俺と結婚してください 6
馬車は街道を静かに進んでいた。
規則正しく響く蹄の音。
車輪が石畳を踏みしめる振動が、床板を通して足元へゆるやかに伝わってくる。
窓の外では、辺境の景色がゆっくりと流れていた。
深い森。
青々とした草原。
ところどころで牛を放牧する農家の姿が見える。
いつも見慣れている景色だった。
討伐任務でも、視察でも、この街道は何度も通ってきた。
だが今日だけは違う。
景色が目に入っても、心までは届かない。
意識は自然と、この先にあるローゼンタール公爵邸へ向かっていた。
対面したら、最初になんと言おう。
挨拶は。
自己紹介は。
求婚は、どのタイミングで伝えるべきなのだろう。
考え始めるたびに答えが変わる。
結局、考えても意味はないのだと苦笑した。
兄たちにも言われた。
父にも言われた。
いつもの自分でいればいい、と。
分かっている。
分かっているのに、心だけは落ち着かなかった。
「リアン」
向かいに座るアルベルトが声を掛ける。
「はい」
「外を見てみろ」
言われるまま窓へ視線を向ける。
森が途切れ、その先に広大な花畑が広がっていた。
白や青、薄紫の小さな花々が風に揺れ、まるで波のように一面を染めている。
思わず息を呑んだ。
「綺麗ですね」
「ああ」
アルベルトは頷く。
「この辺りからローゼンタール領だ」
オーレリアンは改めて窓の外を眺めた。
辺境伯領とはどこか違う。
エルフレイム領は岩山や針葉樹が多く、力強い自然が広がる土地だ。
一方でローゼンタール領は柔らかい。
花が咲き、風は穏やかで、水路が整備されている。
領主が違えば、土地もこうまで変わるものなのか。
そんなことを考えているうちに、馬車は緩やかな坂道を上り始めた。
やがて御者が小さく声を上げる。
「閣下。見えてまいりました」
オーレリアンも窓から身を乗り出した。
丘の上。
青空を背に、一つの白い屋敷が建っていた。
王城ほど大きくはない。
しかし、白い石壁と銀色の屋根が陽光を受けて美しく輝いている。
庭園は隅々まで手入れされ、色とりどりの花が季節を彩っていた。
その景色を見た瞬間、ふと一年前の銀色の女性が脳裏をよぎる。
どこか似ている。
華やかというより、凛として美しい。
そんな印象だった。
「リアン」
アルベルトが静かに呼ぶ。
「着いたら、お前が話せ」
「……はい」
短く返事をする。
その声は思ったより落ち着いていた。
鼓動は相変わらず速い。
それでも不思議と恐怖はなかった。
会いたい。
その気持ちだけが胸を満たしている。
馬車は屋敷の正門をくぐる。
砂利を踏む音が変わり、速度がゆっくり落ちていく。
正面玄関には既に使用人たちが整列していた。
さらに、その中央には三人の姿がある。
壮年の男性。
穏やかな笑みを浮かべる女性。
そして、二十代半ばほどの銀髪の青年。
ローゼンタール公爵夫妻と、シンクレアの兄だろう。
馬車が止まる。
御者が扉を開くと、アルベルトが先に降り立った。
続いてオーレリアンも地面へ足を下ろす。
初夏の風が礼服の裾を揺らした。
「ようこそお越しくださいました」
公爵が一歩前へ出て一礼する。
「お待ちしておりました。アルベルト辺境伯」
「こちらこそ、本日は時間を作っていただき感謝する」
両家当主の挨拶が始まる。
形式に則った礼儀正しいやり取り。
オーレリアンも一礼し、公爵夫妻へ挨拶を済ませた。
その間にも、視線は無意識に周囲を探してしまう。
銀色の長い髪。
黒い礼装。
あの日、忘れられなかった姿。
しかし、どこにもいない。
(まだ来ていないのか……)
ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
安心したのか。
残念だったのか。
自分でも分からない。
「どうぞ中へ」
案内され、公爵邸へ足を踏み入れる。
磨き上げられた大理石の床。
壁を彩る風景画。
窓から差し込む柔らかな陽射し。
どこか落ち着いた空気が流れる屋敷だった。
応接室へ通されると、香り高い紅茶が運ばれてくる。
しばらくは両家の近況や領地の話が続いた。
オーレリアンは静かに耳を傾けながらも、胸の奥では別の音を聞いていた。
早鐘のような鼓動。
一秒ごとに、その音は大きくなっていく。
その時だった。
廊下の向こうから、軽やかな足音が聞こえた。
──たっ、たっ、たっ。
人ではない。
四本足で駆ける、小さく弾むような足音。
続いて、扉の向こうから嬉しそうな鳴き声が響いた。
「わふっ!」
応接室の空気が、ふわりと動く。
優しい風が頬を撫でた。




