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素顔の距離 2

最初に動いたのは、オーレリアンだった。


右足が土を抉り、木剣が低い位置から斜めに走る。速さは十分だった。先ほど一人で型を繰り返していたときよりも迷いがなく、相手の反応を見ながら軌道を変えられる余地も残している。若さに任せて力を叩きつける剣ではない。シンクレアの構えを見た時点で、正面から打ち合うことを避け、最初の一撃で足運びの癖を探ろうとしていた。


シンクレアは半歩だけ後ろへ引いた。

避けたのではない。


剣先が届く寸前まで引きつけ、手首を返す。乾いた音が朝の訓練場へ鋭く響き、木剣同士が擦れた。オーレリアンの刃を外側へ流しながら、その勢いを利用して身体を回す。束ねた銀髪が遅れて弧を描き、次の瞬間には彼の左肩へ切っ先が迫っていた。


オーレリアンの瞳がわずかに見開かれる。

驚きながらも、身体は止まらなかった。


上半身を沈め、肩を狙う一撃を紙一重で潜り抜ける。頬のすぐ上を木剣が通過し、空気が短く鳴った。髪の先が風圧に揺れたが、オーレリアンは振り返らない。そのまま地面へ片手をつき、低い姿勢からシンクレアの足元を払うように剣を振るった。

シンクレアは跳ばなかった。

左足を引き、木剣の切っ先を地面へ下ろす。足首へ届くはずだった一撃を縦に受け、力が重なる直前に手首を緩めた。受け止めるのではなく、刃の表面を滑らせる。オーレリアンの剣は僅かに方向を逸らされ、乾いた土へ浅い線を刻んだ。


その隙へ踏み込む。

シンクレアの木剣が、彼の喉元へ突きつけられた。

動きが止まった。


朝露の残る草葉が風に揺れ、木立の奥で鳥が羽ばたく。遠くでは屋敷の扉が開く音がした。訓練場の外側では、起き出した騎士たちが行き交い始めているのだろう。それでも二人の間には、木剣の切っ先を境に切り取られたような静けさがあった。


オーレリアンは喉元へ向けられた剣を見下ろした。

呼吸は乱れていない。


けれど、額には新たな汗が浮かび、金色の瞳には驚きと高揚が入り混じっていた。敗北を悔しがるよりも先に、目の前で起きた動きを理解しようとしている。自分がどの瞬間に主導権を奪われ、どの判断が遅れたのか。視線がシンクレアの足元から肩、手首へと短く動いていた。


シンクレアはすぐに剣を下ろさなかった。

彼が負けを認めるかどうかを確かめるためではない。


先ほどまで、自分へ素を見せてほしいと言っていた男が、剣を交えた後にどのような顔をするのか見たかった。


身分ある男の中には、女に負けることを何より嫌う者がいる。表向きは笑いながらも、内側で侮辱されたと受け取る者もいた。第二王子もそうだった。婚約が決まったばかりの頃、一度だけ訓練場で剣を交えたことがある。王子の機嫌を損ねぬよう手を抜いたつもりだったが、最後に反射で剣を払ってしまった。

そのとき彼が向けてきた目を、シンクレアは今でも覚えていた。


女が男の前へ出るな。

言葉にされるより先に、視線がそう告げていた。

以降、王子の前で剣を握ることはなくなった。


オーレリアンは違うのだろうか。

シンクレアは答えを急がず、彼の反応を待った。

やがてオーレリアンが、ゆっくりと息を吐く。


「負けた」


悔しさはあった。

声の奥に、それは確かに残っている。

けれど、怒りはなかった。

言い訳もない。


シンクレアが剣を下ろすと、オーレリアンは地面へついた片膝を上げ、立ち上がった。袖に付いた土を払うより先に、彼女の木剣へ視線を向ける。


「最後の受け方、もう一度やってくれないか」


求められたのは再戦ではなかった。

教えを乞う言葉だった。

シンクレアはすぐに返事ができなかった。


年下であっても、剣の腕に自信を持つ者ほど、自らの敗因を他人へ尋ねることを嫌う。まして相手が女性なら、素直に認める者はさらに少ない。オーレリアンの剣には、すでに一人の兵士として通用する完成度がある。王国軍の第一遊撃隊へ所属しているという話も誇張ではないだろう。それでも彼は、自尊心を守るために目を逸らさなかった。


強くなれる者の目だった。

シンクレアは木剣の切っ先を下げ、先ほどと同じ位置へ立つ。


「お前は受け止められると思った瞬間、腕へ力を入れすぎる」


敬語を外した言葉は、まだ僅かに舌へ馴染まなかった。

だが、剣について話すときは不思議と抵抗が薄い。彼女にとって剣は、身分や社交の作法よりも正直なものだった。刃の前では、家格も年齢も意味を持たない。速いか、遅いか。届くか、届かないか。生き残れるか、倒れるか。それだけが答えになる。


オーレリアンは真剣な顔で頷いた。

シンクレアは彼の剣へ自分の木剣を重ねる。


力を入れず、触れるだけに留めた。木と木が接する微かな振動が、柄を通じて手のひらへ伝わる。近づいたことで、鍛錬の熱をまだ纏っているオーレリアンの呼吸が分かった。汗の匂いに混じり、旅装へ残った森の香りが僅かに漂っている。


「ここで押し返そうとするな。相手の力が強いほど、自分の姿勢まで崩される」


シンクレアは手首を緩めた。

重なっていた木剣が、表面を滑るように横へ逸れる。

大きな動きはない。

ただ、受ける角度を僅かに変えただけだった。

それでもオーレリアンの腕は前へ流れ、身体の中心が一瞬開く。

シンクレアは空いた胸元へ切っ先を当てた。


「流せばいい。相手が自分から隙を作る」


オーレリアンは胸元へ当てられた木剣を見下ろし、しばらく動かなかった。

理解できなかったのではない。


頭の中で何度も動きを再現しているのだろう。視線を落としたまま、自分の手首を僅かに回し、剣の角度を確かめている。

やがて、顔を上げた。


「もう一回、受けてもらっていいか?」


「構わない」


二人は再び距離を取った。

今度はシンクレアが、先ほどと同じ軌道で木剣を振るう。

オーレリアンは受ける直前まで腕へ力を入れなかった。接触の瞬間に剣先を傾け、彼女の一撃を外側へ滑らせる。まだ動きは硬い。肩にも余計な力が残り、流した直後の姿勢が僅かに沈んだ。


それでも、一度目で形にはしていた。

シンクレアは次の攻撃を止め、その場で剣を下ろす。


「覚えが早いな」


何気なく口にした言葉だった。

褒めようと意識したわけではない。

見たままを告げただけだった。


しかしオーレリアンは、一瞬息を止めたように見えた。

金色の瞳が僅かに丸くなり、次いで口元が緩んでいく。先ほど敬語をやめたときと同じ、隠しきれない喜びだった。


「今、褒めてくれた?」


「事実を言っただけだ」


「それでも嬉しい」


即座に返され、シンクレアは視線を逸らした。

たった一言で、なぜそこまで喜べるのか分からない。


自分の言葉には、それほどの価値などない。

そう思う一方で、胸の内へ僅かな熱が生まれていた。喜ばせようとして発したわけではない言葉が、相手の中で大切に受け取られる。それは、これまでほとんど経験したことのない感覚だった。


第二王子の前では、何を言うかより、何を言わないかを考えていた。

褒めれば媚びていると見られ、意見を述べれば生意気だと受け取られる。沈黙すれば愛想がないと言われる。正解は、そのときの王子の気分によって変わった。


オーレリアンは違う。

彼は言葉を裏返さない。

嬉しければ嬉しいと言い、分からなければ尋ね、負ければ負けたと認める。


その単純さは、幼さとは違った。

自分の感情に責任を持ち、相手へ正直に差し出している。

シンクレアは、その姿勢を少し羨ましいと思った。


「もう一度やるか?」


問いかけると、オーレリアンは迷わず構え直した。


「頼む」


その後、何度も木剣がぶつかった。

オーレリアンは同じ失敗を繰り返さなかった。最初に教えられた受け流しをすぐに実戦へ組み込み、シンクレアの攻撃を完全には逸らせなくとも、致命的な隙を作ることは減っていく。代わりに別の欠点が現れれば、彼女は剣先で示した。足の位置が広すぎる。視線が肩へ寄りすぎている。防いだ後に呼吸が止まっている。


オーレリアンはそのたび頷き、修正した。

負け続けても笑みは消えない。

むしろ、強い相手と剣を交える喜びが増しているようだった。額から流れる汗を拭う暇も惜しみ、呼吸が上がれば一度だけ深く吸い直す。土で汚れた袖も、掌に生じ始めた赤みも気にしていない。


シンクレアも、次第に遠慮を失っていった。

最初は相手の力量を見るために速度を抑えていた。だが、オーレリアンが追いついてくるたび、自然と踏み込みが深くなる。剣を振るう角度が鋭くなり、身体の回転へ力が加わる。


彼なら受ける。


そう信じて、攻撃を放っていた。

剣と剣の間で交わされるものは、言葉よりも正直だった。


オーレリアンがどこまで見えているのか。

恐怖を感じたとき、前へ出るのか、退くのか。

追い詰められたとき、力任せになるのか、冷静さを保てるのか。


一太刀ごとに、その答えが伝わってくる。

彼は退かない。

けれど、無謀に前へ出るわけでもない。


相手の強さを認め、届かないなら届く方法を探す。自分の誤りを恥じるより、次の一手へ活かそうとする。

結婚相手として正しいかどうかを、剣だけで決められるはずはなかった。


それでも、危機へどう向き合うかは、その人間の根にあるものを映す。

少なくともオーレリアンは、失敗したときに他者を責める男ではない。


そのことだけは、剣を交えた短い時間でも確信できた。

何度目かの打ち合いで、オーレリアンの剣が初めてシンクレアの肩へ迫った。


完全に不意を突かれたわけではない。

受けることも避けることもできた。


だが、彼が先ほど教えられた受け流しを囮に使い、そこから軌道を変えたことへ気づいた瞬間、シンクレアの判断がほんの僅かに遅れた。


木剣の先が、肩口の衣服へ触れる。

強く打ち込まれる寸前で止まっていた。

オーレリアンは息を弾ませながら、目を見開いている。

当てられた本人より、彼の方が驚いているようだった。


「今のは」


「一本だな」


シンクレアが告げると、オーレリアンの顔が明るくなる。

だが、すぐにその表情は曇った。

木剣を下ろし、彼女の肩へ視線を向ける。


「痛くなかったか?」


勝ったことを喜ぶより先に、相手を傷つけなかったか確かめている。

シンクレアは肩を軽く動かした。

剣先が触れただけで、痛みはない。


「止めただろう」


「でも、勢いが残ってた」


「問題ない」


そう答えても、オーレリアンは完全には安心しなかった。

一歩近づきかけ、途中で止まる。

肩へ触れて確かめたいのだろう。だが、許可なく手を伸ばすことを躊躇している。


その動きを見て、シンクレアは奇妙な感覚を覚えた。

剣を交えている最中、彼の木剣は何度も自分のすぐ近くを通った。腕と腕が触れ、肩がぶつかりそうになった瞬間もある。戦いの中では気に留めなかった距離が、剣を下ろした途端、急に意識へ浮かび上がる。


オーレリアンは近い。

昨日までは向かいの席に座っていた。

求婚の際も、一定の距離を保っていた。

今は手を伸ばせば届く場所に立っている。


朝日に照らされた黒髪は汗で額へ張りつき、頬には土が薄く付いていた。呼吸はまだ速く、胸元が大きく上下している。戦いの鋭さと、相手を気遣う柔らかさが同じ顔の中に残っている。


シンクレアは自分の心臓が、鍛錬のためだけではない速さで打っていることへ気づいた。

理由を考える前に、一歩後ろへ下がる。


「本当に何ともない」


今度は少し強く言った。

オーレリアンは彼女が距離を取ったことを見逃さなかった。

けれど、追わなかった。

僅かに眉を下げたあと、素直に頷く。


「分かった」


それだけだった。

なぜ避けたのかと尋ねることも、不機嫌になることもない。


そのことに安堵しながら、シンクレアは胸の奥へ小さな罪悪感を覚えた。

彼が何かしたわけではない。

ただ自分が、近づかれることに慣れていないだけだった。


「さっきの一撃は悪くなかった」


話を剣へ戻す。

オーレリアンはすぐに顔を上げた。


「受け流しを見せて、次も同じ動きをすると誤認させた。実戦でも使える」


「シンクレアが教えてくれたからだ」


「教えたのは受け方だけだ。使い方を考えたのはお前だろう」


オーレリアンはしばらく黙った。

褒められたことを噛み締めるように、ゆっくり息を吐く。

その顔があまりにも嬉しそうで、シンクレアは再び視線を逸らした。


木立の上には、朝日がすでに半分ほど姿を現している。訓練場へ落ちていた長い影は短くなり、靄もほとんど消えていた。屋敷の方角からは、人々の声や食器の音が聞こえ始めている。


いつの間にか、かなりの時間が経っていた。

早朝の短い鍛錬を見るだけのつもりだった。

少し剣を交え、相手の腕を確かめたら戻るはずだった。


それなのに、気づけば額に汗が浮かび、手のひらには木剣の柄の感触が深く残っている。呼吸も、最初にここへ来たときより速い。

シンクレアは木剣を棚へ戻した。


「今日はここまでだ」


オーレリアンも続いて剣を収める。

名残惜しそうではあったが、引き留めはしなかった。首へ掛けていた布で顔を拭い、地面へ落ちた自分の上着を拾い上げる。

シンクレアはそこで、昨夜から気になっていたことを思い出した。


聞くべきか迷い、口を閉じる。

求婚に関する話は、彼から持ち出さないと約束している。だが、自分から尋ねることまで禁じられているわけではない。


むしろ、彼を知るために滞在を受け入れたのだ。

シンクレアは木剣の棚へ背を向けたまま、指先をゆっくり開いた。


「一つ、聞いてもいいか」


背後で、衣擦れの音が止まる。


「何だ?」


敬語を外した返事が、昨日より近く感じられた。

シンクレアは振り返る。

オーレリアンは上着を片腕へ掛け、真剣な顔でこちらを見ている。何を聞かれるのか警戒しているのではない。ただ、彼女が自分から話をしようとしたことを、逃さず受け止めようとしていた。


「私が剣を振るうことを、どう思っている」


問いを口にすると、朝の空気が僅かに冷たくなった気がした。

シンクレア自身、なぜ今それを尋ねたのか分からなかった。

彼が剣を否定していないことは、先ほどの態度で十分に伝わっている。強さへ敬意を向け、教えを乞い、負けても怒らなかった。


それでも、言葉で確かめたかった。

今は尊敬していても、妻になれば話は変わるのかもしれない。


結婚した後は剣を置けと言うのではないか。

公爵令嬢としてではなく、妻として振る舞えと求めるのではないか。

過去に向けられた言葉が、まだ心の深い場所へ残っていた。


オーレリアンはすぐに答えなかった。

軽く考えているのではなく、なぜその問いが出たのかを見極めようとしているようだった。


やがて、彼は上着を近くの柵へ置いた。

手を空け、シンクレアへ身体ごと向き直る。


「格好いいと思ってる」


あまりにも簡潔な返答だった。

シンクレアは瞬きをする。

オーレリアンは続けた。


「昨日もそうだったけど、今はもっと思った。あんたの剣は強いだけじゃない。相手をよく見てる。俺が失敗しても、ただ倒すんじゃなくて、何が悪かったか分かるように動いてくれた」


言われて初めて、シンクレアは自分が無意識に教える剣を選んでいたことへ気づいた。


実戦のように急所を狙うのではなく、彼が次の動きへ繋げられる場所へ剣を置いていた。完全に潰すのではなく、失敗の形が本人へ伝わるように攻撃していた。

騎士たちの稽古を見るとき、いつも行っていることだった。

オーレリアンは、それを一度の手合わせで見抜いていた。


「剣を持ってるときのあんたは、昨日よりずっと楽しそうだった」


シンクレアの呼吸が浅くなる。


楽しい。


自分が剣を振るう姿へ、その言葉を向けられたことはなかった。


強い。

勇ましい。

恐ろしい。

女らしくない。


そう評されたことはある。

けれど、楽しそうだと言われたのは初めてだった。

オーレリアンは僅かに笑う。


「だから、俺は好きだ」


言い切った直後、彼は自分の言葉の意味へ気づいたらしい。

目が僅かに見開かれ、頬へ薄い赤みが差す。

求婚の場ではあれほど真っ直ぐ好意を伝えたのに、今は日常の中で自然に漏れた言葉へ自分で戸惑っている。

シンクレアも、すぐには反応できなかった。


好きだ。


昨日すでに聞いた言葉のはずだった。

それなのに、訓練場で汗を流し、互いに剣を交えた後に告げられると、響きが違った。


一年前の姿へ向けられた憧れだけではない。

今、自分が見せたものを見て、改めて好きだと言われた。


その事実が胸へ落ちるまでに、時間がかかった。

オーレリアンは気まずそうに頬を掻く。


「今のは、その……剣を振るってるあんたも好きって意味で」


説明すればするほど、言葉が深くなることに本人は気づいていない。

シンクレアは視線を逸らしたまま、唇を引き結んだ。


笑ってしまいそうだった。

なぜ笑いたいのか、自分でも分からない。


困っているはずなのに、不快ではなかった。むしろ胸の奥が軽くなり、長い間固まっていた何かが僅かに解けていく。

それを悟られたくなくて、シンクレアは背を向けた。


「朝食へ行くぞ」


声が普段より硬くなった。

オーレリアンは一瞬黙り、すぐに上着を取る。


「ああ」


二人は並んで訓練場を出た。

来たときよりも陽は高く、庭の緑が鮮やかに見える。石畳には朝露が残り、踏むたび靴底の下で小さく光った。


最初は、互いの間に一人分ほどの距離があった。

歩いているうちに、オーレリアンが僅かに速度を落とす。

シンクレアの歩幅へ合わせたのだろう。

彼女もそれに気づいたが、何も言わなかった。

しばらくすると、離れていた影が少しずつ近づき、並んで伸びるようになった。


肩が触れるほどではない。

手を伸ばしても、まだ僅かに届かない。

それでも昨日よりは近かった。

シンクレアは前を向いたまま、その距離を拒まなかった。


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