彼はエルフレイム家の子息であり、公爵家へ招いた客人でもあった。屋敷の者として様子を確かめることは、当然の気遣いと言える。
痛みが強くないか尋ねるだけだ。
夕食を取ったか確かめるだけだ。
そのように理由を並べながら立ち上がった時点で、すでに答えは出ていた。
キララも待っていたように身を起こした。
部屋を出たシンクレアは、客室へ続く廊下の途中で、夕食を運んでいる使用人と行き合った。
銀の盆の上には、深い皿へ盛られた煮込み料理が載っている。肉と根菜を柔らかく煮たものらしく、湯気とともに香草の匂いが漂っていた。薄く切られたパンと果実水も添えられている。
負傷者でも食べやすいものを厨房が選んだのだろう。
「それはオーレリアンのものか」
「はい、シンクレア様」
使用人が足を止め、丁寧に頭を下げる。
シンクレアは盆へ視線を落とした。温かい湯気が頬へ触れる。
「私が持っていく」
口へしたあとで、自分でも少し言葉が早かったと思った。
使用人も一瞬だけ目を見開いたが、理由を尋ねることはしなかった。すぐに盆を差し出し、静かに一礼する。
「お願いいたします」
盆を受け取ると、両手へほのかな温かさが伝わった。
背後では、キララが尾を揺らしている。
待っていましたとでも言いたげな様子に、シンクレアはわずかに眉を寄せた。
「お前は騒ぐな」
キララは返事の代わりに鼻を鳴らした。
客室の前へ着き、シンクレアが扉を叩くと、中からすぐに返事があった。
「どうぞ」
思っていたよりもしっかりした声だった。
そのことへ安堵した自分に気づき、シンクレアは視線をわずかに伏せてから扉を開けた。
部屋の中には、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。
窓の外では陽が山の向こうへ半ば沈み、空の青へ薄い橙色が混ざっている。まだ燭台へ火は入れられておらず、室内には昼と夜の境目のような静けさが満ちていた。
オーレリアンは寝台へ半身を起こしていた。
背中にはいくつもの枕が重ねられ、身体を支えるように置かれている。
濃紺の騎士服から白い薄手の部屋着へ替えていたため、普段より肩の線が柔らかく見えた。
湯で身体を拭いたのだろう。黒髪はまだ少し湿り、額へ無造作に落ちている。顔色は悪くない。呼吸も落ち着いていた。
シンクレアの胸の奥にあった硬いものが、わずかに緩んだ。
オーレリアンは、盆を持つ彼女を見るなり目を大きくした。
「シンクレア」
声が明るくなる。
ほとんど同時に、足元のキララが尾を大きく振った。
一人と一匹の反応を見比べ、シンクレアは昼間に自分が口へした言葉を思い出した。
感情の表れ方が、あまりにも似ている。
オーレリアンにも尾があれば、キララと同じ速さで振っていたに違いない。
「夕食だ」
「持ってきてくれたのか?」
「廊下で使用人と会っただけだ」
「それでも、ここまで運んでくれたんだろ」
わずかなことからでも、自分に都合のよい喜びを見つける。
これまでならば、違うと否定していたかもしれない。だが、否定すればするほど彼が嬉しそうになることを、シンクレアは少しずつ理解し始めていた。
何も答えず、寝台脇の卓へ盆を置く。
キララがすぐにオーレリアンのそばへ寄った。
前足を寝台へ掛けようとしたところで、シンクレアが低く名を呼ぶ。キララは動きを止め、少し不満そうに耳を伏せたあと、床へ腹をつけた。
黒い瞳だけは、オーレリアンの顔へ向けられたままだった。
「治癒術師からは何と言われた」
シンクレアが椅子を引き、寝台の横へ座る。
「数日間、大人しくしていろって」
「そのとおりにしろ」
「明日には歩けると思う」
「思うだけにしておけ。許可が出るまで動くな」
「父上と同じことを言うんだな」
「正しいことは、誰が言っても同じだ」
即座に返すと、オーレリアンはわずかに肩を落とした。
しかし、落ち込んだのはほんの一瞬だった。
料理から立ち上る湯気が二人の間を通り過ぎる。煮込まれた肉と香草の匂いを感じた途端、オーレリアンの視線が皿へ吸い寄せられた。
戦いのあと、まともに何も口へしていない。空腹なのだろう。
「食べろ」
「そのつもりだけど、盆を膝に載せるのは少し怖いな」
オーレリアンが右手を伸ばす。
身体を捻らないよう慎重に動いたつもりだったのだろう。しかし皿を取ろうとしただけで左肩がわずかに動き、眉間へ小さな皺が寄った。
その変化を、シンクレアは見逃さなかった。
「痛むのか」
「少しだけ」
平然と答えようとしているが、声が先ほどよりわずかに低い。
シンクレアは皿へ伸びた彼の手を見た。剣を握るために鍛えられた大きな手。その指が、痛みを堪えるように一度だけ縮む。
「無理をするな。使用人を呼ぶ」
卓の端に置かれた呼び鈴へ手を伸ばそうとしたところで、オーレリアンの声が止めた。
「シンクレアが食べさせてくれればいい」
あまりにも自然な調子だった。
シンクレアの手が、呼び鈴へ届く前に止まる。
数拍遅れて、顔だけを彼へ向けた。
「何だと?」
「身体を動かすなって言ったのは、あんただろ」
「自分で食べられないほどの怪我ではない」
「食べようとしたら、痛そうな顔をしたって言ったばかりだ」
「痛そうな顔をしたとは言っていない」
「顔がそう言ってた」
その言葉に、シンクレアは口を閉じた。
昼間、自分が彼へ向けた言葉だった。
言い返そうとしたものの、適切な言葉が見つからない。
オーレリアンは、期待を隠そうともせず彼女を見ている。金色の瞳は明るく、唇には今にも笑みが浮かびそうだった。
ただし、自分から皿へ手を伸ばすことはしない。
断られれば無理強いはしないつもりなのだろう。頼みはしたが、選ぶのはシンクレアだと分かっている。
その態度が、かえって断りにくい。
「使用人を呼ぶ」
「シンクレアがいい」
「なぜだ」
「好きな人に食べさせてもらえる機会なんて、そう何度もないだろ」
「普通は一度もない」
「なら、今が最初だな」
あまりにも都合がよい。
シンクレアは黙ったまま、オーレリアンを見つめた。
彼は冗談を言っているようで、その実、目だけはまっすぐだった。傷が痛むことも事実だろう。しかし、使用人ではなくシンクレアに食べさせてもらいたいという望みが含まれていることは、誰の目にも明らかだった。
寝台の脇へ伏せていたキララが、二人の顔を交互に見る。
やがて、オーレリアンの膝へ鼻先を寄せた。
まるで、早く食べさせてやれと催促しているようだった。
「お前まで味方をするのか」
シンクレアが呟くと、キララは尾を一度振った。
「ほら、キララも頼んでる」
「勝手にキララの意思を決めるな」
「違うのか?」
問いかけられた白い聖獣は、再び尾を振った。
シンクレアは目を閉じ、深く息を吐いた。
負傷者へ食事を取らせるだけだ。
ほかに意味はない。
そう自分へ言い聞かせながら、皿を手元へ引き寄せる。
匙を持ち、肉と根菜を小さく崩す。汁が垂れないよう量を調整し、慎重に掬い上げた。
視線を上げると、オーレリアンは嬉しそうに口を開いていた。
「待て」
思わず止めると、彼は素直に動きを止めた。
「何だ?」
「その顔をやめろ」
「どんな顔?」
「……嬉しそうな顔だ」
「嬉しいんだから仕方ないだろ」
隠すという発想がない。
本当にキララと同じである。
シンクレアは不本意そうに眉を寄せたまま、匙を彼の口元へ運んだ。
オーレリアンは身を乗り出すことなく、差し出された匙を素直に口へ含む。ゆっくり噛み、喉を動かして飲み込んだ。
その様子を間近で見守ることへ、奇妙な居心地の悪さがあった。
剣を交えるときには、相手の呼吸や視線をどれほど近くで感じても気にならない。戦場では肩を並べ、互いの身体が触れるほど接近しても、周囲の状況を把握することで精一杯だった。
魔角熊の一撃を受けたとき、オーレリアンに抱き止められた。胸へ背中がぶつかり、腕が身体を囲んだ。その瞬間でさえ、恥じらう余裕などなかった。
今は違う。
静かな部屋で、食事を口へ運んでいるだけだった。
匙を差し出すたび、オーレリアンの唇がわずかに開く。料理を受け入れ、噛み、飲み込む。その一連の動きが目へ入り、シンクレアはどこへ視線を置けばよいのか分からなくなった。
「おいしい」
「厨房へ言え」
「シンクレアが食べさせてくれるから、もっとおいしい」
「次に余計なことを言ったら、使用人を呼ぶ」
「余計なことじゃないけど、黙る」
そう答えたあとは、本当に口を閉ざした。
食べるときだけ素直に口を開き、咀嚼が終われば次を待つのだが、金色の瞳に浮かんだ喜びまでは隠せていない。
シンクレアが匙を動かすたび、その目がついてくる。まるで、食事そのものより、彼女がここにいることを喜んでいるようだった。
足元では、キララも同じような目で皿を見つめている。
「お前には、あとで別のものをやる」
シンクレアが告げると、キララは理解したように耳を動かした。
その横で、オーレリアンも次の匙を待っている。
「お前はキララより手が掛かるな」
「今は反論しない方が、食べさせてもらえる気がする」
「そこまで分かっているなら、自分で食べろ」
「肩が痛い」
途端に弱々しい声になる。
先ほどまで平然と話していた男とは思えない。
痛みがあること自体は嘘ではない。だが、必要以上に強調していることも分かる。
シンクレアは呆れながら、次の一口を掬った。
「甘えるのが上手いな」
「末っ子だから」
「兄が三人いるのだったな」
「ああ。皆、年が離れてる」
料理を飲み込んでから、オーレリアンは答えた。
長兄レオンは三十四歳。次兄カイルは三十一歳。三兄ガイアスは二十九歳。十七歳のオーレリアンとは、最も年齢の近いガイアスでさえ十二歳離れている。
シンクレアは匙の先で、柔らかく煮えた根菜を小さく割った。
「それだけ離れていれば、幼い頃は随分と甘やかされたのではないか」
「兄上たちは否定するだろうけど、たぶん甘やかされてた」
「自覚はあるのか」
「今でも、困ったら助けてくれる。ガイアス兄上は軍だと容赦ないけど」
オーレリアンの所属する辺境軍第一遊撃隊を率いるのが、そのガイアスである。
家では優しい兄でも、任務中には厳格な上官となるのだろう。今日の怪我を知られれば、心配されるより先に無茶を叱られるかもしれない。
それでも、兄について語るオーレリアンの声には、揺るぎない信頼があった。
年齢が離れていることを、彼は寂しいものとも、不都合なものとも考えていないらしい。
自分より長く生き、多くを知る者たちへ囲まれて育ったことを、当然のように受け入れている。
シンクレアは、匙を皿の中へ戻した。
小さな金属音が、静かな部屋へ落ちる。
「お前は」
自分でも、声が先ほどまでより低くなったことが分かった。
「年齢の差が気にならないのか」
オーレリアンはすぐに答えなかった。
問いの奥に、兄たちの話とは別の意味があることへ気づいたのだろう。
食事を待っていた明るい表情が消える。金色の瞳が、まっすぐシンクレアへ向けられた。
「五歳のことか?」
「ああ」
「気にならない」
迷いのない即答だった。
シンクレアは眉を寄せる。
「少しは考えろ」
「考えたうえで、気にならないんだ」
「お前は十七歳だ」
そこまで言って、一度言葉が止まった。
皿の上では、薄い湯気がまだわずかに立っている。窓の外では夕暮れが深まり、橙色だった空がゆっくり青へ沈み始めていた。
「もっと歳の近い娘がいるだろう」
口へすると、胸の中で形を持たなかった不安が、急に輪郭を得た。
オーレリアンは若い。
十七歳なら、本来はこれから多くの人と出会う年齢である。王都の社交界へ出れば、彼と同じ年頃の令嬢などいくらでもいる。
婚約を破棄された過去もなく、王子との噂を背負ってもいない。
彼の明るさに似合う、よく笑う娘もいるだろう。愛らしく、素直で、夫の後ろへ静かに立つことのできる女性もいる。
なぜ、五歳も年上の自分なのか。
剣ばかり握り、愛想もなく、社交の場では冷たいと評されてきた女。
第二王子から、女らしくないと切り捨てられた女。
あの婚約破棄を目にした勢いで、同情と憧れを恋情だと思い込んでいるだけではないのか。
「私より若くて、綺麗な娘はいくらでもいる」
シンクレアは皿へ視線を落とした。
オーレリアンの顔を見たままでは、最後まで言えない気がした。
「お前なら選べるはずだ。家格の釣り合う令嬢も、明るく愛想のよい女性もいる。私のように剣を振るい、夫より前へ出るような女を、わざわざ選ぶ必要はない」
言い終えると、部屋がひどく静かになった。
外から聞こえていた騎士たちの足音さえ、遠ざかったように感じられる。
キララも動かない。
床へ伏せたまま、黒い瞳でシンクレアを見上げている。
オーレリアンは、すぐには言葉を返さなかった。
軽い調子で否定されることを、シンクレアはどこかで恐れていた。
そんなことは関係ない。
好きなのだから、それでよい。
そう言われても、不安は消えない。
気持ちだけで乗り越えられるものではないと、彼女は長い婚約の中で知っている。
恋情は変わる。
美しさは衰える。
今は魅力に見える強さも、妻が自分より前へ出る姿を見続ければ、いずれ疎ましくなるかもしれない。
剣を持つことを許していた男が、ある日突然、それを恥じ始めることもある。
もっと女らしくしろ。
剣を置け。
笑え。
夫を立てろ。
何度も聞かされた言葉が、記憶の底から蘇る。
それらはすでに第二王子の声ではなかった。
長く浴び続けたせいで、自分自身の声へ変わっていた。
オーレリアンは、皿ではなくシンクレアの顔を見続けている。
しばらくして、穏やかな声で問い返した。
「俺が、若くて綺麗な娘を選びたいって言ったか?」
シンクレアは答えなかった。
言っていない。
彼は一度も、そのような望みを口へしていない。
「年が近い方がいいとも?」
それも、言っていない。
シンクレアの指が、膝の上でわずかに強く組まれる。
オーレリアンは責めるような声を出さなかった。ただ、逃げ道を塞ぐのではなく、彼女自身が抱えているものへ気づかせるように続ける。
「なら、それは誰の望みなんだ?」
シンクレアは答えられなかった。
世間の望み。
貴族社会の常識。
夫より妻が若く、柔らかく、愛想よくあるべきだという価値観。
そして、第二王子から長く向けられてきた言葉。
それらを自分の不安として抱え込み、オーレリアンも同じものを望むはずだと決めつけていた。
「俺は、娘を選びに来たわけじゃない」
オーレリアンの声が、静かに落ちる。
「若い女の中から一番綺麗な人を探して、妻にしたいと思ったわけでもない」
そこで一度、彼は息を吸った。
「シンクレアを好きになったから、シンクレアに求婚したんだ」
「だが、お前は私をほとんど知らない」
「だから知りたいって言った」
迷いのない返答だった。
「昨日より今日は、あんたのことを知ってる」
オーレリアンは少しだけ視線を和らげた。
「剣を振るってるときは、普段より楽しそうにする。人前では口数が少ないけど、言葉を適当に使わない。怪我をした相手を放っておけない。心配してても、心配してるって素直には言えない」
シンクレアはゆっくり顔を上げた。
オーレリアンは指を折って数えることもなく、一つずつ丁寧に言葉を重ねていく。
「笑うと、すごく綺麗だ。キララを家族として大切にしてる。強いのに、自分が誰かを傷つけることを怖がってる」
金色の瞳が、シンクレアから逸れない。
「それから、嫌だって言いながら、怪我人に食事を食べさせてくれる」
「最後は、お前が無理に頼んだのだろう」
思わず返すと、オーレリアンの口元が少しだけ緩んだ。
「断ろうと思えば断れた」
「負傷者を空腹のままにできるか」
「そういうところが好きなんだ」
あまりにも自然に言われ、シンクレアは言葉を失った。
オーレリアンは笑っていなかった。
好意を押しつけるときの勢いも、相手を言いくるめようとする調子もない。
ただ、自分が見つけたものを、そのまま伝えている。
「もっと知ったら」
シンクレアは低く言った。
「嫌いになるかもしれない」
オーレリアンはすぐには答えず、少しだけ考えた。
その短い沈黙が、シンクレアの胸を締めつける。
やがて彼は、ゆっくり口を開いた。
「そういうことが絶対にないとは言わない」
予想していなかった言葉に、シンクレアは目を見開いた。
彼ならば、何を知っても嫌いにはならないと言うのだと思っていた。
「俺だって人間だから」
オーレリアンは続ける。
「喧嘩することもあると思う。あんたの考えが分からなくて困ることもあるだろうし、シンクレアだって、俺の嫌なところを見つけるだろ」
「すでに見つけている」
「例えば?」
「無茶をする。甘える。聞き分けがない。感情が顔へ出すぎる」
一つずつ挙げると、オーレリアンは少し目を丸くした。
「結構あるな」
傷ついた様子はなかった。
むしろ、シンクレアが自分を見ていたことを喜んでいるようにさえ見える。
「でも、嫌なところを一つ見つけたからって、全部嫌いになるわけじゃないだろ」
オーレリアンの声は穏やかだった。
「分からなければ話せばいい。腹が立ったら怒ればいい。俺が間違ってたら直す。あんたが間違ってると思ったら、俺も言う」
「簡単に言うな」
「簡単だとは思ってない」
返事は少し遅れた。
シンクレアの言葉を軽く否定せず、受け止めてから答えを選んだようだった。
「でも、最初から何もかも分かる相手なんていないだろ。知らないことを知って、違うところがあったら話して、それでも一緒にいたいと思える形を作っていくんじゃないのか」
それが夫婦というものだと、彼は言った。
彼の両親も、そうして暮らしてきたのだろう。
十七歳離れた長兄とも、十四歳離れた次兄とも、十二歳離れた三兄とも、年齢が違うから分かり合えないと思ったことはない。
自分にない経験を持つ者からは教えてもらう。
自分にできることで、相手を支える。
オーレリアンにとって、それは特別な考えではなく、家族の中で身につけた自然なものなのだろう。
「父上と母上も七つ離れてる」
彼は少しだけ枕へ身体を預け直した。
肩が痛んだのか、動きの途中で呼吸が一度止まる。
それでも、話すことはやめなかった。
「母上の方が若いけど、父上が母上を子ども扱いしてるところなんて見たことがない。大事なことは、何でも二人で話してる」
「私たちの場合は、私の方が年上だ」
「それが何か違うのか?」
オーレリアンは、本当に分からないという顔をした。
「妻が年上なら、夫婦で話し合えなくなるのか。あんたが五年多く生きてるから、俺が隣に立てなくなるのか」
「世間は、そう単純には見ない」
「世間と結婚するわけじゃない」
反射的に返した言葉だった。
シンクレアはすぐに答える。
「だが、世間の中で生きることになる」
オーレリアンは黙った。
すぐに言い返さなかった。
視線を皿へ落とし、唇をわずかに引き結ぶ。自分の言葉が足りなかったことへ気づいたのだろう。
窓の外では、最後の陽が山の向こうへ消えた。
部屋の中が一段暗くなり、オーレリアンの横顔へ青い影が落ちる。
「陰口を言う奴はいると思う」
しばらくして、彼は正直に認めた。
「婚約破棄されたから辺境伯家へ嫁いだとか、年下の男を選んだとか。俺にも、身の程知らずだって言う奴がいるかもしれない」
「それでもよいのか」
「よくはない」
声に強さが戻った。
「シンクレアが傷つくのは嫌だ」
彼は一度だけ、右手を握った。
すぐ近くにいるのに、その手を伸ばすことはしない。
「でも、陰口を言われないためにあんたを諦める方が、俺は嫌だ」
シンクレアは何も言わなかった。
「言われたら、俺が違うって言う。俺だけじゃ足りないなら、家族にも、辺境軍の仲間にも分かってもらう。すぐには変えられなくても、俺たちがちゃんと生きてれば、黙る奴も少しずつ増えると思う」
あまりにも前向きで、理想的な考えだった。
現実は、それほど容易ではない。
一度広まった噂は簡単には消えない。貴族社会の評価は、本人たちの努力だけで変えられないこともある。
それでも、オーレリアンが何も考えていないわけではなかった。
困難があることを認めたうえで、それを理由に手を離そうとはしない。
自分一人で守るとも言わない。
家族や仲間へ理解を求め、二人で生きる場所を作ろうとしている。
「俺は、今のあんたがいい」
オーレリアンはまっすぐに言った。
「若くて綺麗な娘がいるって言われても、俺には関係ない」
一度だけ息を置く。
「その人は、シンクレアじゃないだろ」
胸の奥へ、言葉が静かに落ちた。
綺麗だからではない。
若いからでもない。
公爵令嬢だからでもない。
自分だから。
そのように選ばれることを、シンクレアは一度も想像したことがなかった。
第二王子との婚約は、家同士の利益によって決められたものだった。
王子妃となるために必要な教育を受け、彼に相応しい女性になろうとした。
剣を置けと言われれば、稽古の時間を減らした。
笑えと言われれば、鏡の前で口元を整えた。
けれど最後まで、シンクレア本人を求められたことはなかった。
オーレリアンは、王子が不要だと切り捨てた部分を知るたびに、好きだと言う。
それが嬉しい。
同時に、怖かった。
信じてしまえば、失ったときに深く傷つく。
「私は、お前ほど前向きにはなれない」
シンクレアは正直に告げた。
「結婚すれば何とかなるとは思えない。年齢のことも、家格のことも、お前が辺境軍に所属していることも不安だ」
言葉にするたび、胸の奥へ押し込めていた恐怖が形を持つ。
「任務へ出れば、今日より酷い怪我をするかもしれない」
オーレリアンの背中へ残る打撲を思い出す。
魔角熊へ弾き飛ばされた身体。
地面へ叩きつけられた音。
馬車の中で握った熱い手。
「帰らないこともある」
最後の言葉だけは、声がわずかに掠れた。
夫となる人間を戦場へ送り出す。
自分も剣を取る身でありながら、待つ側の恐怖を、これまで深く考えたことはなかった。
オーレリアンが魔角熊に弾き飛ばされた姿を見て初めて、失うかもしれない相手を持つ怖さを知った。
「私が、お前を不幸にするかもしれないとも思う」
オーレリアンはすぐに答えなかった。
右手を寝具の上へ置いたまま、シンクレアを見ている。
「それなら」
やがて彼は口を開いた。
「俺も、あんたを不幸にするかもしれない」
「なぜそこで張り合う」
「片方だけが怖がる話じゃないからだ」
少しだけ笑ったが、その声は軽くなかった。
「俺にも、不安はある」
シンクレアは黙って続きを待つ。
「断られるかもしれない。結婚できても、好きになってもらえないかもしれない。シンクレアが俺よりずっと強くて、頼りないと思われるかもしれない」
「お前は頼りなくない」
言葉が、考えるより先に出た。
オーレリアンの目がわずかに見開かれる。
シンクレアは、今さら引っ込めなかった。
「今日、お前へ背中を預けられた」
戦いの中で、後ろを任せた。
剣を振るう者にとって、それがどれほど大きな信頼か、オーレリアンにも分かるはずだった。
「お前がいなければ、魔角熊は倒せなかった。それは事実だ」
オーレリアンの口元が、ゆっくりと緩んだ。
嬉しさが顔へ浮かぶ。
しかし、彼はその言葉へ浮かれるだけで、話を逸らそうとはしなかった。
「ありがとう」
低く、真剣な声だった。
「でも、俺にも怖いことはある。それでも、シンクレアと一緒にいたい気持ちの方が大きいんだ」
不安がなくなるまで待っていたら、何も選べない。
傷つかないと確信できる相手などいない。
未来をすべて知ることもできない。
だから、今分かっているものを信じて進む。
それが、オーレリアンの生き方なのだろう。
シンクレアには、同じ速さでは進めない。
彼のように迷いなく前へ踏み出すことはできない。
それでも、オーレリアンが先へ走っていくのではなく、彼女が歩き始めるまで待つと言ってくれていることは分かっていた。
「すぐに答えを出せとは言わない」
オーレリアンは静かに続けた。
「不安なことは、全部言ってくれればいい。一つずつ話そう」
視線は穏やかだった。
「それでも無理だと思ったら、そのときはちゃんと聞く」
最後の言葉へ、わずかな痛みが混じった。
拒まれる可能性を、彼も理解している。
前向きに見えるからといって、傷つかないわけではない。
それでも、自分が傷つくことを理由にシンクレアを急かそうとはしない。
彼の好意は強いが、彼女の選択を奪うほど強引ではなかった。
シンクレアは、皿へ目を落とした。
話している間に、料理は少し冷め始めている。
表面に浮いていた湯気は、もうほとんど見えなかった。
「食事が止まっている」
「あんたが真剣な話を始めたからだろ」
「お前が若い娘の話をさせたのだ」
「俺はさせてない」
「反論するなら自分で食べろ」
「肩が痛い」
また同じ言葉を使う。
声まで少し弱々しくしている。
シンクレアは呆れたように息を吐いたが、匙を取り直した。
冷めかけた肉と根菜を掬い、オーレリアンの口元へ運ぶ。
彼は少し驚いたように彼女を見たあと、素直に口を開いた。
「言っておくが」
シンクレアは、彼が飲み込むのを待ってから告げた。
「これは求婚を受けるという意味ではない」
「分かってる」
「怪我人だからだ」
「それも分かってる」
「嬉しそうな顔をするな」
「それは無理だ」
即答だった。
シンクレアは眉を寄せる。
しかし、もう呼び鈴へ手を伸ばそうとはしなかった。
何口か食べさせたあと、オーレリアンの視線が皿ではなく、自分の顔へ向いていることへ気づく。
「何だ」
「さっき」
オーレリアンは少し言いづらそうに口を開いた。
「俺を不幸にするかもしれないって言っただろ」
「ああ」
「俺はたぶん、シンクレアと結婚できなかった方が不幸になる」
シンクレアの手が止まった。
「大げさだ」
「本当だ」
「十七歳で人生を決めつけるな」
「じゃあ、今の時点では一番不幸ってことにする」
言い換えればよいというものではない。
シンクレアは匙を皿へ置き、まっすぐオーレリアンを見た。
彼は怒られると察したのか、僅かに身構える。
「そのような言い方で、私へ責任を負わせるな」
声は厳しかった。
「お前の幸不幸は、お前自身が背負え」
オーレリアンの笑みが消える。
「私が求婚を断ったとしても、それを理由に自分の人生を捨てるようなことを言うな」
部屋へ、再び静けさが戻った。
シンクレアは目を逸らさない。
オーレリアンも、すぐには言い訳をしなかった。
自分の言葉を振り返るように一度視線を伏せ、それから静かに頷いた。
「悪かった」
声に軽さはなかった。
「言い方を間違えた」
「分かればいい」
「断られたら、すごく落ち込む」
オーレリアンは正直に続けた。
「でも、シンクレアのせいにはしない。俺が好きになったのも、求婚したのも、自分で決めたことだから」
その答えを聞き、シンクレアはわずかに肩の力を抜いた。
オーレリアンは、その変化を見逃さなかったらしい。
「ただ」
懲りずに言葉を足す。
「受けてもらえたら、すごく幸せになる」
「それは今、言う必要があるのか」
「今なら伝わると思って」
前向きなのか、図太いのか。
おそらく、両方なのだろう。
シンクレアは次の一口を少し大きめに掬い、そのままオーレリアンの口へ入れた。
彼は目を見開いたが、吐き出すこともできず、頬をわずかに膨らませたまま噛んでいる。
足元のキララが、その姿を見上げて鼻を鳴らした。
羨ましそうな声だった。
「お前も欲しいのか」
キララのために取り分けられていた肉を、小皿へ移す。
白い聖獣はすぐに身を起こし、勢いよく食べ始めた。
寝台にはオーレリアン。
足元にはキララ。
その間に座り、一人と一匹へ順番に食事を与えている状況へ気づき、シンクレアは何とも言えない顔になった。
「どうした?」
オーレリアンが尋ねる。
「まるで、手の掛かる獣を二匹世話している気分だ」
「俺は、もう少し扱いが上だと思う」
「自分で食べられないのだから同じだ」
「怪我が治ったら、今度は俺がシンクレアに食べさせる」
「断る」
「まだ頼んでもいない」
「頼むつもりだっただろう」
オーレリアンは、少しだけ目を細めた。
「分かるようになってきたな」
満足そうに言われ、シンクレアは匙で皿の底を軽く叩いた。
金属音が鳴る。
オーレリアンはすぐに口を閉ざしたが、笑みまでは消せていない。
食事が終わる頃には、窓の外は深い藍色へ変わっていた。
いつの間にか燭台へ火が灯され、壁には二人と一匹の影が揺れている。
外では夜番の騎士が交代する声が聞こえた。遠くの森からは、鳥とも獣ともつかない鳴き声が届く。
昼間の戦いが、遠い出来事のようにも感じられた。
シンクレアは空になった皿を盆へ戻した。
卓の上に置かれていた布を取り、オーレリアンの口元へ伸ばしかける。
途中で、自分が何をしようとしているのかへ気づき、手を止めた。
オーレリアンは当然のように待っている。
その顔を見た瞬間、シンクレアは布を彼へ差し出した。
「自分で拭け」
オーレリアンは右手で受け取る。
「ここまで食べさせてくれたのに?」
「調子に乗るな」
「はい」
返事だけは素直だった。
口元を拭いたあと、オーレリアンは再び枕へ身体を預けた。
食事を終えた安心と、戦いの疲労が一気に戻ってきたのだろう。瞼がわずかに重くなり、呼吸も先ほどより深くなっている。
シンクレアは盆を持ち上げ、椅子から立った。
「もう休め」
「シンクレアは?」
「父上たちの話を聞いてから、自室へ戻る」
「今日は来てくれてありがとう」
まっすぐな礼に、シンクレアは一瞬言葉を詰まらせた。
食事を運び、世話をしたのは自分の意思だった。
頼まれたから仕方なく来たわけではない。
だからこそ、礼を言われると落ち着かない。
「お前が怪我をした原因の一部は私だ」
「違う。魔物が原因だ」
「私を受け止めたから傷ついた」
「受け止めるって決めたのは俺だ」
何を言っても、自分を責めさせてはくれない。
シンクレアは彼を見つめた。
オーレリアンも、穏やかな目で見返している。
不安が消えたわけではない。
五歳の年齢差も、婚約破棄された過去も、辺境軍に生きる彼との未来も、考え始めれば怖いことばかりだった。
それでも、不安だから離れるのではなく、言葉にして話せばよいのだと、ほんの少しだけ思えた。
オーレリアンは、何もかも楽観しているわけではない。
怖いものを認めたうえで、共に向き合う道を探そうとしている。
その姿勢ならば、信じてみてもよいのかもしれない。
まだ、ほんの少しだけ。
「明日も来てくれる?」
オーレリアンが尋ねた。
期待が、隠しきれず顔へ出ている。
足元のキララも同時にシンクレアを見上げ、尾を床へ打ちつけた。
また一人と一匹で、同じ顔をしている。
シンクレアの口元が、自然に緩んだ。
「大人しくしていたら考える」
「絶対に大人しくする」
「先ほど、明日には歩けると言っていただろう」
「今から考えを改めた」
「信用できないな」
「なら、キララに見張ってもらう」
名を出されたキララが、誇らしげに胸を張る。
しかし彼女も、オーレリアンを止めるより、一緒に部屋を抜け出す側へ回りそうだった。
「見張り役が一番信用できない」
シンクレアが言うと、オーレリアンは声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、彼女は扉へ向かう。
部屋を出る前に、一度だけ振り返った。
オーレリアンは、まだこちらを見ていた。
「おやすみ、シンクレア」
「おやすみ、オーレリアン」
自然に返してから、扉を閉じる。
客室の温かな空気が途切れ、廊下の冷たい空気が頬へ触れた。
盆を抱えたまま歩き始める。
静かな廊下へ、自分の足音だけが響く。
耳には、先ほど交わした言葉が残っていた。
──今のあんたがいい。
──その人は、シンクレアじゃないだろ。
何度思い返しても、胸の奥へ熱が広がった。
階段を下りる途中、窓の外には星が浮かび始めている。
長い一日だった。
朝に剣を交え、魔物の群れと戦った。
オーレリアンが傷つき、馬車の中で手を握った。
夕食を食べさせ、これまで誰にも話せなかった不安を口にした。
一日で、距離が近づきすぎたようにも思う。
それでも、不快ではなかった。
むしろ明日、彼とまた話すことを考えている自分がいる。
求婚への答えは、まだ決められない。
けれど、以前のように、ただ逃げたいとは思わなかった。
誰かに選ばれるために、自分を変えるのではない。
今の自分を選ぶと言う男の隣で、どのように生きたいのか。
それを考えてよいのだと、初めて思えた。
シンクレアは窓辺で一度足を止めた。
黒い森の向こうには、星を散らした夜空が広がっている。
不安は消えない。
未来が見えたわけでもない。
それでも明日、彼とまた話したいと思っている。
今は、それだけでよかった。




