傷ついた背中
魔物の群れを退けたあと、一行は視察を切り上げ、ローゼンタール公爵邸へ戻ることになった。
逃げ込んだ魔狼を追う部隊と、死骸や周辺の痕跡を調べる部隊が現地へ残され、負傷者は詰所で最低限の治療を受けてから馬車へ乗せられた。幸い命を落とした者はいなかったものの、盾ごと吹き飛ばされた騎士は腕を骨折し、ほかにも爪や牙で傷を負った者がいる。魔角熊を率いるほどの大きな群れが、なぜ見張り台の近くまで気づかれずに接近できたのか。自然に形成された群れなのか、それとも何者かによって森の奥から追い立てられたのか。
調査しなければならないことは多かったが、今は負傷者を安全な場所へ運ぶ方が先だった。
オーレリアンも馬へ乗ることを禁じられ、負傷者用の馬車へ入れられた。骨に異常はないとはいえ、シンクレアを受け止めた際に背中を強く打ちつけている。
治癒術師からは横になって休むよう命じられたが、本人はほかの騎士へ寝台を譲ろうとし、最後まで自分は座っていれば十分だと主張していた。
結局、アルベルトに低い声で名を呼ばれた途端、諦めたように寝台へ横たわったものの、その顔には明らかな不満が残っていた。
シンクレアは本来、父や兄とともに騎馬で戻るつもりだった。しかし馬車の扉が閉じられる直前になって、足が動かなかった。治癒術師は別の重傷者が乗る馬車へ移り、オーレリアンのそばには付き添いの従者が一人残ることになっている。
容体が急変するような怪我ではない。本人にも意識があり、会話もできる。シンクレアが付き添う理由は何もなかった。
それでも、彼を一人で帰らせることに強い抵抗を覚えた。
魔角熊の魔石が砕け、身体が宙へ投げ出された瞬間。迫る地面と、その下へ飛び込んできたオーレリアンの姿が、瞼の裏から離れない。彼が間に合わなければ、自分は腕か肩を折っていただろう。頭を打ちつけていた可能性もある。
だが彼が受け止めたからこそ、シンクレアには目立った傷一つなかった。その代わりに、彼が痛みを負った。
恩を返さなければならないからではない。
自分のせいで怪我をした男を放っておけないという、責任感だけでもなかった。
彼の様子を見ていたい。
本当に無事なのか、屋敷へ着くまで自分の目で確かめていたい。
そう思っていることを認めると、胸の内側がひどく落ち着かなくなった。まだ求婚への答えさえ出していない相手を、これほど気に掛けている。昨日までは想像もしなかった変化だった。
「シンクレア」
先に馬車へ乗り込んでいたオーレリアンが、開いたままの扉の向こうから彼女を呼んだ。負傷者がほかにいないため、周囲へ声が漏れないと思ったのだろう。敬称のない呼び方はすっかり自然になりつつあったが、今はいつもより弱々しく響いた。
シンクレアは眉を寄せ、馬車へ一歩近づく。
「何だ」
「俺は大丈夫だから、馬で戻っていいぞ」
痛みを隠そうとしているのは明らかだった。上体を少し動かしただけで眉間へ皺が寄り、呼吸が一瞬浅くなる。それでも彼は笑おうとしている。彼女を安心させたいのか、それとも余計な心配を掛けたくないのか。その両方なのだろう。
「その顔で言われても説得力がない」
「顔は見えないから、どんな顔をしてるか分からない」
「なら鏡を持ってこさせよう」
「そこまではしなくていい」
オーレリアンの返答に、扉の脇で待っていた従者が笑いを堪えるように顔を伏せた。シンクレアは彼へ馬を預け、そのまま馬車へ乗り込む。向かいの長椅子へ腰を下ろすと、オーレリアンが驚いたように目を見開いた。
「一緒に来るのか?」
「負傷者が無理をしないか見張る者が必要だ」
「従者がいるだろ」
「私では不満か」
そう尋ねると、オーレリアンは言葉を失った。何度か瞬きをしたあと、視線をシンクレアから窓へ逸らす。頬が僅かに赤くなっていたが、戦いの熱が残っているだけなのか、それとも別の理由なのかは分からない。
「不満なわけがない。むしろ嬉しすぎて、背中の痛みが消えそうだ」
「では降りよう」
「待ってくれ。嘘だ。ものすごく痛い」
オーレリアンが慌てて顔を戻す。その勢いで背中が座席へ触れたらしく、直後に声を詰まらせた。シンクレアは反射的に腰を浮かせたが、彼が片手を上げて制する。
「本当に大丈夫だ。ただ、急に動くと少し響く」
「だから無理に動くなと言っている」
「分かった。今度こそ動かない」
寝台へ大人しく横たわったオーレリアンを確かめ、シンクレアは再び座る。扉が閉じられ、馬車がゆっくり動き始めた。車輪が土の窪みを越えるたび、箱の中へ小さな振動が伝わる。そのたびにオーレリアンの指先が寝具を掴んでいることへ気づき、シンクレアは御者へ速度を落とすよう声を掛けた。
公爵邸までは、急がず進めば二刻ほどかかる。窓の外には森と草原が続き、騎士たちが馬車を囲むように進んでいた。先頭には父とアルベルトがいる。二人は周囲への警戒を保ちながらも、ときおり後ろを振り返り、負傷者を運ぶ列に遅れがないか確かめていた。
キララはシンクレアの馬を引く従者の隣を歩いていたが、何度も馬車へ鼻先を近づけている。オーレリアンの気配を確かめているのだろう。白い毛並みには拭いきれなかった魔狼の血が残り、ところどころ灰色に汚れていた。屋敷へ戻れば、彼女も身体を洗ってやらなければならない。
馬車の中には、しばらく車輪と蹄の音だけが響いた。オーレリアンは瞼を閉じている。眠ったようには見えなかった。眉間へ寄った皺は消えず、呼吸も普段より僅かに浅い。治癒術を受けたとはいえ、痛みが完全に消えるわけではない。むしろ戦いの緊張が解けたことで、今になって強く感じ始めているのだろう。
シンクレアは膝の上へ置いた両手を見下ろした。手袋には魔物の血が染み込み、指の間まで黒く汚れている。剣を握っていた右手には僅かな痺れが残っていた。魔石を砕いたときの衝撃が、まだ腕の奥へ沈んでいる。それでも傷はない。すべてオーレリアンが受け止めたからだった。
「なぜ、あのような無茶をした」
静かに尋ねると、オーレリアンが瞼を開いた。
「また怒ってるのか?」
「怒っている」
即答すると、彼は困ったように眉を下げた。叱られること自体を嫌がっているのではない。どう答えればシンクレアが納得するのか、真剣に考えているようだった。
「あのまま落ちたら、あんたが怪我をしてた」
「お前が怪我をする理由にはならない」
「俺が怪我をする理由にはなる」
言い方は穏やかだったが、迷いはない。オーレリアンは身体を起こそうとはせず、寝台へ横たわったままシンクレアを見ていた。窓から入る光が金色の瞳へ落ち、戦いの最中に見た強い輝きとは異なる、静かな色を浮かべている。
「俺は、あんたが傷つくのを見たくなかった。それだけだ」
「それで自分が傷つけば、私がどう思うかは考えなかったのか」
言葉が口から出たあと、シンクレアは息を止めた。
オーレリアンも動かなかった。
馬車の車輪が石を踏み、小さく車体が揺れる。外からは騎士たちの短い呼び声が聞こえた。列の速度を調整しているらしい。馬車の中だけが、周囲から切り離されたように静まり返っている。
自分が何を口にしたのか、シンクレアは理解していた。
お前が傷つけば、自分も苦しい。
そう伝えたのと変わらない。
まだ恋ではない。
少なくとも、そう断言できるほど強い感情ではない。それでも、彼が怪我をしたと知った瞬間、胸が締めつけられた。治癒術師が骨に異常はないと告げるまで、呼吸の仕方さえ忘れそうだった。
その事実を、オーレリアンへ知られてしまった。
彼はしばらく目を見開いていた。やがて言葉の意味が胸へ届いたのか、表情がゆっくりと変わっていく。求婚を受け入れられたわけでもないのに、眩しいほどの喜びが浮かび始めた。
「心配してくれたのか?」
「質問に答えろ」
「してくれたんだな」
「オーレリアン」
名を呼ぶ声が低くなる。だが、彼は怯まなかった。むしろ嬉しさを抑えきれず、口元を緩めている。
「ごめん。でも、それは嬉しい」
「私は嬉しくない。お前が傷ついたのだから当然だろう」
「それでも、あんたが俺を気にしてくれたことは嬉しい」
どれほど厳しい声を向けても、彼は言葉の奥にある感情だけを拾い上げてしまう。シンクレアが隠そうとしているものを暴きたいわけではない。ただ、差し出された小さな好意を見落とさず、大切に受け取っている。
だからこそ、扱いに困る。
王子の前では、言葉を慎重に選ばなければならなかった。弱みを見せれば利用され、好意を示せば当然のものとして受け取られた。心配を口にしても礼を返されることはなく、婚約者なのだから気遣って当然だと言われた。
オーレリアンは、たった一言で喜ぶ。
それがシンクレアには不思議であり、同時に胸を痛ませた。彼は自分の好意を無条件に信じているわけではない。少しずつ近づけたことを、そのたびに確かめている。求婚をした側でありながら、受け入れられて当然だとは一度も考えていない。
「次に同じことが起きたら、自分の身を優先しろ」
「それは約束できない」
「なぜだ」
「今度も同じ状況なら、俺はまたあんたを受け止めるから」
オーレリアンは即座に答えた。シンクレアは言葉を失い、睨むように彼を見る。しかし彼も譲るつもりはないらしく、横たわったまま視線を逸らさなかった。
「辺境軍では、仲間を助けるために自分まで倒れることを教えているのか」
「辺境軍では、仲間と一緒に生きて帰ることを教えられる」
彼の声から、わずかな軽さが消えた。
オーレリアンが所属する辺境軍は、エルフレイム領を含む北部一帯を魔物や外敵から守る軍である。王都の命令だけを待って動く組織ではない。辺境に暮らす者の命と土地を守るため、日々実戦へ身を置いている。彼が十七歳という若さで遊撃隊へ加わっているのも、剣の腕だけではなく、仲間と連携し、生き残るための判断を身につけているからだろう。
「誰かを庇って二人とも倒れるのは違う。でも、手を伸ばせば助けられるのに見捨てるのも違う。俺は、あのとき間に合うと思った。だから行った」
「結果として、お前は怪我をした」
「でも、二人とも生きてる」
その返答は、単純でありながら重かった。
確かに彼は無謀に飛び込んだのではない。シンクレアが落ちる位置を読み、自分の身体で衝撃を受け止めた。怪我を避ける余裕はなかったが、命を失う危険まで冒したわけではない。戦いの最中にもかかわらず、状況を見て判断していた。
怒りの一部が、自分自身へ向いていることをシンクレアは認めた。
彼を危険へ晒したこと。
受け止めてもらわなければならなかったこと。
彼が傷ついた瞬間、冷静さを失いかけたこと。
それらを認めたくなくて、オーレリアンの行動だけを責めようとしていた。
「それに、あんたも俺を助けただろ」
彼が続ける。
シンクレアは僅かに眉を寄せた。
「何の話だ」
「魔角熊の前脚を受けたときだ。俺が押し切られそうになっていたのに、あんたは振り返らなかった」
「あれは魔石を砕くためだ」
「違う。振り返らなかったのは、俺が持ち堪えると信じたからだろ」
否定できなかった。
オーレリアンは前脚を逸らすと約束したわけではない。シンクレアも、彼へ明確な指示を出していなかった。それでも彼が守ると分かっていた。だから振り返らず、魔石だけを見て剣を振り下ろした。
信じた。
彼が自分を支えると。
それは剣を交えた者同士の判断であり、同時に、言葉を越えた信頼でもあった。
「俺はあんたを信じた。あんたも俺を信じてくれた。だから倒せたんだ」
オーレリアンは満足そうに息を吐いた。先ほどまで浮かべていた明るい笑顔ではない。共に戦った相手へ敬意を向ける、静かな表情だった。
シンクレアは彼を見つめる。
出会ってまだ二日しか経っていない。
彼が普段どのように暮らし、何を好み、何を嫌うのか、知らないことばかりだった。辺境軍でどのような任務に就き、仲間たちからどう見られているのかも分からない。結婚した後の生活について話したことさえない。
それなのに、命の危険が迫った瞬間には背中を預けられた。
言葉では取り繕えても、戦いの中では本性を隠せない。恐怖に呑まれる者もいれば、功を焦って周囲を見失う者もいる。自分だけが生き残ろうと仲間を盾にする者もいる。
オーレリアンは違った。
敵の動きを見て、仲間の位置を見て、必要な場所へ剣を置いた。シンクレアの力を疑わず、彼女が選んだ役割を奪おうともしなかった。危険だからと後ろへ押しやるのではなく、隣で同じ危険を引き受けた。
その姿を思い返すほど、シンクレアの内側にあった迷いが別の形へ変わっていく。
求婚を受けるべきか、まだ答えは出ていない。
だが、彼を知りたいという気持ちは、もはや好奇心だけではなかった。
「私は、お前に怪我をしてほしくない」
一度視線を伏せてから、シンクレアはゆっくりと言った。
逃げずに伝えるべきだと思った。
オーレリアンが自分の感情を真っ直ぐ差し出すように、彼女も少しだけ本心を渡さなければ、対等に向き合うことにはならない。
「お前が私を庇ったことを責めたいわけではない。助けられたことには感謝している。ただ……お前が動かなくなった瞬間、私は怖かった」
オーレリアンの顔から笑みが消えた。
驚きのあとに浮かんだのは、喜びではない。シンクレアが感じた恐怖を、自分のことのように受け止める痛みだった。
「悪かった」
今度の謝罪に軽さはなかった。
「そんな顔をさせるつもりはなかった」
「お前は私の顔を見ていなかっただろう」
「今の声で分かる」
静かな返答だった。
シンクレアは顔を上げる。オーレリアンは先ほどまでのように嬉しさを隠さず笑ってはいない。自分が心配されたことを喜ぶより、そのために彼女を怯えさせたことを悔やんでいる。
「次からは、もう少し上手く受け止める」
「庇わないとは言わないのだな」
「それは言えない」
「頑固者」
「あんたに言われたくない」
言い返され、シンクレアは眉を上げた。オーレリアンも一瞬だけ身構えたが、すぐに口元を緩める。二人の間に張りつめていた空気が、僅かにほどけた。
「では、約束を変える」
シンクレアは膝の上で手を組み直した。
「私を庇うなら、自分も無事でいろ」
「無茶を言うな」
「できないなら庇うな」
「分かった。努力する」
到底確実とは言えない約束だった。それでも彼は、できないと拒まずに受け取った。シンクレアも、それ以上を求めることはできなかった。戦いの中に絶対などない。どれほど腕を磨いても、予期せぬ出来事は起こる。だからこそ、二人とも生きて帰るために力を尽くす。その意思だけは共有できる。
馬車が緩やかな坂へ差しかかり、車体が大きく揺れた。オーレリアンの表情が歪む。シンクレアは咄嗟に寝台の縁へ手をつき、彼の身体が揺れないよう肩を押さえた。
触れてから、動きを止める。
掌の下には胸当てを外した肩があった。服越しにも体温が伝わる。オーレリアンも驚いたようにシンクレアを見上げたが、何も言わなかった。彼女が自分から手を伸ばしたことへ喜びを見せれば、すぐに離されると分かっているのかもしれない。
坂を越え、揺れが収まる。
それでもシンクレアは、すぐには手を離さなかった。
オーレリアンの呼吸が落ち着いたことを確かめてから、ゆっくりと掌を退ける。
「眠れ。屋敷へ着くまで時間がある」
「眠ったら、あんたが降りるだろ」
「降りない」
「本当に?」
「私を何だと思っている」
「気づかないうちに、一人で何でも片づける人」
シンクレアは否定しようとして、言葉を止めた。彼の認識はおそらく間違っていない。助けを求めるより、自分で動いた方が早いと考えることは多い。心配を掛けたくないという理由で、家族にも負傷を隠した経験がある。
オーレリアンは、まだ出会って二日しか経っていないにもかかわらず、その一面へ気づき始めていた。
「お前が目を覚ますまで、ここにいる」
シンクレアが言うと、彼はようやく安堵したように瞼を伏せた。
「なら、少し寝る」
「ああ」
「起きたときも、いてくれ」
「同じことを何度も言わせるな」
返事を聞いたオーレリアンは、薄く笑った。痛みと疲労のためか、それからほどなく呼吸が深くなる。完全に眠ったことを確かめても、シンクレアは席を立たなかった。
眠る横顔は、戦っていたときよりもずっと幼く見えた。まだ十七歳なのだと、改めて思い知らされる。辺境軍の兵士として魔物と戦い、剣を握れば自分と背中を預け合える。それでも、閉じた瞼や力の抜けた口元には少年らしさが残っていた。
五つ年下。
その事実は、求婚を受けたときから分かっていた。
だが今までは、年齢差を理由に彼を幼いと決めつけようとしていたのかもしれない。自分より若いから、情熱に任せて求婚したのではないか。憧れと恋を取り違えているだけではないか。そう疑うことで、彼の好意を真正面から受け止めずに済ませようとしていた。
今日の戦いで見たオーレリアンは、決して無知な少年ではなかった。
未熟な部分はある。
覚えるべきことも、経験すべきことも多い。
けれど、それはシンクレアも同じだった。年齢を重ねたからといって、すべてを知っているわけではない。人を信じることも、誰かの好意を受け入れることも、彼女はむしろオーレリアンより不得手だった。
年上だから導かなければならないのではない。
家格が上だから守らなければならないのでもない。
互いに足りないものを補いながら、隣へ立つ。
魔物との戦いで、それは自然にできた。
結婚した後も、同じように歩けるのだろうか。
オーレリアンは辺境軍に所属している。結婚後も任務を続けるなら、魔物討伐や国境警備のため領地を離れることがあるだろう。傷を負って帰る日もあるかもしれない。帰らない可能性さえ、決してないとは言えない。
その未来を想像すると、胸の奥へ冷たいものが差し込む。
昨日までなら、知らない相手の危険をここまで現実的に考えることはなかった。
すでに彼を失うことを恐れ始めている。
それは恋なのか。
まだ分からない。
ただ、彼の隣を選んだなら、穏やかな日々だけを得られるわけではないことは理解できた。辺境に生きる者同士、剣を手放さずに暮らすことになる。オーレリアンもシンクレアへ剣を置けとは言わないだろう。ならば二人は、今日のように同じ戦場へ立つこともある。
怖くないと言えば嘘になる。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
彼の後ろへ隠れるのでも、彼を後ろへ庇うのでもない。並んで剣を取り、互いの背中を守る。その未来なら、想像することができた。
馬車の外から、キララの鼻を鳴らす声が聞こえた。窓を開けると、白い頭がすぐ近くまで寄せられる。シンクレアが指先を伸ばすと、キララは歩きながらその手へ鼻先を触れた。
「彼は眠った」
小さな声で告げる。
キララは理解したように耳を動かし、今度は窓の奥を覗き込んだ。寝台で眠るオーレリアンを見つけると、安心したように尾を一度振る。
「お前がここまで懐く理由も、いずれ分かるのだろうか」
問い掛けても、キララは答えない。
ただ、黒い瞳には穏やかな確信があった。
彼女にとってオーレリアンは、初めて会った人間ではない。そのことだけは、もう疑いようがなかった。十二年前の森で助けた幼子。顔も名前も思い出せない少年。おそらくキララは、最初から彼だと気づいている。
だが、シンクレアにはまだ確信がない。
眠っている彼へ視線を戻す。
仮にオーレリアンがあの子どもだったとしても、それを理由に求婚を受けるつもりはなかった。過去の縁は、今の選択を補うものにはなっても、決めるものにはならない。
今日、彼に背中を預けたのは、十二年前に助けた子どもだからではない。
今のオーレリアンを信じたからだ。
その違いだけは、決して間違えたくなかった。
やがて馬車の揺れが一定になり、窓の外に見慣れた村の畑が現れた。公爵邸まで、あと半刻もかからない。道沿いでは一行へ気づいた領民たちが作業の手を止めていたが、負傷者を運ぶ馬車を見て表情を曇らせる者もいた。
シンクレアは窓を閉じ、再びオーレリアンへ目を向けた。
眠っていた彼の眉が動く。痛みのためではない。何か夢を見ているようだった。
「……泣くな」
掠れた声が、僅かに漏れた。
シンクレアの身体が固まる。
オーレリアンは目を覚ましていない。瞼を閉じたまま、眉を寄せている。指先が何かを探すように寝具の上を動いた。
「一人に……しないから」
その言葉を聞いた瞬間、遠い記憶が胸の奥で揺れた。
薄暗い森。
木の根元で膝を抱え、声を殺して泣いていた幼い子ども。
近づくシンクレアへ気づき、涙で濡れた顔を上げた。
怖い。
帰れない。
一人にしないで。
そう繰り返していた気がする。
シンクレアは寝台へ身を寄せた。眠るオーレリアンの顔を見つめる。成長した輪郭から幼い面影を探そうとするが、記憶の中の顔は依然として霧に覆われていた。
それでも、金色の瞳だけは覚えている。
泣き腫らしながら、自分を見上げていた瞳。
シンクレアが手を差し出すと、恐る恐る握り返してきた小さな手。
もしかすると、本当に。
思いかけたとき、オーレリアンの指が再び動いた。
無意識のまま、寝台の端に置いていたシンクレアの手へ触れる。
指先が重なった。
シンクレアは反射的に引こうとしたが、止めた。
オーレリアンの手には力がない。ただ、確かな温もりがある。幼い日の記憶の中で握った手とは、大きさも硬さも違っていた。今の手には剣を振り続けたまめがあり、多くの戦いを越えてきた痕跡が刻まれている。
十二年という時間を生きた手だった。
シンクレアは重なった指を見つめ、やがて自分から僅かに握り返した。
オーレリアンは目を覚まさない。
眠ったまま、苦しげだった表情だけが少し和らいだ。
「今度は、一人にしないのは私の方かもしれないな」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
答えはない。
馬車はゆっくりと公爵邸へ近づいていく。
シンクレアは屋敷へ到着するまで、その手を離さなかった。




