素顔の距離
翌朝、シンクレアはいつもより早く目を覚ました。
薄い朝靄が庭を覆い、窓の外には夜の名残がまだ淡く漂っている。東の空は白み始めていたが、陽はまだ森の向こうへ隠れていた。葉の先に溜まった露が弱い光を受け、風が通るたび小さく揺れている。
目覚めた理由は分かっていた。
昨夜、オーレリアンが訓練場を使いたいと言った。
ただ、それだけだ。
屋敷へ滞在している客人が朝の鍛錬を望むなら、場所を貸すのは珍しいことではない。辺境伯家の令息であり、王国軍に所属する剣士ならば、旅先でも身体を動かしたいと考えるのは自然だった。
自分が立ち会う必要はない。
訓練場まで案内する者も手配してある。剣や防具の場所も、使用人が説明するだろう。客人が不自由する理由は何もなかった。
それでも、シンクレアは寝台へ戻らなかった。
身支度を整え、普段の礼装ではなく、動きやすい濃灰色の訓練着へ腕を通す。腰まである銀髪を高い位置で束ね、革の手袋を手にしたところで、自分の行動を改めて意識した。
見定めるためだ。
結婚を申し込んできた男が、どのような剣を振るうのか。戦場でどのように身体を扱い、力を得るためにどれほど鍛えているのか。それを知ることも、答えを考えるためには必要だろう。
そう理由をつければ、足は自然に訓練場へ向かった。
廊下にはまだ人影が少ない。
早朝の屋敷は静かで、遠くから厨房で薪を割る音が届く程度だった。窓を開け放った場所では冷たい空気が流れ込み、首筋を撫でていく。そのたび、頭の中に残っていた眠気が薄れていった。
外へ出ると、土と草の匂いが濃くなる。
訓練場は屋敷の東側にあり、低い石壁と木立に囲まれていた。地面には固く締まった土が敷かれ、端には木剣や槍を収める棚が並んでいる。騎士たちが使う時間にはまだ早く、広い空間は朝靄の中へ静かに沈んでいた。
その中央で、すでに剣が振られている。
オーレリアンだった。
上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲っている。昨夜見せた穏やかな青年の面影は残っていたが、剣を握る姿には別の鋭さがあった。
踏み込みが速い。
それでいて、地面を強く蹴りすぎない。身体を前へ運ぶ力が途切れず、剣先は余分に揺れることなく一直線に走る。振り下ろした後も姿勢が崩れず、次の動作へ滑らかに繋がっていた。
派手さはない。
だが、実戦で生きる剣だった。
敵の攻撃を受け止めることよりも、相手の動きを読み、空いた場所へ最短で刃を通す。そのために余計な動きを削ぎ落とした形に見える。
若い。
体格も、完成しきってはいない。
それでも、積み重ねた鍛錬の密度は一目で分かった。
オーレリアンは同じ型を繰り返していた。
一度目より二度目。
二度目より三度目。
わずかな足の位置や肩の角度を確かめ、そのたびに修正している。速度だけを求めているのではない。自分の身体が最も無理なく動く場所を、何度も探していた。
シンクレアは石壁の陰に立ち、しばらく声を掛けなかった。
覗き見るつもりはなかった。
だが、こちらへ気づかず剣を振るう彼の姿を、もう少し見ていたいと思った。
求婚の場では真っ直ぐだった。
食卓では素直で、少し子どもらしい部分さえ見せた。
今、剣を握る彼は静かだった。
目の前に敵がいるかのように一点を見据え、呼吸を乱さず、一太刀ごとに意識を込めている。
複数の姿を使い分けているのではない。
どれもオーレリアンなのだろう。
感情を隠さず、必要なときには集中し、誰も見ていなくても鍛錬を怠らない。
シンクレアの胸に、小さな納得が生まれた。
最後の一振りを終え、オーレリアンが剣先を下げる。
額から流れた汗が頬を伝い、顎の先から土へ落ちた。肩で息をするほどではないが、白いシャツは背中へ張りつき、呼吸に合わせて僅かに上下している。
そこでようやく、彼がシンクレアの存在に気づいた。
顔を上げた瞬間、金色の瞳が大きく見開かれる。
驚きのあとに浮かんだのは、困惑ではなかった。
隠しきれない喜びだった。
「おはようございます、シンクレア様」
オーレリアンは剣を下ろし、慌てて姿勢を整えた。つい先ほどまで戦場を思わせる鋭さを纏っていたのに、その面影はあっさりと薄れている。額に汗を浮かべたまま礼を取る姿は、年相応に見えた。
シンクレアはゆっくりと壁際から離れた。
隠れて見ていたと思われるのは少し居心地が悪かったが、取り繕う気にはなれない。足元の土を踏み、訓練場の中央へ近づいていく。
「おはようございます。訓練場に不自由はありませんでしたか」
口にした直後、オーレリアンの眉が僅かに動いた。
質問の内容ではなく、言葉遣いに反応したらしい。
彼はすぐに答えず、手にしていた木剣を棚へ戻した。布を取り、汗を拭いながらも、何かを考えるようにシンクレアを見つめている。
その視線に責めるものはなかった。
ただ、昨日とは異なる種類の迷いがあった。
「不自由はありませんでした。剣も使いやすいですし、広さも十分です」
そこで一度言葉を切り、オーレリアンは布を首へ掛けた。
シンクレアは次の言葉を待った。
朝の空気はまだ冷たいが、鍛錬を終えた彼の周囲には、身体から立ち昇る熱がある。近づくほど、汗と革と乾いた土の匂いが混じって感じられた。
不快ではない。
剣を振るう者にとって、馴染み深い匂いだった。
オーレリアンは口元へ少しだけ困った笑みを浮かべた。
「でも、ひとつお願いしてもいいですか」
求婚に関わる話ではない。
そのことは声音から分かった。
シンクレアは頷く。
昨日、返事を急かさないと言った男が、翌朝からその約束を破るとは思っていなかった。それでも無意識に身構えていた肩が、僅かに下がる。
「何でしょう」
再び敬語で返すと、オーレリアンは今度こそ苦笑した。
彼は剣を握っていたときよりも慎重に息を吸い、相手の反応を窺うように目を細めた。無礼な願いだと自覚しているのか、すぐには言い出さない。
けれど、結局は言葉を飾らなかった。
「敬語はなしで。どうせならフランクでいこうぜ」
シンクレアは答えを失った。
朝靄の中で鳥が一声鳴く。
木立の向こうから羽ばたきが聞こえ、濡れた葉が揺れた。訓練場の端へ落ちた露が、土の上へ細かな染みを作っている。
周囲のすべてが普段どおりに動いているのに、彼女の思考だけが一瞬止まった。
フランクでいこうぜ。
これまで彼女へ、そのような提案をした者はいなかった。
家族や親しい騎士を除けば、誰もが公爵令嬢として接した。王子の婚約者だった頃はなおさらで、言葉遣い一つにも明確な距離があった。
自分より身分の低い者が、気安く話してほしいと求めることなどない。
まして、オーレリアンは辺境伯家の四男である。
シンクレアは公爵家の令嬢。
年齢も彼女の方が五つ上だった。
礼儀の上では、どちらが敬語を使うべきかなど明白だった。
「しかし、あなたはエルフレイム辺境伯家のご令息ですし、私は──」
言いかけたところで、オーレリアンが首を傾げた。
遮られたわけではない。
けれど、その顔には本気で分からないという色が浮かんでいる。
身分の違いを無視しているのではない。貴族としての礼儀を知らない男でもない。
それでも、今その話が必要なのかと疑問に思っているらしい。
シンクレアは言葉を続けた。
「私の方が家格も年齢も上です。あなたが敬語を使うのはともかく、私まで崩すのは不自然でしょう」
説明しながら、自分でも奇妙な感覚を覚えた。
求婚を受けるかどうかも決めていない相手へ、なぜ言葉遣いの正しさをこれほど真剣に説いているのか。
断れば済む。
慣れないからと退ければよい。
それなのに、自分が応じられない理由を伝えようとしている。
それは、完全に拒みたいわけではないからかもしれなかった。
シンクレアはその可能性へ気づき、胸の奥が落ち着かなくなる。
オーレリアンは、しばらく黙って彼女の言葉を聞いていた。
ふざけて笑うことも、貴族の堅苦しさを揶揄することもない。彼女が戸惑っていると分かり、真面目に受け止めていた。
やがて、首へ掛けた布を片手で掴み、少し視線を落とす。
土の上で靴先を動かし、小さな石を端へ寄せた。
その仕草には、昨日の求婚とは違う緊張が見えた。
「身分のことを忘れろって言いたいわけじゃないんです」
言葉遣いはすぐに戻った。
シンクレアがまだ応じていない以上、勝手に距離を縮めるつもりはないらしい。
その律儀さが、先ほどの大胆な提案と噛み合わず、彼女はますます調子を狂わされた。
オーレリアンは顔を上げる。
朝日が木々の向こうから差し始め、金色の瞳へ淡い光を落とした。
「公の場で、礼儀が必要なのは分かっています。家同士の話をするときも、俺はちゃんとします」
彼はそこで一度、唇を閉じた。
次の言葉を選び直すように、短く息を吐く。
シンクレアは急かさなかった。
彼が何を望んでいるのか、まだ掴めていない。ただ気安く話したいだけなら、これほど慎重にはならないだろう。
オーレリアンの指が、首に掛けた布の端を僅かに握り締める。
剣を持つときには迷いを見せなかった手だった。
「でも、二人でいるときまで公爵令嬢と辺境伯家の四男のままだと、あんたのことを何も知れない気がするんです」
シンクレアの瞳が揺れた。
あんた。
その呼び方は、決して上品ではない。
けれど侮りも、軽視もなかった。
飾らず、遠慮せず、目の前の彼女自身へ向けられた言葉だった。
オーレリアンは気づいていないのかもしれない。
彼が家格や肩書きを取り払おうとするたび、シンクレアの中にある防壁が少しずつ輪郭を失っていることを。
公爵令嬢。
元王子妃候補。
剣を好む変わり者。
愛想のない女。
これまで彼女へ向けられてきた呼び名は、どれも他者が作った形だった。
その中へ収まることを求められ、収まらなければ欠陥だと見なされた。
オーレリアンは、最初からその外側にいる。
彼はシンクレアという人間を知りたいと言う。
まだ知らないことを認めながら、それでも近づこうとしている。
「あなたは、私が敬語を使わなければ、素性が分かると?」
問いは僅かに意地の悪い響きを帯びた。
戸惑いを隠すためだった。
言葉遣いを変えただけで、人の本質が見えるわけではない。貴族として身につけた話し方は、今や彼女の一部でもある。
オーレリアンはすぐに首を振った。
「それだけで全部分かるとは思ってません」
答えは早かった。
彼は笑わなかった。
シンクレアが逃げ道を作ろうとしていることへ気づき、それを無理に塞ぐのではなく、真正面から受け止めようとしている。
「でも、少なくとも今よりは近くなると思います」
朝日が訓練場へ差し込み、二人の間に細長い光の帯を作る。
オーレリアンはその場所へ一歩踏み出した。
距離は縮まったが、手を伸ばして触れられるほどではない。彼女が退こうと思えば、いくらでも離れられる間隔を残している。
その慎重さが、シンクレアには分かった。
彼は強引ではない。
けれど、諦めもしない。
待つと決めたことには静かに耐え、自分が伝えたいことは逃げずに口にする。
その姿勢が、思っていた以上に厄介だった。
拒絶するための理由を、一つずつ失わせていく。
「俺は、公爵令嬢として整えたあんたと話したいわけじゃない」
シンクレアの呼吸が止まりかけた。
オーレリアンは自分の言葉が強すぎたと気づいたのか、一瞬だけ眉を下げる。
しかし、撤回はしなかった。
そのまま、彼女の目を見つめる。
「素のあんたと話したい」
追い打ちのように落とされた言葉は、先ほどよりも静かだった。
大きな声ではない。
それでも、シンクレアの胸の奥へ真っ直ぐ届いた。
素の自分。
その言葉が何を指すのか、すぐには分からなかった。
剣を握る自分。
家族といる自分。
キララと森を歩く自分。
人前では笑わず、必要以上に話さず、頼られるなら応えようとする自分。
どれが素なのか。
あるいは、そのすべてなのか。
彼女自身、長い間考えたことがなかった。
王子の婚約者となってから、望まれる姿を身につけることに慣れすぎていた。相手が不快に思わない言葉を選び、感情を抑え、令嬢として正しい反応を返す。
それが剥がれた後に何が残るのか、シンクレアにも分からない。
分からないからこそ、怖かった。
素を見せて、それでも好かれる保証はない。
今は生き方を好きだと言っている男も、近づけば失望するかもしれない。
愛想がないことも、可愛げがないことも、王子が言ったとおりだと気づくかもしれない。
オーレリアンは、その恐れを知らない。
それでも、知りたいと言っている。
完成した理想を押しつけるのではなく、現実を確かめたいと願っている。
シンクレアは視線を逸らした。
訓練場の端では、木剣が朝日に照らされている。使い込まれた柄には細かな傷があり、何人もの騎士が握った痕跡が残っていた。
何かを決めるとき、彼女はいつも剣を握ってきた。
重さを確かめ、呼吸を整え、進むべき方向を定める。
だが今は、剣では測れないことを選ばなければならない。
敬語をやめる。
たったそれだけのことが、求婚を受けるよりも身近で、逃げ場のない行為に思えた。
言葉を崩せば、相手との距離も変わる。
戻れなくなるほどではない。
それでも確実に、今までとは違う場所へ一歩踏み込むことになる。
シンクレアは長く息を吐いた。
オーレリアンは黙って待っている。
急かさない。
期待は隠れていないが、それを彼女へ押しつけることもしなかった。
昨日と同じだった。
彼はいつも、自分の願いを伝えたあと、選ぶ権利を彼女へ返す。
そのことが、最後の躊躇いをわずかに緩めた。
「……分かった」
声に出した瞬間、自分のものではないように聞こえた。
敬語ではない。
短く、飾りもない。
それだけで、胸の奥が妙に騒がしくなる。
オーレリアンは目を見開いた。
次いで、嬉しさを隠しきれない笑顔を浮かべる。
求婚の返事をもらったわけでもないのに、まるで大きな勝利を得たかのようだった。
「本当に?」
問いかけも、すでに敬語ではなかった。
シンクレアは眉を寄せる。
頼まれて応じたはずなのに、その反応を見ていると、ひどく恥ずかしいことをしたような気分になる。
「自分から言い出したのだろう」
声は少し硬かった。
しかし、先ほどまでの丁寧な響きはない。
オーレリアンは一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
嘲る笑いではない。
純粋に嬉しくて、堪えきれなかったのだろう。
朝の静かな訓練場へ、明るい声が広がっていく。
シンクレアはますます眉間の皺を深くした。
「何がおかしい」
「いや、ごめん。思ってたよりずっと自然だったから」
「自然?」
「うん。そっちの方が、シンクレアらしい気がする」
また、簡単に距離を詰めてくる。
名前を呼び捨てにされても、不快ではなかった。
それがかえって困る。
これまで呼び捨てを許してきたのは家族と、幼い頃から仕える一部の者だけだった。昨日会ったばかりの男が同じ呼び方をすれば、本来なら無礼と感じるはずだった。
けれどオーレリアンの声には、所有しようとする響きがない。
近づく許しを得られたことを大切に扱いながら、ただ嬉しそうに名前を呼んでいる。
シンクレアは彼の表情から逃れるように、木剣の棚へ向かった。
一本を選び、柄を握る。
手の中へ馴染んだ重さが戻ると、少しだけ落ち着いた。
「それなら、私からも一つ言っておく」
背後でオーレリアンが姿勢を正す気配がした。
ふざけずに聞こうとしている。
シンクレアは木剣を軽く振り、重心を確かめた。視線は剣先へ向けたまま、言葉だけを彼へ渡す。
「私は誰かに合わせて話し方を変えるのが得意ではない。すぐに親しげに振る舞えるとも思うな」
敬語をやめても、口調が柔らかくなるわけではない。
愛想よく笑うことも、気の利いた冗談を返すこともできない。
それを最初に伝えておきたかった。
期待された姿になれず、失望されることには慣れている。
だが今度は、最初から誤解させたくなかった。
オーレリアンは答えなかった。
シンクレアが振り返ると、彼は真剣な顔でこちらを見ていた。
否定するのではなく、言葉の意味を受け止めている。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「分かった。無理に変わらなくていい」
あまりにも迷いなく返され、シンクレアは僅かに目を細めた。
オーレリアンは続ける。
「話したくないときは、話さなくていい。笑いたくないときは、笑わなくていい。俺は、それを知りたいんだから」
彼の言う素とは、明るく振る舞う自分ではない。
彼にとって都合のよい姿でもない。
話さない自分も、笑わない自分も、拒む自分さえ含めて知りたいと言っている。
シンクレアは木剣の柄を握る手へ力を込めた。
胸の奥に生じた熱を、どう扱えばよいのか分からなかった。
喜んでいるのかもしれない。
けれど、その感情を認めるにはまだ早い。
彼の言葉を信じるにも、時間が足りない。
それでも、昨日より近い場所へ彼を立たせることを、自分はすでに許していた。
「では、オーレリアン」
初めて敬称を外して名前を呼ぶ。
口にした途端、彼の肩が僅かに跳ねた。
先ほど自分が笑われた仕返しに、シンクレアはわずかに顎を上げる。
「口だけではないことを見せてもらおう」
木剣を構える。
朝日が剣身に沿って走り、淡い光を弾いた。
オーレリアンは数度瞬きをしたあと、意味を理解したらしい。
驚きはすぐに喜びへ変わった。
「稽古をつけてくれるのか?」
「違う。私が相手をしてやる」
言い切ると、オーレリアンの笑顔がさらに深くなる。
彼は棚へ向かい、新しい木剣を取った。
つい先ほどまでの鍛錬で疲れているはずなのに、足取りには重さがない。むしろ、身体の奥から新しい力が湧いたように見えた。
シンクレアの正面へ立ち、剣を構える。
二人の間に、先ほどまでとは異なる緊張が生まれる。
身分も、年齢も、求婚者と求婚を受けた者という関係も、剣を交える一瞬だけは薄れていく。
あるのは、相手の動きを読み、自分の一撃を届かせることだけだった。
オーレリアンは剣先を上げる。
その金色の瞳には、彼女を負かして優位に立とうとする色はない。
強い相手と剣を交えられる喜び。
知らなかった一面へ触れられる期待。
そして、真正面から向き合おうとする誠実さがあった。
「手加減はしないぞ」
シンクレアが告げる。
オーレリアンは迷いなく頷いた。
「望むところだ」
朝の冷たい風が二人の間を通り抜ける。
次の瞬間、土を蹴る音が重なった。
木剣がぶつかり、乾いた響きが訓練場へ広がる。
言葉を崩しただけで、何かが大きく変わったわけではない。
求婚への答えもまだ出ていない。
けれど、互いの間にあった見えない壁は、確かに一枚だけ取り払われていた。




