公爵家へ 4
「さて」
アルベルトが、手にしていたティーカップを静かにソーサーへ戻した。
かすかな陶器の音が、穏やかな談笑の余韻を断ち切るように応接室へ響く。
卓上に広げられていた地図はすでに畳まれ、巡回経路や魔物の足取りについての話も一区切りついていた。
ローゼンタール公爵はゆっくりと背もたれへ身体を預ける。
「本日は有意義なお話をありがとうございました。今後も両領で連携を取り合えれば心強い」
「こちらこそ」
アルベルトが穏やかに頷く。
「隣接する領同士です。何かあれば、これまでどおり遠慮なく知らせていただきたい」
「ええ」
公爵も笑みを返した。
ひとまず、今日予定していた会談は終わった。
応接室へ穏やかな空気が戻る。
その静けさを、アルベルトが静かに破った。
「もっとも」
その一言だけで、公爵の視線が向く。
「本日お伺いした理由は、実はもう一つございます」
「ほう」
公爵が穏やかに眉を上げる。
アルベルトは隣へ座る息子を見た。
「リアン」
短く名前を呼ぶ。
それだけだった。
何を話せとも言わない。
何を言うべきかも教えない。
その役目は、最初から父のものではない。
オーレリアンは静かに息を吸った。
ついに、この時が来た。
胸の鼓動は相変わらず速い。
礼服の内側で心臓が強く打つたび、自分でも驚くほど緊張していることが分かる。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
椅子が小さく軋む音だけが、静まり返った部屋へ響いた。
ローゼンタール公爵。
公爵夫人。
ヴィンセント。
そして、シンクレア。
全員の視線が自然とこちらへ集まる。
足元では、キララが大人しく座ったままオーレリアンを見上げていた。
白い尻尾だけが、ゆっくりと左右へ揺れている。
オーレリアンは、まず公爵夫妻へ深く頭を下げた。
「会談とは別のお話を、この場で申し上げる非礼をお許しください」
ゆっくりと顔を上げる。
ローゼンタール公爵は穏やかに頷いた。
「構いません」
短い返答だった。
だが、その一言だけで十分だった。
話すことを許された。
オーレリアンは改めてシンクレアを見る。
銀色の髪。
青灰色の瞳。
一年前。
大広間の端から見送ることしかできなかった女性が、今は目の前で静かにこちらを見つめている。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
けれど、今日ここへ来た理由は見惚れるためではない。
伝えるためだ。
オーレリアンは一歩だけ前へ出る。
歩幅は小さい。
相手との距離を詰めるためではなく、自分の覚悟を形にするための一歩だった。
「シンクレア嬢」
静かな声で呼びかける。
彼女は真っ直ぐにオーレリアンを見返した。
「はい」
短く返る声は落ち着いている。
その瞳を見つめながら、オーレリアンはゆっくりと言葉を続けた。
「今日は、あなたへお伝えしたいことがあって参りました」
応接室が、水を打ったように静まり返る。
誰一人、口を開かない。
キララだけが嬉しそうに尻尾を揺らしながら、二人を交互に見上げていた。




