選ぶための時間 2
領地の北側へ向かう一行が屋敷を出たのは、朝食を終えてから半刻ほど後のことだった。
空はよく晴れていた。
薄い雲が高いところを流れ、夏を迎える前の陽射しが、草原と森の境へ柔らかな光を落としている。街道脇に並ぶ木々は若葉を広げ、風が抜けるたび、重なり合う葉の間から細かな光がこぼれた。
視察へ向かう者は多くない。
先頭にはローゼンタール公爵とアルベルトが並び、その少し後ろをシンクレアの兄と領地の騎士団長が進んでいる。地形や警備について話し合うことが目的であるため、護衛には公爵家の騎士が八名ほど選ばれていた。
シンクレアとオーレリアンは、その後方を並んで進んでいる。
キララは馬へ乗らず、二人の間を縫うように駆けていた。森へ近づくほど足取りは軽くなり、道端の草や木の根へ鼻先を寄せては、何かを確かめるように耳を動かしている。
朝の訓練を終えた後、オーレリアンは身なりを整えていた。
濃紺の騎士服に革の胸当てを重ね、腰には実戦用の剣を提げている。訓練場で見せた無防備な姿とは異なり、今は王国軍の兵士としての緊張が全身へ宿っていた。
ただし、表情まで固いわけではない。
道沿いの畑で手を振る子どもを見つければ手を振り返し、見慣れない鳥が頭上を横切れば、僅かに目で追っている。視察へ参加する軍人として周囲へ注意を向けながらも、初めて見る土地を素直に楽しんでいるらしかった。
シンクレアは黒鹿毛の馬へ跨り、前方へ視線を向けていた。
昨日までなら、隣に誰がいるかをこれほど意識することはなかった。
けれど今は、オーレリアンの馬が小石を踏む音も、革の鞍が軋む音も、すぐ近くに聞こえる。
人前では敬語に戻す。
そう決めたはずだった。
それでも、先ほど朝食の席を離れた後で交わした短い会話が残っているせいか、二人の間だけに見えない繋がりが生まれたように感じられた。
表向きには何も変わらない。
求婚への答えも出していない。
ただ、二人きりのときだけ言葉を崩すという約束がある。
その小さな秘密が、隣を歩く青年を昨日より近い存在へ変えていた。
「シンクレア様」
オーレリアンが声を掛ける。
公の場へ合わせた、丁寧な呼び方だった。
シンクレアは顔だけを向けた。
彼は街道の先ではなく、左手に広がる森を見ていた。木々の高さは揃っておらず、奥へ進むほど枝葉が密集している。ところどころに岩肌が露出し、その下を細い水の流れが走っていた。
「この森は、魔物が多いのですか」
問いに、シンクレアは前方へ視線を戻した。
この一帯は、ローゼンタール領の中でも比較的魔力が淀みやすい場所だった。大規模な巣ができることは稀だが、山脈から下りてきた魔物が森へ潜み、家畜や旅人を襲うことがある。
数年前には、狼型の魔物が十数体ほど群れを作った。
騎士団が討伐したものの、地形が入り組んでいたため、捕捉までに時間を要した。森の中には古い獣道が多く、魔物が身を隠す場所には困らない。
「近頃は落ち着いている。ただ、北の山から流れてくる個体はいる」
シンクレアが答えると、オーレリアンは森の奥へ目を凝らした。
木立の隙間を見ているだけではない。
風の向き。
鳥の声。
枝葉の揺れ。
そこへ存在する変化を、一つずつ拾おうとしている。
朝の訓練で見たのと同じ目だった。
剣を交える相手の肩や足だけでなく、その周囲まで見ている。直接的な危険だけではなく、次に起こることを探す視線だった。
シンクレアは彼の横顔を見ながら、騎士団長が口にしていた評価を思い出した。
辺境軍の若き天才。
十七歳にして第一遊撃隊へ配属され、複数の討伐で戦功を挙げている。剣の速さだけなら、同年代で並ぶ者はいないとも聞いていた。
誇張ではないだろう。
訓練場で感じたのは、未完成でありながら、すでに実戦を知っている剣だった。
けれど、それでも十七歳だ。
経験では、シンクレアの方が上にいる。
魔物討伐へ初めて同行したのは十五歳の頃だった。以来、領地を守るため何度も剣を振るってきた。怪我をした者も、戻らなかった者も見ている。
オーレリアンの腕を疑っているわけではない。
ただ、実戦になったとき、自分は彼を一人の兵士として見ることができるだろうか。
求婚してきた相手。
昨日初めて出会い、少しずつ知ろうとしている青年。
その存在が危険へ晒されたとき、冷静でいられるのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、一行は北へ進んだ。
街道から細い脇道へ入り、やがて視察の目的地である見張り台が見えてくる。
低い丘の上へ石造りの塔が建ち、周囲には小さな詰所と馬を繋ぐ柵が設けられていた。ここからは森の北側と、遠くに連なる山の麓まで見渡せる。
普段は六名の騎士が交代で詰めている。
一行が近づくと、見張り台の兵士が姿を現した。
そのうちの一人が慌てて丘を下り、ローゼンタール公爵の前へ進み出る。
報告には特に異常はなかった。
三日前に森の端で小型の魔物が一体発見されたものの、巡回中の騎士が討伐している。家畜の被害もなく、周辺の村から行方不明者が出たという知らせもない。
公爵たちは塔へ上り、実際の地形を確認し始めた。
シンクレアも馬を下りる。
オーレリアンが隣で手綱を引き、周囲を見渡していた。塔を眺めるより先に、地面に残る蹄の跡や、森へ続く道へ目を向けている。
キララは丘の中腹で足を止めた。
先ほどまで軽やかに駆けていたはずなのに、白い身体を低くし、森の方角へ顔を向けている。
耳がぴんと立っていた。
尾は動いていない。
シンクレアは即座にその変化へ気づいた。
「キララ」
呼び掛けると、キララは振り返らなかった。
黒い鼻先を僅かに上げ、風の匂いを嗅いでいる。
次の瞬間、喉の奥から低い唸りが漏れた。
穏やかな聖獣の声ではない。
警告だった。
シンクレアの手が、腰の剣へ伸びる。
「森に何かいる」
声を上げると、周囲の騎士たちが一斉に動いた。
塔へ上りかけていた公爵たちも足を止める。
騎士団長が丘の端へ進み、森を見下ろした。木々は風に揺れている。目に見える異変はない。
だが、鳥の声が消えていた。
ほんの少し前まで、森のあちこちから囀りが聞こえていた。
今はない。
風に擦れる葉の音だけが、広い森へ不自然なほど大きく響いている。
オーレリアンも剣の柄へ手を置いた。
先ほどまでの穏やかな表情は消えている。
「近い」
低く告げた。
シンクレアは彼を見る。
オーレリアンの視線は、丘の下にある茂みへ向いていた。
そこだけが、風と異なる動きをしている。
枝葉が外側から押されるように膨らみ、すぐに戻る。
一度。
二度。
別の場所でも、同じ動きが起きた。
数が多い。
「陣形を組め!」
騎士団長の号令が響く。
騎士たちが公爵たちを囲み、丘の上へ防衛線を作る。馬は詰所の裏手へ引かれ、弓を持つ者が塔の上へ駆け上がった。
その瞬間、森から獣の咆哮が上がった。
低く、濁った音だった。
一つではない。
複数の声が重なり、地面から響くように丘を震わせる。
茂みが大きく揺れた。
最初に飛び出したのは、黒い狼に似た魔物だった。
通常の狼より一回り大きく、肩の高さは成人の腰に届く。背中からは鋭い骨の突起が並び、口元には黒い粘液が滴っている。赤く濁った目は焦点が合っておらず、飢えよりも魔力に侵された狂気を宿していた。
一体。
二体。
続いて、茂みの奥から次々と姿を現す。
十体では足りない。
さらに奥で枝が折れ、地面を蹴る音が重なっている。
「魔狼の群れだ!」
騎士の声が上がる。
森から飛び出した魔狼たちは、丘の上にいる人間を見つけるなり速度を上げた。黒い身体が草地を走り、低い姿勢のまま一気に距離を詰めてくる。
塔の上から矢が放たれた。
最初の一射が先頭の魔狼の肩へ刺さる。
魔物は身体を傾けたが、倒れなかった。痛みを感じていないかのように走り続け、矢を身体へ突き立てたまま牙を剥く。
二射目が首へ入る。
ようやく一体が地面へ転がった。
その後ろから、別の個体が死骸を飛び越える。
数が多すぎる。
丘の周囲へ配置されている騎士だけでは、全方位を守りきれない。
シンクレアは剣を抜いた。
鞘から刃が走る音が、咆哮の中へ鋭く混じる。
「西側を抑える。三人、私について来い」
指示を出しながら丘を駆け下りる。
魔狼を防衛線まで近づければ、公爵たちを守りながら戦うことになる。それでは動きが制限される。狭い場所へ群れが雪崩れ込めば、騎士同士が剣を振るう空間も失われる。
少しでも手前で数を削る必要があった。
三人の騎士が後へ続く。
その足音に、もう一つ速い音が重なった。
オーレリアンだった。
シンクレアの左隣へ追いつき、剣を抜く。
「俺も行きます」
人前であるため、言葉は丁寧だった。
だが、返答を待つ声ではない。
すでに視線は前方の魔狼へ向いている。
シンクレアは止めなかった。
彼の実力を知らないわけではない。ここで下がれと言うことは、一人の兵士として扱わないのと同じだった。
それに、説明している時間もない。
「左を任せる」
「はい」
短い返答と同時に、二人は左右へ分かれた。
最初の魔狼が跳びかかる。
シンクレアは正面から受けなかった。
牙が届く寸前に右へ踏み込み、身体を捻る。黒い巨体が脇を通り過ぎる瞬間、剣を横へ走らせた。
刃が魔狼の首筋へ入る。
骨へ当たる重い感触。
力任せに押し切るのではなく、身体の回転を刃へ乗せる。魔狼の勢いも加わり、剣は深く肉を裂いた。
黒い血が空中へ散る。
魔狼は悲鳴を上げる暇もなく地面へ崩れた。
その後ろから二体目が迫る。
シンクレアが剣を引き戻すより先に、横から金属音が響いた。
オーレリアンの剣が、二体目の牙を受け流していた。
正面で止めていない。
朝、シンクレアが教えた動きだった。
噛みつこうと突き出された頭部へ剣の腹を合わせ、僅かに角度を変える。魔狼の巨体はそのまま外側へ流れ、剥き出しになった胴へオーレリアンの左足が踏み込んだ。
剣が下から跳ね上がる。
柔らかい腹部を裂き、そのまま胸骨の間へ刃が入った。
オーレリアンは剣を引き抜きながら身体を回す。
背後から迫った別の魔狼へ、振り向きざまに切っ先を向けた。
間に合わない。
牙が彼の肩へ届く。
シンクレアがそう判断するより早く、オーレリアンは上体を沈めた。魔狼の前脚が頭上を通過する。彼は地面へ膝をつきながら剣を逆手へ持ち替え、跳び越えていく魔狼の腹へ刃を突き上げた。
巨体が空中で捻れる。
血が降る。
オーレリアンは倒れ込む魔物の下から転がり出て、片膝をついたまま次の敵へ目を向けた。
動きに迷いがない。
だが、無謀でもなかった。
目の前の一体だけに集中せず、周囲の位置を常に捉えている。
シンクレアは一瞬だけ彼の姿を確認し、すぐに前へ視線を戻した。
三体が同時に迫っている。
騎士たちが一体を引き受ける。
残る二体がシンクレアへ向きを変えた。
一体目が低く走り、足元を狙う。
もう一体は背後で速度を落とし、先に動いた個体の陰へ身体を隠していた。
連携している。
ただの獣ではない。
魔力に侵されていても、群れとして狩る知恵は残っているらしい。
シンクレアは剣を正面へ構えた。
足元を狙う一体が跳ぶ。
彼女は剣を振らず、左足を前へ踏み出した。
接近する方向へ自ら距離を詰める。
魔狼が牙を開く。
その顎が閉じるより先に、シンクレアの膝が下顎を蹴り上げた。
頭部が反り返る。
無防備になった喉へ剣を突き込む。
手応えを確かめる暇はない。
背後に隠れていた二体目が、その瞬間を狙って跳びかかっていた。
シンクレアは剣を抜けない。
深く刺さりすぎた。
魔狼の爪が、背中へ迫る。
身体を捨てて横へ転がるしかない。
そう判断した瞬間、黒い影と魔狼の間へ銀の刃が走った。
オーレリアンだった。
横から踏み込み、魔狼の前脚を切り払う。
体勢を崩した魔物の肩へ身体ごとぶつかり、シンクレアから遠ざけた。魔狼が地面へ転がる。すぐに起き上がろうとした首筋へ、オーレリアンの剣が振り下ろされた。
一撃。
骨が断たれる。
魔狼の身体から力が抜けた。
オーレリアンは倒した魔物を見ず、シンクレアへ顔を向ける。
「無事か?」
周囲には騎士たちがいる。
それでも、とっさに敬語が外れていた。
シンクレアは魔狼の喉から剣を引き抜く。
黒い血が刃を伝い、草地へ落ちた。
「問題ない」
同じく、言葉を整える余裕はなかった。
オーレリアンは短く頷く。
安堵するのは一瞬だけだった。
二人は同時に背中を向け合う。
次の魔狼が左右から迫っていた。
言葉を交わさなくても、互いがどこを守るか分かった。
シンクレアは右。
オーレリアンは左。
背後は相手へ任せる。
朝に一度剣を交えただけだった。
共に戦うのは、これが初めてだ。
それでも、不思議なほど動きが噛み合った。
シンクレアが一歩下がれば、オーレリアンが前へ出る。
オーレリアンが敵の攻撃を外へ流せば、その隙へシンクレアの剣が入る。
互いの剣が交差することはない。
相手の身体が視界から外れても、次にどこへ動くのかが気配で分かった。
シンクレアは低く踏み込み、魔狼の前脚を斬る。
身体が沈んだ瞬間、横から迫る別の個体へ対処できなくなる。
けれど、振り向かなかった。
金属が肉を裂く音が背後で響く。
オーレリアンが倒している。
その確信があった。
逆に、彼が剣を深く突き込んだときには、シンクレアが側面へ回り込む魔狼を斬った。
二人の間には、余計な声がない。
右。
下がれ。
任せろ。
そう告げる必要すらなかった。
肩の動き。
足音。
呼吸。
剣が風を切る音。
それだけで、互いの意図が伝わってくる。
朝の訓練で交わした剣が、今度は同じ敵へ向けられている。
戦いながら、シンクレアは奇妙な感覚を覚えていた。
一人で戦うときより、視野が広い。
背中を預けることで、守る場所が減ったからではない。
オーレリアンが、自分の動きを理解している。
彼がどこにいるかを考えなくても、その存在が次の動きを支えていた。
これまで多くの騎士と共に戦ってきた。
互いの癖を知る者もいる。
長年訓練を重ねた相手なら、合図一つで動ける。
けれど、出会って二日目の青年と、これほど剣が重なるとは思わなかった。
オーレリアンも同じものを感じているのかもしれない。
魔狼を斬り伏せるたび、彼の表情には驚きが浮かぶ。
それは敵の数への驚きではなかった。
シンクレアが自分の隙を埋める。
自分が作った隙へ、彼女の剣が入る。
そのたびに、金色の瞳が僅かに輝いていた。
群れの前方が崩れ始める。
丘から放たれる矢も、確実に数を減らしていた。
騎士たちも陣形を保ち、襲いかかる魔狼を一体ずつ仕留めている。
このままなら押し返せる。
そう思ったとき、森の奥から新たな咆哮が響いた。
先ほどまでとは違う。
低く、地を震わせる声だった。
残っていた魔狼たちが、一斉に動きを止める。
次いで、左右へ分かれた。
道を開けるように。
シンクレアは森の暗がりへ視線を向ける。
枝が折れる。
低木が根元から倒れる。
何かが木々の間を押し退け、こちらへ近づいている。
最初に見えたのは、巨大な角だった。
黒く捻れた二本の角が茂みを突き破る。
続いて、灰色の頭部が現れる。
熊に似た身体。
しかし、肩の高さは騎乗した人間に届くほど大きい。前脚は異様に長く、爪は剣のように湾曲している。背中には岩のような甲殻が重なり、額の中心には濁った紫色の魔石が埋め込まれていた。
魔狼の群れを従える上位種。
魔角熊。
単独でも騎士団を苦しめる魔物だった。
しかも、額の魔石は通常より大きい。
長い時間、森の魔力を取り込んでいる。
「下がれ!」
シンクレアが声を上げる。
周囲の騎士たちが反応する。
だが、魔角熊の方が速かった。
巨体からは想像できない速度で地面を蹴る。
前脚が振るわれた。
風圧だけで草が倒れる。
近くにいた騎士が盾を構えた。
爪が盾へ叩きつけられる。
金属が歪む音。
騎士の身体が宙へ浮き、数歩先へ投げ出された。
「ロラン!」
別の騎士が叫ぶ。
倒れた男は動いている。
だが、すぐには立てない。
魔角熊が追撃しようと向きを変える。
シンクレアは地面を蹴った。
傷ついた騎士と魔物の間へ滑り込み、剣を両手で構える。
前脚が振り下ろされる。
受け止められない。
剣で防げば、刃ごと身体を砕かれる。
シンクレアは直前で横へ跳び、爪を避ける。
地面が抉れた。
土と小石が飛び散る。
着地と同時に、魔角熊の手首へ剣を振るう。
刃が毛皮へ入る。
硬い。
皮膚の下に、魔力で強化された筋肉がある。
浅い傷しか作れない。
魔角熊が咆哮し、腕を振り払う。
シンクレアは剣を抜きながら後ろへ跳ぶ。
その横を、オーレリアンが駆け抜けた。
魔角熊の注意がシンクレアへ向いている間に、死角へ回り込む。
背中の甲殻は厚い。
狙うなら脇腹か、脚の付け根。
オーレリアンは迷わず後ろ脚へ剣を突き立てた。
刃が深く入る。
魔角熊の身体が傾く。
咆哮とともに、後ろ脚が跳ね上がった。
オーレリアンは剣を抜くより先に地面へ身を投げる。
巨大な脚が頭上を通過した。
身体を転がし、剣を離さず距離を取る。
「右の後ろ脚が鈍った!」
オーレリアンが叫ぶ。
シンクレアは魔角熊の動きを見る。
確かに、右脚へ体重を掛けるたび身体が沈んでいる。
だが、まだ倒せない。
額の魔石を破壊しなければ、傷は魔力によって塞がれていく。
すでにシンクレアがつけた手首の傷が、黒い煙を上げながら縮まり始めていた。
「魔石を狙う」
シンクレアが告げる。
オーレリアンは魔角熊から目を離さないまま答えた。
「どうやって上へ行く?」
額の位置は高い。
魔物が頭を下げた瞬間でなければ、地上から剣は届かない。
弓を使っても、硬い魔石を貫くのは難しい。
シンクレアは魔角熊の足運びを見る。
傷ついた右脚を庇っている。
そのため、方向転換の際に左へ身体が傾く。
勢いをつけて突進させ、足元を崩せば頭が下がる。
ただし、囮になる者は正面から巨体を引きつけなければならない。
一歩間違えば、避ける場所はない。
シンクレアが剣を握り直す。
「私が引きつける。お前は脚を狙え」
オーレリアンの顔が険しくなった。
「危険すぎる」
「他に方法がない」
「なら俺が前へ出る」
「私の方が魔物の動きを知っている」
言葉が鋭くなる。
オーレリアンは反論しなかった。
けれど、納得した表情ではない。
彼の視線が一瞬、シンクレアへ向く。
心配が露わだった。
戦いの最中でなければ、何か言ったかもしれない。
だが魔角熊が前脚を地面へ叩きつけ、こちらへ向きを変えた。
考える時間は終わった。
「信じろ」
シンクレアは告げた。
オーレリアンの瞳が揺れる。
それは彼が、訓練場でシンクレアへ向けていたものと同じ言葉だった。
背中を預ける。
相手が自分の隙を埋めると信じる。
今度は、シンクレアがそれを求めている。
オーレリアンは唇を引き結んだ。
それから、深く頷く。
「分かった」
二人は同時に動いた。
シンクレアは魔角熊の正面へ走る。
剣を下げ、あえて無防備に見せる。
魔物の濁った目が彼女を捉えた。
咆哮。
地面を蹴る。
巨大な身体が迫る。
一歩ごとに土が揺れた。
シンクレアは退かない。
距離を測る。
十歩。
八歩。
五歩。
魔角熊が頭を下げる。
黒い角が正面を向く。
突進を受ければ、身体は貫かれる。
背後から、オーレリアンの足音が聞こえた。
彼は右側へ回り込んでいる。
まだ早い。
シンクレアは魔物から目を逸らさない。
三歩。
二歩。
角が胸元へ迫る。
直前で、彼女は左へ踏み切った。
ただ避けるのではない。
魔角熊の左肩へ手を置き、その勢いを利用して身体を回す。巨体の脇を抜けながら、剣を左の前脚へ叩き込んだ。
体重が一瞬崩れる。
同時に、オーレリアンの剣が傷ついた右後ろ脚へ入った。
今度は浅くない。
朝に教えた受け流しと同じように、魔物が前へ進む力を利用して刃を滑らせる。
右脚の腱が断たれた。
魔角熊の身体が大きく傾く。
勢いを止められず、左肩から地面へ倒れ込む。
地響き。
土煙が上がる。
額が下がった。
シンクレアはすぐに方向を変える。
魔石までの距離は短い。
だが魔角熊はまだ動く。
倒れながら左の前脚を振り上げ、彼女を薙ぎ払おうとする。
避ければ、魔石を狙う機会を失う。
シンクレアは前へ出た。
爪が迫る。
その間へオーレリアンが飛び込んだ。
剣を両手で構え、振り下ろされる前脚を受け流す。
完全には逸らせない。
力の差が大きすぎる。
刃と爪がぶつかった瞬間、オーレリアンの身体が沈んだ。靴が地面を滑り、土へ二本の線を刻む。
それでも倒れない。
腕が震えている。
肩へ負荷が掛かり、唇の端から息が漏れる。
「行け!」
オーレリアンが叫ぶ。
シンクレアは彼を見なかった。
見る必要はない。
彼が持ち堪えると信じた。
魔角熊の頭部へ駆け上がる。
倒れた肩を踏み台にし、硬い甲殻へ足を掛ける。
魔石が目の前へ迫る。
濁った紫の光が内部で渦巻き、周囲の魔力を吸い込んでいた。
シンクレアは剣を逆手に持ち替える。
両手で柄を握る。
全体重を乗せ、刃を振り下ろした。
甲高い音が響く。
剣先が魔石の表面へ食い込む。
だが、割れない。
硬い。
刃が弾かれかける。
魔角熊が頭を振る。
シンクレアの足が浮く。
このままでは落とされる。
彼女は剣から手を離さなかった。
身体を魔石へ寄せ、もう一度力を込める。
刃の下へ細い亀裂が走った。
まだ足りない。
魔角熊が起き上がろうとする。
オーレリアンが抑えていた前脚も動き始める。
長くは持たない。
「シンクレア!」
名を呼ぶ声が聞こえる。
シンクレアは振り返らない。
代わりに、剣を僅かに傾けた。
力で押し切るのではない。
亀裂へ刃を滑らせる。
朝、オーレリアンへ教えたことと同じだった。
相手の力を受け止めず、弱い場所へ流す。
魔石の中で動く魔力の振動が、刃を通して手のひらへ伝わる。
一定ではない。
波がある。
光が弱まる瞬間。
その一点へ、全身の力を集中させる。
シンクレアは息を吐き、剣を捻った。
亀裂が一気に広がる。
魔石が砕けた。
紫色の光が爆ぜる。
衝撃がシンクレアの身体を弾き飛ばした。
足元から魔角熊の頭部が消える。
空が見える。
次いで、地面が迫った。
受け身を取るには身体が回りすぎている。
腕で頭を庇おうとした瞬間、横から強い力で抱き止められた。
オーレリアンだった。
彼も魔角熊の前脚から弾き飛ばされていたはずだった。
それでも立ち上がり、落下するシンクレアの下へ滑り込んだ。
二人の身体が地面へ倒れる。
オーレリアンの背が先に土へ打ちつけられた。
鈍い音。
シンクレアは彼の胸元へ抱え込まれる形で落ちたため、ほとんど衝撃を受けていない。
すぐ近くで、魔角熊が最後の咆哮を上げる。
額から紫色の光が漏れ、全身を覆っていた魔力が黒い煙となって消えていく。
巨体が痙攣する。
一度。
二度。
やがて動きを止めた。
周囲の魔狼たちも、支配が解けたように混乱した。
生き残っていた数体は森へ逃げようとする。騎士たちが追い、丘から放たれた矢が退路を塞いだ。
戦いは終わりつつある。
それでも、シンクレアの意識は目の前の青年へ向いたままだった。
オーレリアンは地面へ仰向けに倒れている。
腕はまだシンクレアの背中へ回されていた。
顔を僅かに歪め、息を詰めている。
「オーレリアン」
シンクレアはすぐに身体を起こした。
胸当て越しに手を添え、彼の呼吸を確かめる。
速い。
だが、意識はある。
金色の瞳がゆっくり開いた。
「無事か?」
掠れた声で、最初に尋ねたのはシンクレアのことだった。
自分が背中から地面へ落ちたにもかかわらず。
シンクレアの胸へ、鋭い感情が走る。
安堵。
怒り。
恐怖。
どれか一つではない。
すべてが一度に押し寄せ、声が出なかった。
「私は何ともない」
ようやく答え、彼の肩や首へ視線を走らせる。
目に見える出血はない。
手足も動いている。
だが、背中を強く打っている。
「動くな」
「でも、まだ魔狼が」
「もう騎士たちが抑えている」
シンクレアは低く言い切った。
周囲では確かに戦いが続いている。
だが、群れの主を失った魔狼に統率はない。数も残っていない。騎士団だけで対処できる。
今、優先すべきはオーレリアンだった。
彼はシンクレアの顔を見つめている。
怒られていると思ったのか、僅かに眉を下げた。
「悪い」
「何がだ」
「勝手に受け止めた」
謝罪の意味が理解できず、シンクレアは彼を見つめた。
オーレリアンは痛みを堪えながら、少しだけ笑う。
「近づかれるのが苦手なのに」
訓練場で、シンクレアが一歩退いたことを覚えていた。
それを気にしている。
命の危険がある中で彼女を庇い、地面へ叩きつけられた後でなお、許可なく触れたことを謝っている。
あまりにも馬鹿げていた。
今はそのようなことを気にする場面ではない。
そう叱るべきだった。
けれど、言葉が喉へ詰まる。
オーレリアンの腕の温もりが、まだ背中へ残っていた。
抱き止められた瞬間、嫌悪はなかった。
怖くもなかった。
ただ、彼が自分の下敷きになると気づいた瞬間、胸が凍るほど恐ろしかった。
傷ついてほしくないと思った。
求婚者だからではない。
辺境伯家の令息だからでもない。
オーレリアンという人間が、自分のために傷つくことが嫌だった。
その感情を何と呼ぶべきか、シンクレアにはまだ分からない。
「馬鹿者」
口から落ちたのは、叱責だった。
声が僅かに震えている。
オーレリアンは目を瞬いた。
「自分が怪我をしてまで庇う必要がどこにある」
「あるだろ」
返答は弱かったが、迷いはなかった。
オーレリアンは地面へ横たわったまま、シンクレアを見上げている。
「好きな女が落ちてきたんだ。受け止めるに決まってる」
戦いの直後だというのに、あまりにも真っ直ぐだった。
シンクレアの呼吸が止まる。
胸の奥に溜まっていた感情が、行き場を失ってさらに強くなる。
怒りたい。
軽率だと責めたい。
次は自分を優先しろと言いたい。
けれど、彼が自分を好きだから庇ったのだと聞かされ、その言葉を拒むこともできなかった。
周囲から騎士たちの声が近づいてくる。
治癒術を使える者を呼ぶ声。
負傷者を運ぶため担架を用意する指示。
現実が二人の間へ戻り始めていた。
シンクレアは立ち上がらず、オーレリアンの傍らへ膝をついたまま剣を拾う。
刃には魔角熊の魔石を砕いた亀裂が残っていた。
もう一度強く打ち合えば折れるだろう。
それでも、役目は果たした。
魔物は倒れている。
領地の者も、公爵たちも無事だった。
シンクレアは息を整え、オーレリアンへ視線を戻す。
彼は痛みを隠しきれない顔でありながら、満足そうだった。
「何を笑っている」
「共闘できたから」
声は掠れている。
それでも、嬉しさは明らかだった。
「すごかった。朝とは全然違った」
「当然だ。あれは稽古だった」
「そうじゃなくて」
オーレリアンは一度息を吸い、背中の痛みに顔を歪めた。
それでも言葉を続ける。
「一緒に戦ってるって、すぐ分かった。どこに動くか、何を狙うか。見なくても分かった」
シンクレアも、同じものを感じていた。
だから否定できない。
朝に一度剣を交えただけ。
それなのに、長年共に戦ってきた相手のように背中を預けられた。
オーレリアンの未熟さは確かにある。
力も経験も、まだ伸びる余地が大きい。
けれど彼は、相手を見て学び、すぐに自分の動きへ組み込める。
自分を誇示するためではなく、共に生き残るために剣を振るう。
それがどれほど稀なことか、シンクレアは知っていた。
「私もだ」
気づけば、言葉が零れていた。
オーレリアンの目が見開かれる。
シンクレアは一度口にしたものを引っ込めなかった。
「お前の動きが分かった。背中を預けても問題ないと思えた」
それは剣士として、最大に近い信頼だった。
出会って二日目の相手へ向ける言葉ではない。
けれど、嘘ではなかった。
オーレリアンの表情がゆっくり変わる。
驚きが消え、代わりに深い喜びが浮かぶ。
求婚の返事を待つ男の顔ではない。
一人の剣士として認められたことを、何より大切に受け取っている。
その姿を見て、シンクレアの胸に生まれた熱が、少しだけ穏やかなものへ変わった。
戦いの中で、彼は自分を守ろうとした。
同時に、自分の力を信じて任せた。
庇われただけではない。
隣に立ち、同じ敵へ剣を向けた。
それが嬉しかった。
第二王子の隣では、常に一歩後ろへ立つことを求められた。
剣を持つことも、前へ出ることも、彼の面目を潰す行為だとされた。
オーレリアンは違う。
彼はシンクレアを後ろへ置こうとしない。
危険な役目を任せることを恐れながらも、その判断を尊重した。
そして自分も同じ危険へ踏み込んだ。
夫婦になるとは、こういうことなのだろうか。
どちらか一方が守るのではない。
互いに剣を取り、背中を預け、倒れそうなときには支える。
今朝まで、その未来はまだ輪郭のないものだった。
今は、ほんの一瞬だけ見えた気がした。
遠くから、キララが駆けてくる。
白い身体には魔狼の黒い血が付いていた。別の場所で騎士たちを守っていたのだろう。二人のもとへ辿り着くなり、オーレリアンの顔へ鼻先を寄せ、次いでシンクレアの肩へ頬を擦りつける。
無事を確かめるように、何度も二人の間を行き来する。
やがて、ローゼンタール公爵とアルベルトも騎士たちに囲まれて丘を下りてきた。
アルベルトは息子が倒れている姿を見るなり顔色を変えたが、意識があると分かると、すぐに周囲の負傷者へも目を向けた。
シンクレアの兄は、討伐された魔角熊を見上げている。
額の魔石は完全に砕かれていた。
シンクレアの剣が深く突き刺さった痕跡と、脚を断ったオーレリアンの斬撃が残っている。
誰か一人では倒せなかった。
二人の動きが重なったからこそ、仕留められた。
治癒術師が駆け寄り、オーレリアンの状態を確認する。
背中へ強い打撲はあるが、骨に異常はないらしい。
数日は痛むだろう。
無理に剣を振らなければ、後遺症も残らない。
その言葉を聞いた瞬間、シンクレアの身体から力が抜けそうになった。
気づかれぬよう、剣を杖代わりにして立ち上がる。
オーレリアンも治癒術師に支えられ、ゆっくり身体を起こした。
立つことはできる。
だが、背中へ力が入るたび顔を歪めている。
シンクレアは彼の隣へ立った。
手を貸すべきか迷う。
訓練場では、自分から距離を取った。
今は、彼に支えられたばかりだった。
オーレリアンも、彼女が躊躇していることへ気づいたらしい。
自分から手を伸ばさない。
治癒術師の肩だけを借り、無理に笑っている。
その姿に、シンクレアは小さく息を吐いた。
考えるより先に、彼の腕を取る。
オーレリアンの身体が止まった。
驚いた顔で、シンクレアを見る。
「歩けるか」
問いながら、彼の腕を自分の肩へ回す。
距離が近づいた。
汗と血と土の匂い。
荒い呼吸。
身体の重み。
どれもはっきりと感じられる。
それでも、今度は退かなかった。
オーレリアンはしばらく言葉を失っていた。
やがて、ほんの少しだけ体重を預ける。
無遠慮に寄りかからない。
自分で歩ける部分は、自分で支えようとしている。
「歩ける」
声に、隠しきれない喜びが滲んでいた。
怪我をしているのに、なぜ嬉しそうなのか。
理由は分かっている。
シンクレアが、自分から触れることを許したからだ。
「勘違いするな。負傷者を運ぶだけだ」
「分かってる」
返事は素直だった。
だが、口元には笑みが残っている。
シンクレアはそれ以上何も言わなかった。
二人はゆっくり丘を上る。
キララがすぐ隣を歩く。
周囲では騎士たちが負傷者を運び、倒した魔物の数を確認していた。森の奥にはまだ注意が必要だが、群れの主を失った今、すぐに新たな襲撃が起きる可能性は低い。
戦いの痕跡が、草原のあちこちに残っている。
抉れた地面。
折れた矢。
黒い血。
倒れた魔狼。
その中を歩きながら、シンクレアは隣の重みを感じていた。
オーレリアンは無事だった。
それが何よりも大きかった。
求婚への答えは、まだ出していない。
彼を信じ切ったわけでもない。
けれど、昨日までとは違う。
彼が傷ついたとき、自分の胸が痛んだ。
彼に背中を預けたとき、恐怖はなかった。
彼と並んで戦う未来を、一瞬でも自然だと思った。
それはもう、ただ相手を見定めているだけではなかった。
シンクレアの中で、オーレリアンは確かに特別な存在になり始めていた。




