三人の兄
同じ頃、エルフレイム辺境伯邸では、留守を預かる三人の兄たちが執務室へ集まっていた。
本来なら昼食を終えている時刻だったが、長兄レオンの机には朝から運び込まれた報告書が積み上がったままである。北東の砦から届いた物資補給の申請、雪解けによって傷んだ街道の修繕計画、春先から増え始めた魔物の目撃記録。
父アルベルトがローゼンタール公爵領へ赴いている間、辺境伯代理として決裁を下すのは、次期当主であるレオンの役目だった。
三十四歳になるレオンは、父や弟たちと同じ黒髪と金色の瞳を持っていたが、豪快なアルベルトや人懐っこいオーレリアンとは異なり、温和で落ち着いた印象を与える男だった。声を荒らげることは滅多になく、誰の意見にも一度は耳を傾ける。
その一方で、領地の将来に関わる判断では決して情に流されず、必要とあれば古参の重臣を相手にしても一歩も退かない。武門の一族に生まれながら、剣よりも政治を選んだのは、戦う者が帰る場所を守る人間も必要だと考えたからだった。
そのレオンの向かいでは、次兄カイルが報告書へ目を通している。三十一歳の彼は、兄弟の中では最も細身で、長い指を使って頁を捲る仕草にも文官らしい静けさがあった。軍略と情報分析に秀で、領内の兵站や防衛計画の多くは彼が組み立てている。口を開けば皮肉の一つも添えずにはいられない性格だが、兄弟の中で誰より細かな変化に気づくのもカイルだった。
窓際には三兄ガイアスが立っている。二十九歳。辺境軍第一遊撃隊を率いる隊長であり、オーレリアンの直属の上官でもある。家では弟たちへ穏やかに接する一方、部隊へ出れば情け容赦がない。命令に従わない者には厳罰を科し、訓練で手を抜けば身分にかかわらず叩き直す。オーレリアンも例外ではなく、むしろ実の弟だからこそ、ほかの隊員以上に厳しく扱っていた。
その三人が、ここ半刻ほど同じ話題から離れられずにいる。
レオンは署名を終えた書類を脇へ置き、閉ざされた扉へ視線を向けた。そこから末弟が戻ってくるはずもないと分かっていながら、屋敷のどこかから聞き慣れた足音が響いてくるのを待っているような目だった。
「オーレリアンは、きちんとやっているだろうか」
本日三度目となる呟きに、カイルは報告書から顔を上げなかった。
「朝から同じことばかり言っているな、兄上」
「聞くたびに答えが変わるかもしれない」
「変わらない。あいつが大人しく行儀よくしている可能性は低い」
容赦のない返答だった。レオンの眉間へ僅かな皺が寄る。ガイアスは窓枠へ肩を預けたまま、堪えきれないように口元を緩めた。
「公爵家に着くなり求婚したのなら、少なくとも目的だけは果たしているだろう」
「そこからが問題なのだ」
レオンの心配は、オーレリアンが求婚できたかどうかではない。あの末弟は、決めたことを前にして怖じ気づく男ではなかった。
たとえ国王を前にしても、自分の思いが正しいと信じれば、真正面から口にするだろう。
問題は、その後である。
婚約を破棄されたばかりの女性へ求婚した以上、相手がすぐに答えを返せるはずはない。考える時間を求められたなら、黙って待たなければならない。間違っても顔を合わせるたびに返事を尋ねたり、好意を押しつけたりしてはならなかった。
理屈ではオーレリアンも理解しているはずである。しかし、理解していることと、実際に落ち着いて待てることは別だった。
「返事を急かしていなければいいが」
「さすがにそこまで愚かではない」
ガイアスが答える。直属の上官として、戦場でのオーレリアンを最もよく知るのは彼だった。弟は大胆ではあるが、考えなしではない。敵陣へ真っ先に踏み込むのも、己の速さと周囲の位置を見極めたうえでの判断である。任務中であれば、待てと命じられれば何時間でも身を潜められた。
ただし、恋愛に関して同じ冷静さを保てる保証はなかった。
オーレリアンにとって、今回が初めての恋である。しかも、本人の中では一年前から思い続けていた相手だ。平静を装ったところで、喜びも不安もすべて顔へ出ているに違いない。
「求婚の返事には触れなくても、毎朝部屋の前をうろついていそうだ」
カイルが淡々と言うと、レオンが険しい顔をした。
「なぜそのような不審者じみた行動を想像する」
「好意を持った相手の姿を見たい。しかし急かしてはいけない。そこで偶然を装って廊下を歩く。オーレリアンなら考えそうなことだ」
「偶然を装えると思うか?」
ガイアスの指摘に、カイルは僅かに考えた。
「無理だな」
二人は同時に頷いた。
オーレリアンは嘘が下手だった。何かを隠しているつもりでも、表情と態度がすべてを物語る。偶然を装って待ち伏せたところで、シンクレアの姿を見つけた瞬間に顔を輝かせ、自ら目的を明かすようなものである。
レオンは額へ手を当て、重い息を吐いた。
「父上が一緒にいることだけが救いだ」
「父上が恋愛について適切な助言をできるとは思えないが」
「少なくとも公爵家へ失礼を働けば止めてくださる」
「父上自身が、息子を売り込んでいる可能性もあるぞ」
ガイアスが言うと、レオンは沈黙した。アルベルトならば十分にあり得る。息子たちを心から愛しており、誰もが自慢の息子だと信じて疑わない男である。公爵へ向かって、オーレリアンがどれほど強く、優しく、将来有望かを延々と語っていても不思議ではなかった。
カイルは手元の報告書を閉じ、椅子の背へ身体を預ける。
「それにしても、オーレリアンが選んだ相手が五つ上とはな」
「年齢は関係ないと言っていただろう」
レオンが返すと、カイルは薄く笑った。
「本人は気にしていないだろう。むしろ、年上の女性の方が相性はいいのではないかと思っている」
「なぜだ」
「昔から甘えん坊だからだ」
即答だった。
レオンは反論しようと口を開きかけ、そのまま閉じる。ガイアスも否定せず、腕を組んだまま小さく頷いていた。
外でオーレリアンしか知らない者が聞けば、信じないかもしれない。辺境軍第一遊撃隊の若き剣士。十七歳にして多くの実戦を経験し、魔物の群れへ単身で切り込むことを許されている男である。負傷しても弱音を吐かず、年上の兵士にも臆せず意見し、危険な任務ほど自ら手を挙げる。戦場での姿だけを見れば、誰かへ甘えるような性格には見えなかった。
しかし、家族の知るオーレリアンは違う。
幼い頃は、眠くなれば誰かの膝へ頭を乗せた。兄たちが集まって話をしていれば、内容を理解できなくても必ず間へ入りたがった。母が外出すれば帰宅するまで玄関を気にし、父や兄が遠征から戻れば、真っ先に駆け出して抱きついた。
成長してから露骨に甘えることは減ったものの、本質はさほど変わっていない。任務から戻れば家族のいる部屋へ顔を出し、何を話すでもなく長椅子へ寝転がる。レオンが書類を読んでいれば隣で剣の手入れをし、カイルが地図を広げていれば覗き込み、ガイアスが訓練へ向かえば頼まれてもいないのについてくる。
構ってくれと口にはしない。
ただ、好きな相手の近くにいたがる。
「甘えさせてくれる女性かどうかは分からないだろう」
レオンが言うと、カイルは片眉を上げた。
「甘やかしてもらう必要はない。あいつの場合、隣に置いてもらえるだけで満足する」
「犬のようだな」
ガイアスが呟いた。
「実際、似たようなものだ。帰宅したとき、玄関で待っているか、窓からこちらを見ているかの違いしかない」
「お前たちはオーレリアンを何だと思っている」
咎めるレオンの声には、兄としての威厳があった。しかし否定の言葉としては、いささか弱い。オーレリアンが幼い頃、レオンの帰りを玄関で待ち続け、そのまま眠ってしまったことは一度や二度ではなかった。
長男と末弟の年齢差は十七歳である。
オーレリアンが生まれたとき、レオンはすでに成人を目前にしていた。まだ若かったとはいえ、弟を抱き、あやし、歩き始めれば手を引くには十分な年齢だった。父が領地を離れ、母がほかの兄弟の世話に追われているときには、レオンが寝かしつけることも多かった。
オーレリアンにとって、レオンは単なる兄ではない。
最も年上の兄であり、幼い頃から頼れば必ず応えてくれた存在だった。
だからこそ、年上の人間へ心を許すことに抵抗がないのだろう。自分より経験を積んだ相手に従うことを屈辱とは考えず、教えを請うことも恥じない。シンクレアが五つ年上であることも、彼にとっては障害どころか、好ましく感じられる部分なのかもしれなかった。
「そもそも、父上と母上が七歳差だ」
ガイアスは窓辺を離れ、机へ近づいた。
「幼い頃から年齢の離れた夫婦を見ているのだから、五歳程度の差を気にするはずがない」
アルベルトは妻エレノアより七つ年上である。政略的な要素を含む婚姻ではあったものの、夫婦仲は非常に良かった。アルベルトは妻の意見を尊重し、領地に関する判断でも必ず耳を傾ける。エレノアもまた、夫が遠征へ出ている間は屋敷を守り、領民や兵士の家族を支えてきた。
年上の夫が若い妻を従わせるような関係ではない。
互いの得意な部分を認め、必要なときには支え合う。
息子たちはそれを夫婦の自然な姿として見て育った。
「両親が七歳差で、兄弟もこれだけ年が離れている。オーレリアンには、年齢が近くなければ分かり合えないという感覚自体が薄いのだろう」
カイルの言葉に、レオンは黙って頷いた。次兄カイルとオーレリアンの差は十四歳、三兄ガイアスとも十二歳離れている。末弟にとって、親しく信頼する相手が一回りほど年上であることは、特別なことではなかった。
ガイアスとは兄弟であると同時に上官と部下でもある。軍務中のオーレリアンは、命令へ私情を挟まない。納得できないことがあれば意見はするが、最終的にガイアスが決断すれば従う。その一方で、屋敷へ戻れば何事もなかったように兄の肩へ腕を回し、腹が減ったと訴える。
立場の違いと親しさを、無理なく共存させられる。
それはオーレリアンの長所でもあった。
「問題は、シンクレア嬢の方がどう思うかだ」
レオンが静かに言うと、部屋の空気から僅かに軽さが消えた。
オーレリアン本人が気にしなくとも、シンクレアまで同じとは限らない。彼女は二十二歳であり、長く第二王子の婚約者を務めていた。王子妃になるための教育を受け、周囲からは年上の女性が年下の男へ嫁ぐことへの偏見も向けられるだろう。
公爵家の令嬢と辺境伯家の四男という身分の違いもある。
オーレリアンがどれほど愛していると訴えても、世間が二人を祝福するとは限らなかった。婚約破棄された令嬢が、行き場を失って格下の家へ嫁いだと見る者もいる。あるいは、若い男を誑かしたと陰口を叩く者さえ現れるかもしれない。
本人たちにとって問題でなくとも、シンクレアが背負わされるものは少なくなかった。
「オーレリアンは、そこまで考えているのだろうか」
レオンの問いに、カイルはすぐに答えなかった。
弟の頭が悪いとは思っていない。戦場での判断力は卓越しており、人の感情にも敏い。ただ、大局的な政治や貴族社会の思惑を読むことは得意ではなかった。自分が年齢も家格も気にしないから、相手にとっても乗り越えられるものだと考えている可能性はある。
ガイアスは腕を組んだまま、しばらく机の上を見ていた。
「考えが足りなければ、向こうで知ることになるだろう」
「傷つけてからでは遅い」
「傷つけないために何も言わず、何もしない男でもない。失敗すれば謝り、足りないものがあれば学ぶ。それがオーレリアンだ」
兄弟の中で最も厳しく末弟を鍛えてきた男の声には、揺るがない信頼があった。
ガイアスはオーレリアンの欠点を誰より知っている。勢いに任せすぎることも、目の前の一人を救おうとして全体への注意が薄れることもある。そのたびに叱り、訓練を重ね、同じ過ちを繰り返さないよう鍛えてきた。
同時に、弟の才能も誰より認めていた。
オーレリアンは一度、自分の過ちを理解すれば逃げない。
できないことを誤魔化さず、できるまで食らいつく。
恋愛でも同じだとは限らない。それでも、好きな女性を自分の望む形へ変えようとするより、自分が彼女の隣へ立てる男になろうとするだろう。
「あいつはシンクレア嬢の年齢を気にしていない。ただ、それだけでは足りない」
カイルは閉じた報告書の表紙を指先で軽く叩いた。
「彼女が年齢差を気にしているなら、気にする必要はないと言うだけでは駄目だ。なぜ不安なのかを聞き、周囲から何を言われても守れると示さなければならない。あいつがそこまで辿り着けるかどうかだな」
「一人では難しいかもしれない」
レオンは溜息を吐く。
「だが、相手が五つ年上なら、その辺りもはっきり言ってくれるのではないか」
ガイアスが口にすると、カイルが微かに笑った。
「結局、年上の女性と相性がいいという話へ戻るのか」
「オーレリアンには、曖昧に察してほしいと待つ女性より、駄目なものは駄目だと言ってくれる相手の方がいい」
「それは同感だ」
レオンも否定しなかった。
オーレリアンは相手の顔色を窺い続けるような男ではない。遠回しな言葉や社交辞令を、額面どおりに受け取ってしまうこともある。寡黙であっても、必要なことを率直に告げる女性であれば、むしろ意思を通わせやすいだろう。
シンクレアは剣士としても名高く、毅然とした性格だと聞いている。
第二王子の婚約者でありながら、剣を捨てなかった女性。
人前で婚約を破棄されても、泣き崩れず、誇りを守ってその場を去った女性。
オーレリアンが彼女の生き方に惹かれたという話を聞いたとき、三人の兄は驚きながらも納得していた。弟が心から尊敬できない相手へ、恋をするとは思えなかったからだ。
「シンクレア嬢が本当にオーレリアンを受け入れてくれたなら、尻に敷かれるだろうな」
カイルの何気ない一言に、ガイアスが低く笑う。
「喜んで敷かれるだろう」
「本人の前では言うな」
レオンが注意するものの、末弟が否定する姿は想像できなかった。シンクレアに命じられたからと嬉しそうに動き、周囲から妻に弱いとからかわれても、好きな相手の言うことを聞いて何が悪いと開き直るに違いない。
「母上も喜ぶだろうな」
ガイアスが言った。
「娘が欲しかったと、何年も言い続けている」
「オーレリアンが求婚する相手を連れてきたら、返事を待たずに娘扱いしそうだ」
カイルの言葉に、今度は三人揃って沈黙した。
エレノアなら、十分あり得る。
シンクレアが初めて屋敷を訪れたその日に部屋を整え、好みの菓子を聞き、寒くないかと外套を用意し、困ったことがあれば何でも話してほしいと手を握るだろう。まだ結婚すると決まったわけではないと説明されても、分かっていると微笑みながら、翌日には娘用の衣装を注文しているかもしれない。
「母上の方がオーレリアンより先走る可能性があるな」
レオンが呟く。
「帰ってくる前に釘を刺しておいた方がいい」
「無駄だと思うが」
「私もそう思う」
次兄と三兄から即座に返され、レオンは再び額へ手を当てた。
父は息子を売り込み、母は相手を娘として迎える気でいる。兄たちは兄たちで、末弟が失言していないか気を揉んでいる。オーレリアンが知らないところで、エルフレイム家全体がすでに彼の求婚へ巻き込まれていた。
それでも、不思議と迷惑だとは思わない。
末弟が初めて選んだ相手だった。
幸せになってほしいと願うのは当然である。
「断られた場合は、どうする」
カイルの問いに、ガイアスは窓の外へ視線を向けた。
「しばらく使い物にならないだろうな」
「任務へ影響を出させるな」
「訓練量を倍にする」
「傷心の弟へ容赦がないな」
「剣を振っている間は余計なことを考えずに済む」
上官としては正しいのかもしれない。だが兄としては、もう少し慰める気がないのかと、レオンはガイアスを見た。
視線へ気づいたガイアスが、僅かに肩を竦める。
「訓練の後で、酒くらいは付き合う」
「十七歳だ」
「では、果実水だ」
「母上の焼き菓子を与えておけば機嫌が直るだろう」
カイルが続ける。
「子ども扱いするな」
咎めながらも、レオン自身、落ち込んだオーレリアンのために何を用意するかを考え始めていた。好物の肉料理。子どもの頃から使っている蜂蜜。疲れたときに母が焼く、木の実を練り込んだ菓子。
三十四歳の長兄にとって、十七歳の末弟は今も守るべき存在だった。
自分が十七歳の頃には、オーレリアンはまだ生まれていない。次期当主としての教育を受けながら、いずれ父を支え、弟たちを守らなければならないと考えていた。その後に生まれた末弟は、兄弟の中でも特に年が離れていたため、レオンの中では半ば息子のような位置にいる。
だからこそ、いつか弟が自分より大切な相手を見つけることも分かっていた。
その日が予想より早く来ただけである。
「兄上は寂しいのか?」
カイルが突然尋ねた。
レオンは眉を寄せる。
「何がだ」
「オーレリアンが結婚すれば、これまでのようには兄上へ甘えなくなる」
「すでに甘えてなどいない」
「先日、兄上の部屋へ行っただろう」
「求婚前の相談だ」
「真っ先に兄上へ相談した時点で、十分に甘えていると思うが」
カイルの指摘へ、ガイアスも口元を緩めた。
「結婚後は、相談相手もシンクレア嬢になるだろうな」
「それが夫婦というものだ」
「理解はしていても、寂しいのだろう?」
二人の視線を受け、レオンは机の上の書類を整え始めた。必要以上に角を揃えていることから、動揺は明らかだったが、弟たちはあえて指摘しない。
「オーレリアンが信頼できる伴侶を得るなら、喜ばしいことだ。私が寂しがる理由はない」
「そうか」
カイルの返事には、まったく信じていない響きがある。
「結婚した後も、毎日のように兄上の執務室へ来ると思うがな」
ガイアスが告げると、レオンの手が僅かに止まった。
「妻まで連れてくるかもしれない」
「それは……構わない」
返答までの間が、すべてを物語っていた。
カイルとガイアスが顔を見合わせる。二人が笑い出す前に、レオンは積み上げた報告書の一部をそれぞれの前へ置いた。
「暇なら仕事をしろ」
「話を逸らしたな」
「軍師なら言われる前に必要な仕事を見つけろ」
「私はすでに終えている。これは兄上の担当だ」
「隊の訓練へ戻る」
逃げるように扉へ向かったガイアスを、レオンは低い声で呼び止めた。結局、三人は再び机を囲み、それぞれの書類へ手を伸ばすことになった。
窓の外から、辺境軍の兵士たちが訓練する声が聞こえてくる。剣が打ち合う音、号令、地面を蹴る足音。普段なら、その中には誰よりよく通るオーレリアンの声が混じっていた。
今日は聞こえない。
たった一人欠けただけで、屋敷も訓練場も妙に静かに感じられる。
レオンは署名のために取った羽根ペンを、しばらく紙へ下ろせなかった。
「ちゃんとやっているだろうか」
四度目の呟きが零れる。
カイルは呆れた顔を上げ、ガイアスは小さく息を吐いた。
「心配なら、伝令を出せばいい」
「何と書けばよい。求婚は進んでいるかと聞くのか」
「元気にしているか。食事は取っているか。公爵令嬢へ迷惑を掛けていないか」
「完全に母親だな」
ガイアスの言葉に、レオンは睨むような視線を向けた。しかし本気で怒ってはいない。カイルも分かっているため、平然と続きを口にする。
「最後に、振られても帰る家はあると添えておけばいい」
その言葉に、レオンの表情が僅かに和らいだ。
求婚が受け入れられることを、兄たちは心から願っている。
だが、それを弟へ押しつけるつもりはなかった。
シンクレアには、シンクレアの人生がある。婚約破棄の直後に差し出された手を取るかどうかは、彼女自身が決めなければならない。拒まれればオーレリアンは傷つく。それでも、情に流されて受け入れられるよりは、誠実な答えを得た方がよい。
そしてどのような答えを持ち帰っても、末弟が帰る場所は変わらない。
レオンも、カイルも、ガイアスも、普段どおりに迎えるだろう。
成功していれば祝い、断られていれば慰め、失言をしていれば叱る。
その後で、また同じ食卓を囲む。
「伝令は出さない」
レオンはようやく羽根ペンを紙へ下ろした。
「オーレリアンが自分で選んだことだ。最後まで本人に任せる」
「ようやく弟離れか?」
カイルが尋ねる。
「違う。信頼しているだけだ」
レオンは静かに答えた。
その声には、次期辺境伯として部下を信じる強さと、長兄として弟を案じる温かさが同時に宿っていた。
オーレリアンは甘えん坊で、寂しがりで、人を好きになれば隠すこともできない。だが、守ると決めた相手のためなら、自分の未熟さから逃げずに立ち向かえる男でもある。
五つの年齢差も、公爵家との家格の違いも、彼にとっては愛することを諦める理由にならないだろう。
だからこそ、相手にとっての不安を軽んじず、共に越える方法を見つけなければならない。
それができるかどうかは、もはや兄たちが教えることではなかった。
「しっかりやれよ、オーレリアン」
レオンの小さな呟きを、今度は誰もからかわなかった。
遠く離れたローゼンタール公爵領で、末弟が初恋の相手と少しずつ距離を縮めていることを、三人はまだ知らない。彼がすでにシンクレアと剣を並べ、互いの背中を預け、傷つきながらも彼女の手を離さなかったことも。
ただ、オーレリアンならば自分の言葉と行動で向き合っていると信じ、三人の兄はそれぞれの仕事へ戻っていった。




