選ぶための時間
朝食の席へ向かうまで、二人の間に会話はなかった。
気まずい沈黙ではない。
訓練を終えた身体には心地よい疲労が残り、火照った肌を朝の風がゆっくり冷ましていく。庭の小径を歩くたび、濡れた草の匂いが立ち昇った。東の空へ昇った陽はまだ柔らかく、石畳の上に落ちる二人の影を長く伸ばしている。
シンクレアは前を向いたまま、隣を歩く気配を意識していた。
オーレリアンは歩調を合わせている。
先ほどまで剣を交えていたときの鋭い呼吸は落ち着き、足取りにも乱れはない。疲れていないわけではないだろう。捲ったままの袖から覗く腕には汗が残り、木剣を握っていた掌には薄く赤みが差していた。それでも、隣を歩くことを負担に思わせる素振りはなかった。
彼は何も話さない。
朝食へ行くぞと告げた後、シンクレアが背を向けた理由を察したのかもしれなかった。
好きだと言われた。
昨日の求婚とは異なる、不意に零れた言葉だった。
剣を振るう姿が好きだと。
自分が最も否定され続けた部分を、彼は迷いなく肯定した。
その余韻は、胸の奥からなかなか消えなかった。
言葉を信じるには早い。
昨日会ったばかりの相手だ。今は新鮮に見えるものも、日々を重ねれば煩わしさへ変わるかもしれない。剣を振るう妻を誇らしいと思うのは、遠くから見ている間だけかもしれない。
そう考えようとするたび、訓練場で見たオーレリアンの顔が浮かんだ。
負けても怒らず、教えを乞い、覚えたことをすぐに試した。
自分の剣が肩へ届いたことよりも、彼女へ痛みを与えなかったかを気にした。
あの態度に嘘はなかった。
少なくとも剣を交えた瞬間、彼はシンクレアを女として侮らず、一人の剣士として正面から見ていた。
それだけで、胸の内に長く張られていた糸が僅かに緩んでいる。
屋敷の裏口が近づく。
朝の仕事を始めた使用人たちが、籠や水差しを手に廊下を行き交っていた。二人へ気づいた者は足を止め、丁寧に頭を下げる。シンクレアは普段どおり短く頷いたが、隣のオーレリアンは一人ずつへ言葉を返していた。
庭で彼と話していた少年もいた。
昨日落とした籠とは別のものを抱え、花を運んでいる。オーレリアンを見るなり、少年の顔が明るくなった。けれど、すぐ隣にシンクレアがいることへ気づき、緊張したように背筋を伸ばす。
「おはよう。昨日は大丈夫だったか?」
オーレリアンが先に声を掛ける。
少年は驚いたように瞬きをし、それから何度も頷いた。
「は、はい。昨日はお手を煩わせてしまい、申し訳ございませんでした」
声は固い。
公爵令嬢の前で、客人へ失態を詫びていることを意識しているのだろう。籠を抱く指へ力が入り、花の茎が僅かに揺れていた。
オーレリアンは気にした様子もなく笑った。
「枝を拾ったくらいで、手を煩わせたことにはならない。今日は落とさないように気をつければ、それでいいさ」
軽い言葉だった。
少年が恥じ続けないよう、失敗そのものを小さなこととして扱っている。恩を売るでもなく、自分の寛大さを示すでもない。
その声を聞いた少年の肩から、目に見えて力が抜けた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、今度は少しだけ笑う。
オーレリアンも片手を上げて応え、その横を通り過ぎた。
シンクレアは何も言わなかった。
ただ、昨日窓越しに見たものが偶然ではなかったことを確かめていた。
彼は人に見られているときも、見られていないときも変わらない。
身分の低い者へ親しげに接する貴族はいる。だが、その親しさを自分の美徳として見せつける者も少なくない。優しい自分を周囲へ印象づけるための振る舞いであれば、受け取る側にはどこか緊張が残る。
オーレリアンの言葉には、それがなかった。
相手を使用人としてではなく、一人の人間として見ている。
シンクレアは隣を歩く横顔へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
オーレリアンは少年とのやり取りを特別なことだとは思っていないらしい。すでに視線は廊下の先へ向き、朝食の匂いに気づいたのか、僅かに鼻を動かしている。
香ばしく焼けたパン。
燻製肉。
温められた乳と、果実を煮た甘い香り。
厨房から流れてくる匂いへ、彼の表情が分かりやすく緩んでいく。
その様子を見た途端、シンクレアの口元にも僅かな笑みが浮かびかけた。
寸前で抑える。
けれど、完全には間に合わなかった。
オーレリアンがこちらを振り向く。
「今、笑ったか?」
金色の瞳が、獲物を見つけたように輝いた。
シンクレアは眉を寄せた。
「笑っていない」
「いや、絶対笑った」
「見間違いだ」
「訓練中より素早く隠したな」
楽しそうに言われ、シンクレアは足を速めた。
追い抜こうとしたわけではない。
ただ、横顔を見られ続けるのが落ち着かなかった。
オーレリアンは声を立てて笑うことはせず、数歩遅れて後ろをついてくる。その気遣いが、かえって恥ずかしさを深めた。からかいながらも、彼女が本気で嫌がる境界へは踏み込まない。
食堂の扉が見えてくる。
その前で、シンクレアは一度足を止めた。
オーレリアンも少し離れた場所で止まる。
先に入ればよいものを、彼は彼女が何か言おうとしているのだと察し、静かに待っていた。
朝の廊下には、窓から差し込む光が帯状に落ちている。二人の間にはまだ僅かな距離があり、先ほどの訓練場のように、手を伸ばしても届かない。
シンクレアは扉へ目を向けたまま口を開いた。
「人前では、昨日までの話し方に戻せ」
オーレリアンは一瞬、意味が分からないような顔をした。
やがて、敬語のことだと気づいたらしい。
「分かりました」
返事と同時に、声の調子まで公のものへ戻る。
切り替えが早い。
ふざけているわけでも、距離を置かれたと不満を示すわけでもない。二人でいるときにだけ言葉を崩すという条件を、彼はそのまま受け入れた。
シンクレアはそこで終えるつもりだった。
だが、胸の中にもう一つ言葉が残っている。
言う必要はない。
それでも、何も告げなければ、彼は自分が近づきすぎたのだと思うかもしれなかった。
シンクレアは短く息を吸った。
「二人きりのときは……先ほどのままで構わない」
声は小さかった。
廊下の向こうを通る使用人には届かなかっただろう。
オーレリアンには、はっきり届いた。
彼の目が見開かれる。
昨日から何度も見た反応だった。感情が顔へ出やすい。驚けば目を丸くし、嬉しければ口元が緩む。本人に隠すつもりがないのか、隠そうとしてもできないのかは分からない。
今も、喜びが一瞬で表情へ広がった。
「分かりました、シンクレア様」
言葉は丁寧だった。
けれど、声には二人だけで交わした約束を大切に抱える響きがあった。
シンクレアは返事をせず、食堂の扉を開いた。
中ではすでに家族が席についていた。
父とアルベルトは昨夜に続き、領地警備の話をしている。卓上には北部一帯の地図が広げられ、魔物の出没地点を示す小さな駒が置かれていた。母は二人の議論へ口を挟まず、給仕される茶を眺めている。兄は窓辺に立ち、届いたばかりの書簡を読んでいた。
キララはオーレリアンより先に食堂へ来ていた。
姿を見つけるなり立ち上がり、白い尾を大きく振る。昨夜は彼の客室までついていったはずだったが、朝方にはシンクレアの部屋へ戻ってきていた。彼女が目を覚ましたときには寝台の足元へ丸くなり、何事もなかったように眠っていた。
そのキララが、今は再びオーレリアンへ駆け寄っている。
前足を上げ、彼の胸元へ飛びつきかけたところで、オーレリアンが両腕を広げた。白い身体を受け止め、勢いのまま数歩後ろへ下がる。
「おはよう、キララ」
昨夜より慣れた手つきで首元を撫でる。
キララは満足そうに鼻を鳴らし、頬を彼の胸へ擦りつけた。
アルベルトが地図から顔を上げる。
「朝から稽古か」
「はい。訓練場をお借りしました」
「随分長かったようだな」
視線が、息子の汚れた袖と赤くなった掌へ向く。
オーレリアンが何か答えるより先に、兄がシンクレアの訓練着へ気づいた。
「まさか、シンクレアが相手をしたのか」
食堂の空気が僅かに変わる。
皆の視線が二人へ集まった。
シンクレアはその場で取り繕う理由を探した。
求婚を考えるために相手の剣を見た。
そう言えば事実ではある。
けれど、それだけではなかった。途中からは彼の腕を確かめるためではなく、純粋に剣を交えることを楽しんでいた。
それを家族へ知られることが、なぜか落ち着かなかった。
「俺からお願いしました」
オーレリアンが先に答える。
声は穏やかだった。
自分が誘ったことにすれば、シンクレアが求婚者を意識して見に来たとは受け取られにくい。事実とは少し異なる。最初に剣を構えたのはシンクレアだった。
それでも彼は、彼女が答えにくいと気づき、自然に話を引き取った。
「シンクレア様の剣を一度見てみたいと思っていましたので。厚かましいお願いでしたが、稽古をつけていただきました」
「結果は?」
兄が興味深そうに尋ねる。
オーレリアンは一切の躊躇なく答えた。
「完敗です」
恥じる様子はない。
むしろ、どこか誇らしそうだった。
アルベルトが豪快に笑う。
息子が負けたことを面白がっているというより、強い相手に巡り合えたことを喜んでいるようだった。
「そうだろう。シンクレア殿の剣は、北部でも指折りと聞いている」
「はい。思っていた以上でした」
オーレリアンの言葉に、シンクレアは僅かに視線を動かした。
彼は父へ向けて話している。
それでも横顔には、訓練場で見せた尊敬がそのまま残っていた。
「でも、一度だけ届きました」
その言葉には、年相応の喜びが混じる。
兄が面白そうに眉を上げた。
父も地図から完全に顔を離した。
「シンクレアへ?」
「はい。教えていただいた動きを使って、肩へ一本」
家族の視線がシンクレアへ向く。
彼女は椅子へ腰掛けながら、平然と茶器を取った。
「一本は一本だ」
「珍しいな」
兄が小さく笑う。
侮る響きはない。
妹が相手へ一本を許したことより、その事実を素直に認めたことへ驚いているらしい。
シンクレアは答えず、茶を口へ運んだ。
香りは分かる。
けれど味がいつもより薄く感じられた。
隣の席へ案内されたオーレリアンが、キララを宥めながら腰掛ける。白い聖獣は彼の足元へ伏せ、尾だけをゆっくり揺らしていた。
食事が始まる。
昨夜よりも朝の席は静かだった。
父とアルベルトは領地の話へ戻り、兄も書簡を畳んで会話へ加わる。森の南側で魔物の群れが移動していること、街道沿いの警備を増やす必要があること、両家の騎士団がどの地点で情報を共有するか。
オーレリアンは黙って聞いていた。
軍に所属しているため無関係ではない。
けれど、年長者の話へ無理に割り込もうとせず、必要な箇所では視線を地図へ落とす。父に意見を求められると、現場で見た地形と魔物の動きを短く答えた。
求婚のときのような情熱はない。
訓練場で見せた親しさもない。
公の席では、辺境伯家の令息として振る舞っている。
先ほどシンクレアが求めたとおりだった。
けれど、壁を築いたわけではない。
給仕されたパンを一口食べれば、昨夜と同じように目元が緩む。料理を運ぶ使用人へ礼を述べ、キララが机の下から鼻先を押しつければ、誰にも見えない場所でそっと頭を撫でる。
整った態度の下に、素の彼がそのまま存在している。
シンクレアは知らず、その姿を目で追っていた。
相手が自分を見ていないときにこそ、人は本性を表す。
父と話す横顔。
食事を味わう表情。
使用人へ向ける視線。
どれを見ても、昨日から抱いた印象を覆すものはない。
むしろ、見れば見るほど一貫している。
彼は何者かになろうとしていない。
良く見せるために取り繕う必要がないほど、自分の行いを疑っていないのだろう。
それは傲慢さではなかった。
自分が正しいと信じているのではない。間違えれば認め、知らなければ学び、相手が嫌がれば踏み込まない。
ただ、そうすることを恥じていない。
シンクレアには、それが眩しかった。
自分は長い間、何をするにも他者の目を気にしていた。
剣を握れば女らしくないと言われる。
黙っていれば冷たいと言われる。
意見を述べれば出しゃばりだと見なされる。
その評価を無視できたなら、どれほど楽だっただろう。
実際には無視できなかった。
公爵令嬢として、王子の婚約者として、家の名を背負う者として、周囲の声を聞かずに生きることはできなかった。
婚約破棄の後でさえ、その癖は抜けていない。
オーレリアンは、そんな自分へ素を見せてほしいと言った。
彼と話している間だけでも、身につけた鎧を外してよいのだろうか。
その問いへの答えは、まだ見つからない。
けれど、試してみたいという気持ちは生まれていた。
朝食が終わる頃、父が地図を畳んだ。
「今日は領地の北側をご案内しよう。エルフレイム領との境に近い地域だ。今後の警備を考えるなら、実際に地形を見ておいた方がよい」
アルベルトが頷く。
一日かけて近隣を視察するのだろう。
辺境伯本人が来訪した以上、求婚のためだけに滞在している形にはできない。もともとの名目である領地警備の協議も進める必要があった。
「オーレリアン卿も同行されるか?」
父が尋ねる。
オーレリアンは答える前に、ほんの一瞬だけシンクレアへ視線を向けた。
共に行きたいという期待は見えなかった。
彼女がどうするのかを気にしただけだろう。
その視線はすぐ父へ戻る。
「はい。現地を見せていただけるなら、ぜひ」
シンクレアは茶器を置いた。
父が自分へ同行を求める可能性は高い。領内の地形には詳しく、魔物討伐にも何度も参加している。辺境伯家へ説明するなら、自分がいた方が話は早い。
けれど、それだけではない。
オーレリアンが戦場や領地を見るとき、どのような目をするのか知りたい。
剣を握っていない場所で、危険や民の暮らしへどう向き合うのか。
求婚の答えを考えるために。
そう理由を置けば、選択に迷う必要はなかった。
「私も同行します」
言葉にすると、オーレリアンの瞳が僅かに明るくなった。
すぐに表情は抑えられた。
公の席だからだろう。
その変化に気づいたのは、おそらくシンクレアだけだった。
父は当然というように頷き、出発までの時刻を告げる。兄も同行することになり、使用人たちは昼食や馬の準備のため食堂を出ていった。
席を立つ者が増え、室内へ小さな慌ただしさが広がる。
シンクレアも自室へ戻ろうと椅子を引いた。
そのとき、足元に白い尾が触れる。
キララが立ち上がり、シンクレアとオーレリアンの間へ身体を滑り込ませていた。鼻先で彼女の手を押し、その後すぐにオーレリアンの手へ頬を寄せる。
二人の手を近づけようとしているようにも見えた。
シンクレアは反射的に手を引いた。
オーレリアンも、彼女が嫌がったと思ったのか、すぐに自分の手を離す。
キララだけが不満そうに鼻を鳴らした。
その様子に、シンクレアの胸へまた遠い記憶が触れる。
小さな手を握った感触。
森の中で立ち尽くす幼い子ども。
泣くなと声を掛けた自分。
白い背へ乗せた温かな重み。
昨日よりも輪郭が近い。
けれど、顔だけが見えない。
オーレリアンの金色の瞳と、記憶の中の幼い目が、一瞬だけ重なりかける。
すぐに霧へ沈んだ。
「どうした?」
オーレリアンの声で意識が戻る。
敬語ではない。
父たちはすでに食堂を出ており、母と兄も離れた場所で話している。二人だけではないが、近くに聞いている者はいなかった。
彼は約束を律儀に守っている。
シンクレアはキララから手を離し、立ち上がった。
「何でもない」
「顔色が少し悪い」
「昔のことを思い出しかけただけだ」
言ってから、余計なことを口にしたと気づく。
オーレリアンは興味を示した。
しかし、すぐには尋ねなかった。
聞いてよいのか迷い、彼女の表情を見ている。
その慎重さに、シンクレアは自分から続けた。
「十二年ほど前、森で迷子を見つけたことがある」
オーレリアンの表情が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど、シンクレアは見逃さなかった。
「子ども?」
「ああ。まだ五歳くらいだったと思う」
オーレリアンの指先が僅かに動いた。
何かが胸へ引っ掛かったように眉を寄せる。記憶を探ろうとしているのか、単に偶然に驚いただけなのかは分からない。
「その子は、どうなった?」
問いかける声が少し低くなる。
シンクレアは遠い森を思い出した。
泣き疲れた子ども。
木の根に躓いた小さな靴。
キララの背へ乗せ、森を抜けるまで何度も振り返った顔。
最後には家の者が迎えに来た。
それだけは覚えている。
「無事に家族のところへ戻った。名前を聞いたはずだが、もう思い出せない」
オーレリアンは黙った。
金色の瞳の奥で、何かが揺れている。
彼自身にも、それが何かは分からないのだろう。
幼い頃の記憶は、夢のように曖昧だ。
森で迷ったこと。
誰かに助けられたこと。
白く大きな獣。
銀色の光。
欠片だけが、彼の中にも残っているのかもしれなかった。
キララが二人を見上げる。
その尾は、先ほどまでより静かに揺れていた。
何かを待っているようだった。
シンクレアはオーレリアンの顔を見つめる。
初対面のはずなのに、キララが懐いた。
彼の姿を見るたび、森の記憶が浮かぶ。
偶然で片づけるには、重なるものが増え始めていた。
「お前は、幼い頃にこの辺りへ来たことがあるか?」
問われたオーレリアンは、すぐに答えなかった。
視線を落とし、記憶の底へ手を伸ばすように目を細める。
「分からない」
やがて返された声には、戸惑いがあった。
「小さい頃の記憶が、ほとんどないんだ。ただ……森で泣いてた気はする」
その言葉へ、シンクレアの胸が強く鳴った。
だが、まだ確信はない。
五歳の子どもが森で泣いたという話だけなら、いくらでもあり得る。
髪の色も、目の色も。
あの子の顔をはっきり覚えていない以上、結びつけるには足りなかった。
オーレリアンも同じなのだろう。
驚きはしている。
けれど、思い出した様子はない。
二人は互いを見つめたまま、しばらく言葉を失った。
十二年前の森は、まだ遠い。
記憶の扉は僅かに軋んだだけで、開いてはいない。
キララだけが、待ち切れないように二人の手へ交互に鼻先を押しつけた。
オーレリアンが先に息を吐く。
「もしかしたら、何か関係があるのかもしれないな」
「まだ分からない」
「ああ。無理に思い出そうとしても仕方ない」
彼はそう言って笑った。
気になるはずなのに、答えを急かさない。
求婚と同じだった。
分からないものは、分かるときまで待つ。
その態度が、シンクレアには不思議と心地よかった。
「出発の支度をしてくる」
そう告げて歩き出す。
数歩進んだところで、背後から声が届いた。
「シンクレア」
振り返る。
オーレリアンはキララの傍らに立ち、まっすぐこちらを見ていた。
「昔のことも、今のことも、焦らなくていいから」
求婚への返事を含めているのだろう。
けれど、それを言葉にはしない。
シンクレアはしばらく彼を見つめた。
昨日よりも近く感じる。
それは言葉遣いを変えたからだけではなかった。
彼が待つことを、少しずつ信じ始めているからだ。
「ああ」
短く返し、今度こそ食堂を出る。
廊下へ出た後も、胸の奥には二つの感情が残っていた。
十二年前の子どもが、オーレリアンなのではないかという疑念。
そして、それとは無関係に、今の彼をもっと知りたいという願い。
どちらが強いのか、シンクレアにはまだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
もし彼があの子どもだったとしても、それだけを理由に求婚を受けることはできない。
過去に助けた幼子と、今目の前にいる青年は同じ存在であっても、同じ人間ではない。
選ぶべきなのは思い出ではなく、今のオーレリアンだ。
そのことを胸に刻みながら、シンクレアは視察へ向かうため、自室への階段を上っていった。




