似ている二人
公爵邸へ到着した馬車が正面玄関の前で止まる頃には、陽はすでに西へ傾き始めていた。
車輪の音が途切れ、御者台から人が降りる気配がする。続いて扉の外から使用人たちの慌ただしい声が聞こえた。先に到着した騎士から襲撃の報告を受けていたのだろう。
負傷者を運ぶための担架や治療道具が用意され、屋敷に仕える治癒術師も玄関前へ集まっているらしい。
シンクレアは、重なったままの手へ視線を落とした。
眠っている間、オーレリアンは一度も彼女の指を強く握らなかった。ただ触れているだけだった。それでも、馬車が大きく揺れるたび、離れることを恐れるように指先が僅かに動いた。そのたびにシンクレアは無意識のうちに握り返し、目を覚まさないことを確かめてから、また力を緩めていた。
屋敷へ着けば離さなければならない。
人目があるからというだけではない。治療のために彼を運び出す必要がある。分かっているのに、シンクレアはすぐには手を動かせなかった。
先ほど、眠る彼へ向かって口にした言葉が胸に残っている。
今度は、一人にしないのは私の方かもしれない。
オーレリアンが聞いていなかったことに安堵しながら、聞かれていたならどう答えただろうとも考えていた。きっと喜びを隠さず、もう一度言ってほしいと頼んだに違いない。その様子を想像すると、困るはずなのに、胸の奥へ小さな温かさが生まれる。
扉が外から開かれた。
明るい光が馬車の中へ差し込み、オーレリアンの瞼が僅かに震える。シンクレアは反射的に手を離そうとしたが、その前に金色の目が薄く開いた。
「……着いた?」
寝起きの声は掠れ、普段よりもずっと幼い。
シンクレアは重ねた指をゆっくり解いた。
「ああ。公爵邸だ」
オーレリアンは何度か瞬きをし、それから自分の手を見た。眠る前には触れていなかったはずの温もりが残っていることへ気づいたのだろう。視線が手からシンクレアへ移る。
何かを尋ねようとした顔だった。
シンクレアは先回りするように立ち上がった。
「治癒術師が待っている。動くな」
「今、手を」
「動くなと言った」
低い声で遮ると、オーレリアンは口を閉じた。しかし諦めたわけではないらしく、瞳には明らかな好奇心が残っている。自分が眠っている間に何があったのか、確かめたくて仕方がないのだろう。
彼のこうしたところは、妙にキララと似ている。
気になるものを見つければ、納得するまで視線を向ける。構ってほしいと強く求めるわけではないが、相手が振り向くまで傍を離れようとしない。嬉しいことがあれば隠さず、拒まれれば一度は下がるものの、完全には諦めない。
その考えが浮かんだところで、馬車の外から白い頭が突き出された。
「わうっ」
キララだった。
扉を開けた従者の脇から無理やり顔を差し込み、馬車の中を覗き込んでいる。シンクレアの姿を確認したあと、寝台へ横たわるオーレリアンへ目を向けた。黒い瞳が大きくなり、すぐに前足を馬車の床へ掛けようとする。
「キララ、待て」
制止するより早く、白い身体が飛び込んできた。
狭い馬車の中へ勢いよく乗り込み、そのままオーレリアンの寝台へ向かう。傷ついた背中へ飛びつけば痛みが走る。シンクレアが腕を伸ばして身体を押さえようとしたが、キララは彼女の手をすり抜け、オーレリアンの顔のすぐ横へ前足をついた。
「キララ、背中は駄目だ」
オーレリアンも慌てて身体を起こしかけ、直後に痛みで顔を歪める。それでもキララを拒もうとはせず、伸ばされた鼻先を片手で受け止めた。
キララは何度も彼の頬へ鼻を押しつける。匂いを確かめ、顔中を舐めようとし、怪我をした場所を探すように首元から肩へ鼻先を滑らせていく。
「無事だ。俺は大丈夫だから」
宥める声へ、キララは不満そうに鼻を鳴らした。
その声には、明らかに信じていない響きがあった。自分の目で確かめなければ納得できないらしい。オーレリアンが顔を背けても、反対側へ回り込んで覗き込み、手で鼻先を押し戻されれば、今度はその掌へ頬を擦りつける。
オーレリアンも似たようなものだった。
シンクレアが大丈夫だと告げても、傷がないか何度も確かめた。馬車へ乗らなくてもよいと言いながら、彼女が同行すれば露骨に喜び、眠る前には起きたときもいてほしいと念を押した。
二人が並んでいる姿を見つめるうち、シンクレアの胸へ可笑しさが込み上げてきた。
最初は口元が僅かに緩んだだけだった。
しかしキララがオーレリアンの胸元へ顎を乗せ、彼も同じような顔でシンクレアを見上げた瞬間、堪えきれなくなった。
小さな笑いが漏れる。
「ふっ」
自分の声へ、シンクレア自身が驚いた。
笑おうとしたわけではなかった。
社交の場で浮かべる整えられた微笑とも違う。兄やキララと過ごしているときに、ごく稀に零れる自然な笑いだった。それがオーレリアンの前で出たことへ気づき、すぐに口元を引き締めようとする。
だが、間に合わなかった。
オーレリアンは痛みも忘れたように目を見開いている。
キララまで動きを止め、二人揃ってシンクレアを見ていた。
「今、笑った」
「笑っていない」
朝と同じ言葉を返したが、今回は自分でも無理があると分かっていた。オーレリアンの顔には、訓練場で一本を取ったとき以上の喜びが浮かんでいる。
「笑っただろ。ちゃんと声が聞こえた」
「聞き間違いだ」
「キララも聞いてたよな?」
同意を求められたキララが、元気よく尾を振った。
「わうっ」
「ほら」
「お前たちは、いつから共謀するようになった」
シンクレアが眉を寄せると、オーレリアンはますます嬉しそうに笑った。その横でキララも口を開き、同じように楽しげな顔をしている。
改めて並べて見ると、本当によく似ていた。
外見はまるで違う。オーレリアンは黒髪に金の瞳を持つ長身の青年であり、キララは白い毛並みを持つわんるんもんだ。それでも感情の表れ方が同じだった。嬉しければ全身で喜び、気になる相手にはすぐ近づき、少し離されても嫌われたとは考えない。自分が好いているのだから、相手もいつか受け入れてくれると、疑いなく信じている。
「お前はキララに似ているな」
考えていたことが、そのまま口から出た。
オーレリアンが瞬きをする。
「俺が?」
「ああ」
「どこが?」
真剣に尋ねる顔まで似ている。
シンクレアは再び笑いそうになるのを堪えながら、キララへ視線を向けた。白い聖獣はオーレリアンの脇へ身体を寄せ、彼の腕の下へ頭を潜り込ませている。オーレリアンも無意識に首元を撫でており、二人とも満足そうだった。
「人懐っこくて、感情がすぐ顔に出る」
「キララは顔だけじゃなくて、尾にも出るだろ」
「お前に尾があれば、同じように振っていると思う」
一瞬の静寂のあと、馬車の外にいた従者が噴き出した。笑ってはならないと慌てて咳払いをしているが、肩が震えている。
オーレリアンは自分の腰の後ろを確かめるように見た。
「さすがに尾はない」
「分かっている」
「でも、あったら振ってると思う?」
「今は間違いなく振っているだろうな」
シンクレアは真顔で答えた。
オーレリアンはしばらく黙っていたが、やがて困ったように眉を下げる。怒ったわけではない。キララに似ていると言われたことを、褒め言葉として受け取ってよいのか迷っているらしい。
「それは、喜んでいいのか?」
「キララは私の家族だ」
シンクレアは短く答えた。
口にしてから、その言葉が持つ意味の深さへ気づいた。
キララは、ただ可愛がっている聖獣ではない。幼い頃から共に育ち、何度も自分を守り、孤独な時間に寄り添ってくれた家族である。誰より信頼し、ありのままの姿を見せられる存在だった。
そのキララに似ていると告げることは、単に人懐っこいと評しただけではない。
無意識のうちに、オーレリアンを安心できるものと重ねている。
彼もそこへ気づいたのだろう。
金色の瞳から戯れの色が消え、静かな喜びへ変わる。
「それなら、嬉しい」
迷いなく受け取られ、シンクレアは視線を逸らした。
やはり似ている。
好意を疑わないのではない。僅かな好意でも見つければ、大切そうに抱き締める。言葉の足りないシンクレアが差し出したものを、勝手に大きく解釈するのではなく、そこにある分だけを素直に喜ぶ。
その姿を見ていると、自分も少しくらい正直になってよいのではないかと思えてくる。
「ただし、キララの方が聞き分けはいい」
「それはないだろ」
オーレリアンが即座に反論する。
その横で、キララが彼の腕から頭を抜き、寝台の奥へ進もうとした。背中の傷へ鼻を寄せようとしているらしい。オーレリアンは慌てて白い身体を押し止める。
「ほら、キララ。そこは痛いから駄目だって」
「わう」
「返事はいいけど、絶対分かってないだろ」
「わうっ」
「今のは分かってる顔じゃない」
キララは押し戻されても諦めず、反対側から背中を覗こうとする。オーレリアンは痛みを堪えながら身体を捻り、必死に進路を塞いでいた。
シンクレアは二人のやり取りを眺め、また口元を緩めた。
今度は隠さなかった。
声を立てるほどではない。けれど、確かに笑っていた。
オーレリアンが動きを止める。
「また笑った」
「今度は否定しない」
「俺を見て?」
「お前たちを見てだ」
「どっちにしても嬉しい」
その言葉どおり、顔には満面の笑みが広がっている。もし本当に尾があれば、馬車の壁へ何度もぶつけているのではないかと思うほどだった。
シンクレアはとうとう堪えきれず、先ほどより明確な笑い声を漏らした。
「本当に、よく似ている」
それは、ごく短い時間だった。
しかしオーレリアンは、息をすることさえ忘れたように彼女を見つめていた。
昨日の婚約破棄の場で見たシンクレアは、美しかった。誰にも縋らず、侮辱にも屈せず、誇りを守って立つ姿へ心を奪われた。朝の訓練場で剣を振るう彼女は、鋭く、強く、誰よりも生き生きとしていた。魔物と戦う彼女は頼もしく、背中を預けるに値する剣士だった。
今、目の前にいるシンクレアは、そのどれとも違う。
目元が柔らかく細まり、普段は固く結ばれている唇が自然に開いている。冷たいと評される顔から緊張が消え、年相応の女性らしい明るさが浮かんでいた。
自分とキララを見て、楽しそうに笑っている。
その事実だけで、オーレリアンの胸は満たされた。
「何だ」
見つめられていることへ気づき、シンクレアの笑みが少しずつ薄れる。
オーレリアンは慌てて視線を逸らしかけたが、途中で止めた。誤魔化すよりも、正直に伝える方がよいと思ったのだろう。
「もっと見たいと思って」
「何をだ」
「笑ってる顔」
言葉を向けられた途端、シンクレアの表情が固まる。
オーレリアンはすぐに続けた。
「無理に笑えって意味じゃない。今みたいに、自然に笑った顔をまた見られたら嬉しい」
「お前が妙なことをしなければ、そう簡単には笑わない」
「じゃあ、妙なことをすればいいのか?」
「そういう結論に至るところがキララに似ていると言っている」
叱られても、オーレリアンは嬉しそうだった。
シンクレアは小さく息を吐く。その仕草に呆れは含まれていたが、不快さはない。
馬車の外では、担架の準備を終えた使用人たちが待っている。このまま話し続けているわけにはいかなかった。シンクレアが扉の方へ顔を向けると、オーレリアンもようやく状況を思い出したらしい。
「自分で歩ける」
「駄目だ」
「でも、玄関から部屋までだろ」
「背中を打った負傷者が無理をする必要はない」
「担架で運ばれる方が恥ずかしい」
「魔角熊へ飛び込むことは恥ずかしくなくて、担架は恥ずかしいのか」
「戦うのと運ばれるのは違う」
オーレリアンは寝台から起き上がろうとする。肩を浮かせた瞬間、背中へ痛みが走ったらしく、息を止めた。それでも何事もなかったように続けようとするため、シンクレアは片手で胸元を押し戻した。
力を込めたわけではない。
オーレリアンも本気で抵抗しなかったため、すぐに寝台へ戻る。
「言うことを聞け」
「……はい」
先ほどまで反論していたとは思えないほど素直な返事だった。
シンクレアは眉を上げる。
「急に聞き分けがよくなったな」
「クレアが近いから」
一瞬、意味が分からなかった。
次いで、自分がオーレリアンの胸元へ手を置き、顔を覗き込むような姿勢になっていることへ気づく。二人の距離は、訓練場で一歩退いたときよりも近い。呼吸が触れるほどではないが、彼の金色の瞳へ自分の姿が映っていることは分かった。
さらに、初めて愛称で呼ばれた。
「誰がクレアと呼んでよいと言った」
シンクレアはすぐに身体を離した。
オーレリアンは叱られた子どものように目を瞬く。
「駄目だったか?」
「駄目だ」
「家族はそう呼ぶんだろ?」
「家族だからだ」
「じゃあ、家族になったら呼んでいい?」
求婚の答えを迫るような声音ではなかった。
ただ、素直な疑問として尋ねている。
それでも、言葉の意味は十分に大きい。
結婚すれば、オーレリアンも家族になる。
そのときにはクレアと呼ぶ。
彼の中では、すでに自然な未来として存在しているのだろう。
シンクレアはすぐに否定できなかった。
「……そのときに考える」
ようやく返すと、オーレリアンの顔が明るくなる。
「駄目とは言わなかった」
「今は駄目だと言った」
「今は、だろ?」
言葉尻を拾われ、シンクレアは目を細めた。
やはり聞き分けがよいとは言えない。キララも駄目だと告げれば一度は止まるが、別の方向から同じことを試す。オーレリアンもまったく同じだった。
「キララ」
シンクレアは白い聖獣を呼ぶ。
「わう?」
「お前と同じで、面倒な男だな」
キララは意味を理解したのか、同意するように一声鳴いた。
オーレリアンが不満そうに眉を寄せる。
「俺よりキララの方が面倒だろ。さっきから背中を嗅ごうとしてる」
「キララは心配しているだけだ」
「俺だってあんたを心配しただけなのに怒られた」
「お前は怪我をしたからだ」
「キララだって血だらけだろ」
「これはほとんど魔物の血だ。傷はない」
シンクレアがキララの毛を確かめながら答えると、オーレリアンも心配そうに白い身体へ視線を向けた。自分が治療を受ける状況でありながら、すぐにキララの状態を気にしている。
やはり似ている。
互いを心配し、自分のことは後回しにする。
シンクレアはキララの頭を撫で、そのままオーレリアンへ目を向けた。
「お前も、この程度には大人しくしていろ」
「キララは全然大人しくない」
「少なくとも担架から逃げようとはしない」
「担架に乗せたことがないだろ」
「では試すか?」
「俺を先に運んでくれ」
ようやく観念したらしい。
外で待っていた使用人たちが馬車へ入り、慎重にオーレリアンの身体を担架へ移す。動かす際には痛みがあるようで、彼は何度か眉を寄せたが、今度は自分で立とうとはしなかった。
担架が持ち上がると、キララがすぐ横へつく。オーレリアンの顔を見上げながら、歩調を合わせて進み始めた。
シンクレアもその隣へ並ぶ。
玄関前には父とアルベルト、兄、母が待っていた。シンクレアの母は娘の無事を確かめるなり胸を撫で下ろし、続いて担架のオーレリアンへ目を向ける。アルベルトは息子の顔を見ると険しい表情になったが、意識があり冗談を言えるほどだと分かると、ひとまず治療を優先するよう命じた。
「歩けたんですが、シンクレアが許してくれなくて」
担架の上からオーレリアンが訴える。
アルベルトは息子ではなく、シンクレアへ向かって深く頷いた。
「正しい判断だ。こいつは昔から怪我を隠して動こうとする」
「父上まで」
「黙って運ばれろ」
短く切り捨てられ、オーレリアンは不満そうに口を閉じた。
その顔を見て、シンクレアの母が微笑む。
「キララとよく似ていますね」
思いがけない言葉に、シンクレアは母を見た。
彼女はオーレリアンと、その脇を離れないキララを交互に眺めている。
「どちらも心配性で、自分の怪我は気にせず、大切な人のそばを離れたがらないところが」
母の指摘は、シンクレアが感じたものと同じだった。
オーレリアンが驚いた顔で彼女を見る。
「シンクレアにも言われました」
「まあ」
母は嬉しそうに娘へ顔を向けた。
「クレアがそのようなことを言うなんて珍しいわね」
家族の前で愛称を呼ばれ、シンクレアは僅かに眉を寄せた。普段なら訂正するほどのことではない。だが、先ほどオーレリアンが同じ呼び方をしたばかりだったため、必要以上に意識してしまう。
彼を見ると、担架の上で明らかに聞き耳を立てている。
「今はシンクレアだ」
先に釘を刺す。
「何も言ってない」
「顔が言っている」
「やっぱり俺、そんなに顔に出る?」
「尾がないだけキララより分かりにくい」
「少しは分かりにくいんだな」
なぜか満足そうに頷く。
シンクレアはまた笑いそうになったが、今度は家族の目があるため口元を抑えた。しかし母には気づかれたらしい。驚きと喜びが混じった目で娘を見つめている。
追及される前に、シンクレアは使用人へ向き直った。
「客室へ運んでくれ。治癒術師の診察が終わるまで動かさないように」
「承知いたしました」
担架が屋敷の中へ進んでいく。
オーレリアンは運ばれながらも、何度もシンクレアを振り返った。彼女がついてきていることを確認しているのだろう。そのたびにキララも同じように振り返る。
右からオーレリアン。
左からキララ。
ほとんど同時に顔を向け、シンクレアの姿を見つけると安心したように前へ戻る。
その様子が可笑しく、シンクレアはとうとう声を抑えられなかった。
「ふふっ」
今度は誰の耳にも届く笑いだった。
廊下にいた使用人たちが驚いて振り向く。父も兄も目を見開き、母は口元へ手を添えた。シンクレアが人前で声を立てて笑うことなど、家族でさえ滅多に見たことがない。
オーレリアンは担架の上で身体を起こしかけた。
「今、また笑った」
「起きるな」
「だって、ちゃんと見たくて」
「前を向け」
「俺は運ばれてるから、前を向いても天井しか見えない」
言いながら、まだこちらを見ている。
その横ではキララも足を止め、尾を振りながらシンクレアを見上げていた。
まるで同じ顔をしている。
シンクレアは目元へ残った笑いを隠さず、二人へ告げた。
「本当に、お前たちはそっくりだな」
オーレリアンは一瞬呆けたあと、眩しいほど嬉しそうに笑った。キララもそれに応えるように大きく尾を振る。
その姿を見たシンクレアの胸には、戦いのあとから続いていた冷たい不安が、少しずつ溶けていくのが分かった。
彼は生きている。
笑っている。
今も自分のそばにいる。
それだけで、こんなにも安堵できる。
求婚への答えを出すには、まだ知るべきことがある。年齢差も、家格も、結婚後の生活も、互いの家族や役割についても話し合わなければならない。
けれど、少なくとも一つだけは、もう分かっていた。
オーレリアンがそばにいると、自分は笑える。
長い婚約の中で忘れていたような、ごく自然な笑い方を思い出せる。
それは、結婚相手を選ぶうえで、剣の腕や家柄よりも大切なことなのかもしれなかった。




