8. 微睡み
しんとした寝室で、リネーネはベッドに座っていた。
エミリアが来ることを誰にも言うな、と、半ば脅しのようにルースに頷かせてしまった。
その困惑するような瞳から逃げるように寝室に来たが、奇妙な居心地の悪さはなかなか消えそうにない。
ルースに言う覚悟がないのは、なぜなのだろう。
リネーネは足元をじっと見つめ、敷き詰められた石の上に敷いた緑色の絨毯をつま先でなぞる。
以前の「ルース」たちは、前任者から引き継がれてきたらしく、何を説明する必要もなかった。
だからこそ彼らは距離を取り、疎んでくれていた。
けれど、今のルースは勝手に家を出てきた跳ねっ返りだ。
祖父である「ルース」からも、詳しいことは聞いていなかったのだろう。
もしかしたら、本来の後継者であった彼の兄は聞いているのかもしれないが、どちらにしろ、ルースは誰からもリネーネとエミリアとの関係を聞かされていないのは確かだった。
でなければ、あんなに親愛に満ちた態度にはならない。
でなければ、あんなに自分を無条件に許したりしない。
リネーネはベッドにぼすんと寝転ぶ。
ふわりとシエバの香りがすると、記憶がゆっくりと捲られていくような感覚に襲われ、目を閉じた。
いくつものルース。
自分を忌み嫌うような目。
人々を惹きつける穏やかさ。
信仰の対象にすらなりそうな、その光り。
エミリアの目。
自分を慕ってくれる、あの純粋できれいな目。
微笑むと、祝福が降り注ぐ。
幸福には様々な色があることを知った。
「……」
リネーネはかすかなシエバの香りを吸い込む。
あれは、この香りが好きだった。いつか花を見るのだと、無邪気にそう言っていたのを思い出す。
笑っていた。
──君は結局ルースを捨てられない。君が想ってるのは、常に自分に付き従うルースだけだ。
──ルースなど殺して、エミリアと一緒に行けばいい。
「できない」
そんなことはできない。
いくら想っていたとしても、リネーネにはできなかった。
人生を握られてしまった「ルース」たちに、せめて報いなければ。
それが贖罪にならずとも、リネーネはそこから逃げることだけは許されないと思っている。
いつになるのかわからない。
わからないが、彼らが「ルース」を名乗る必要がなくなるまでは、エミリアを追いかけることなどできない。
リネーネは目を瞑り、微睡みの中で笑う。
何もかも、できないことばかりだ。
◯
「リネーネ様。リネーネ様!」
ゆらゆらと肩を揺らされて目を覚ますと、視界いっぱいにルースの顔があった。
朝からなんとまあ眩しい金色だろう。
リネーネはその顔を抑え、ぐいっと離した。
「……何?」
「死者です」
「……は?」
「死者が訪ねてきました。対応お願いできますか?」
寝ぼけた思考に「死者が訪ねてきました」というわけのわからない言葉が刺さり、覚醒する。
「……ししゃが、たずねてきた……?」
「そうなんです。そうとしか言えなくて。とにかく、起きてください」
「いや。説明を」
「できる説明はそれで全部です。僕は影を抑えなきゃならないので、戻りますからね。起きてくださいよっ」
ルースはドタバタと寝室を出ていき、元気に「リネーネ様はまもなく参ります」などと大仰に声を響かせた。
早く来てくれ、ということなのだろう。
リネーネはゆっくりと起き上がると、寝癖だらけの髪のまま、のろのろと裸足で寝室を出た。
顔を上げると、昨日とは違う風が家の中を駆けていることに気づく。あんなに香っていたシエバの香りは、幻のように消えていた。次に会えるのは、また一年後なのだろう。寂しさのようなものがリネーネの鼻先を掠める。
「あ。来られました、あちらがリネーネ様で……」
リネーネのその姿を見たルースがぎょっとする。
「寝癖……!」
「お前が早く来いと言うから」
「す、座ってください!」
ルースはリネーネを座らせると、すぐさま櫛を取りに行ってしまった。
残されたのは、リネーネと、対面に座る四十代とおぼしきの女の死者だけだ。どう見ても生者に見えるほど、呼吸も鼓動も感じるその姿は、死者には全く見えない。
それでもわかる。
彼女は、死者である、と。
「はじめまして、リネーネ様。私はフローレンスと申します。突然の訪問をお許しください」
ゆっくりと頭を下げたフローレンスの影がテーブルに落ちる。
すでに、その周囲は金のさざなみが揺れていた。
少々離れていても、これほどしっかりと囲っているのなら何も問題ないだろう。
リネーネは寛いだように頷いた。
「死んでいる自覚があるんだね」
「はい」
「それでも、自我があるなら──最近か?」
「一ヶ月前のことです」
リネーネは感心した。
二週間もすれば、死者は自我が削り取られ、無垢に加護を使ってしまうはずだ。一ヶ月もこうして受け答えができる状態を保っているのなら、相当な精神力だったのだろう。年齢から見ても、明らかだった。
「強いね」
リネーネが言うと、彼女は目元を和らげる。
「ふふ。リネーネ様に褒められるなんて、長生きをした甲斐があります」
「よく耐えた」
リネーネは短く彼女を労った。
フローレンスの目には、死者とは思えぬ喜びと、驚きと、涙が浮かぶ。
彼女が指先でそれを拭う仕草は、どこまでも美しかった。




