俺と結婚してください 5
四日後の朝。
辺境の空は、雲一つない青色に染まっていた。
夜明けに降りた朝露が芝を濡らし、庭木の葉先では小さな雫が陽光を受けてきらめいている。
エルフレイム辺境伯邸の正門前には、一台の馬車が静かに待機していた。
漆黒の車体には、金糸で縁取られた家紋。
二頭立ての栗毛馬は既に支度を終え、鼻先から白い息を細く吐きながら主人たちを待っている。
使用人たちは慌ただしく動き回っていた。
旅程は片道半日ほど。
決して長旅ではない。
それでも公爵家への正式な訪問だ。荷物一つ、礼を欠くことは許されない。
そんな喧騒を少し離れた場所から眺めながら、オーレリアンはゆっくりと手袋をはめた。
黒い礼装。
磨き上げられた長靴。
腰には儀礼用の剣。
普段の軍服とも訓練着とも違う窮屈さに、思わず襟元へ指を入れたくなる。
「リアン」
聞き慣れた声に振り返る。
玄関から父アルベルトが姿を現した。
堂々とした体格は年齢を感じさせない。
辺境伯としての威厳を纏いながらも、息子を見る目だけは柔らかかった。
「待たせたな」
「いえ」
アルベルトはオーレリアンの姿を上から下まで眺める。
礼装に乱れはない。
靴もよく磨かれている。
寝癖もない。
だが──。
「顔が固い」
思わずオーレリアンは目を瞬かせた。
「そうですか?」
「そうだ」
即答だった。
アルベルトは豪快に笑う。
「初陣へ向かう時の方が、まだ気楽そうな顔をしていたぞ」
その言葉に、自分でも苦笑してしまう。
否定できなかった。
昨日は眠れなかったわけではない。
食欲も普段通りあった。
体調は万全。
それでも胸だけが落ち着かなかった。
あと数時間。
その数時間先には、シンクレアがいる。
そう思うだけで鼓動が少し速くなる。
「緊張しています」
正直に答えると、アルベルトは満足そうに頷いた。
「それでいい」
「……え?」
「緊張しない男より、よほど信用できる」
そう言って息子の肩を大きな手で叩く。
鈍い音が礼服越しに響いた。
「相手は公爵家だから緊張しているんじゃない。会いたい相手だから緊張しているんだろう」
その言葉に、オーレリアンは少しだけ目を伏せる。
図星だった。
相手が誰でも同じではない。
シンクレアだからだ。
一年前から会いたいと思い続けてきた女性だから、こんなにも胸が騒ぐ。
「父上」
「なんだ」
「俺……」
言いかけて、言葉が止まる。
何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。
不安なのか。
期待しているのか。
断られたらどうしようと思っているのか。
その全部なのかもしれない。
アルベルトは急かさなかった。
息子が言葉を探し終えるまで、静かに待つ。
やがてオーレリアンは、小さく笑った。
「ちゃんと伝えてきます」
飾らない一言だった。
しかし、その笑顔を見たアルベルトは力強く頷く。
「それで十分だ」
「お前は昔から、不器用なくせに真っ直ぐだからな」
「……褒めてます?」
「もちろんだ」
豪快な笑い声が朝の庭へ響いた。
その声につられるように、オーレリアンも肩の力を抜いて笑う。
胸の奥にあった重たい緊張が、少しだけ軽くなった気がした。
「父上」
玄関からレオンが姿を見せる。
その後ろにはカイルもいた。
「馬車の準備が整いました」
「よし」
アルベルトは頷く。
「では行くか」
使用人が馬車の扉を開く。
アルベルトが先に乗り込み、続いてオーレリアンも足を掛けた。
その瞬間だった。
屋敷の奥から、勢いよく誰かが駆けてくる。
「リアーーーン!!」
聞き覚えのある大声だった。
オーレリアンが振り返ると、鎧姿の青年が片手を振りながら走ってくる。
三兄、ガイアスだった。
朝の訓練を終えたばかりなのか、額にはまだ汗が残っている。
「兄上?」
「間に合った!」
ガイアスは息を整える間もなくオーレリアンの前まで来ると、その両肩をがしっと掴んだ。
真剣な顔になる。
「リアン」
「はい」
「絶対に格好つけるな」
あまりにも真面目な声だった。
オーレリアンは思わず瞬きを繰り返す。
「……はい?」
「お前、緊張すると格好いいこと言おうとする癖あるだろ」
「ないよ!」
「ある」
即答だった。
後ろでレオンが苦笑し、カイルも肩を震わせている。
どうやら兄弟全員の共通認識らしい。
「いいか」
ガイアスはさらに顔を近づける。
「『君のためなら命を懸ける』とか言うな」
「言わないって!」
「『一目惚れでした』も違う」
「それも言わない!」
「『運命でした』もなし」
「だから言わない!」
兄の勢いに思わず声が大きくなる。
そのやり取りを見ていたアルベルトが腹を抱えて笑った。
「はっはっは! 確かにリアンなら言いそうだ!」
「父上まで!」
恥ずかしさで耳まで熱くなる。
ガイアスは満足そうに頷き、ぽん、と弟の肩を叩いた。
「いつものお前で行け。シンクレア嬢が見るのは、辺境伯家四男じゃない。お前自身だ」
その一言だけは、先ほどまでの冗談とは違っていた。
真っ直ぐだった。
軍で誰よりも弟を見てきた兄だからこその言葉だった。
オーレリアンは静かに頷く。
「うん」
短い返事だった。
けれど、その声には先ほどまでの迷いがなかった。
馬車へ乗り込む。
扉が閉まる音とともに、車輪がゆっくりと動き始めた。
エルフレイム辺境伯家を後にし、馬車はローゼンタール公爵領へ向かって走り出す。
その先で待つ運命を、まだ誰も知らなかった。




