9. フローレンス
「──事故?」
ルースが聞くと、フローレンスは頷いた。
「ええ。死の自覚があったのは、そのせいかと」
死してなお穏やかに微笑むフローレンスは、先ほど涙を浮かべたことを一切見せぬように、ルースににこにこと応じた。
というよりも、リネーネの髪に櫛を通すルースを微笑ましそうに見守っている。
「ですから、どうにかここまで自分を保つことができました」
「この一ヶ月は、何を?」
後ろに立つルースが手を止めないことに諦めたリネーネは、話を進めることにした。これは満足するまで折れはしない。
フローレンスはどこかリネーネに同情するように「気にしてません」とばかりに頷き、話しを続ける。
「私は、ある方の侍女を努めておりました。今回は輿入れで、こちらの国に。ところが途中で馬が突然暴走し、崖を落ちたのです」
「……それで?」
「いいえ」
フローレンスが首を横に振る。
加護を持つものは基本的には身体が丈夫になる。死者になろうとも、生者と寸分の変わりない姿を維持できるほどに、理とは別の軸で生かされている。
事故で死ねるような、そんな簡単な死を迎えられはしない。
だとすれば──
「崖から落ちるとき、お嬢様は助からない、と思った瞬間に、加護を使ってしまったようです」
リネーネはフローレンスの諦観に満ちた表情を、ただ受け止めるように見つめた。
加護は、本人の本質的な衝動と欲求に反応する。
加護を持つ者が普段から欲を持たぬように生活していたとしても、突然内から噴き出した衝動は止めようがない。
「……生かそうとしたから、反作用が君に来たんだね」
「はい。生と死については、基本的には自分に返ってくる、と教えられてきましたから、あの高さから落ちてお嬢様が無事ならば、自分は加護を使ってしまったのだ、と。だとしたら──」
「死んでいる、と?」
「はい。実感がなくて驚きました」
髪を梳き終えたルースが、黙ってリネーネの隣に座る。
反作用は、加護の影響で変わった歪みを正すように訪れる、絶対的なものだ。
強い衝動は、強い影響を。
生には、死を。
その強烈な加護というものの本質的な姿に気づいた者たちは、聖なる力として崇めることはなくなり、厄介なものとして禁止を言い渡した。
それがどれほど前のことか、リネーネはもう覚えてもいない。
「……加護はいつから?」
リネーネが尋ねると、フローレンスは「十三のときから」と思い出すように小さく笑った。
「誕生日の翌日でした。突然身体が光りはじめて、なんとも言えぬ幸福と──万能感のようなものに包まれたのですが、それがとてつもなく恐ろしかったのを覚えています。すぐに、受護協会に保護していただきました。そこで五年。加護を持つ者はそこで、徹底した無私を体に染み込ませますから、貴族の方からのお声がけは多いのですが……お嬢様と出会えたことは、人生で一番の幸運だったと思います」
ルースが「わかります」とやわらかく寄り添えば、フローレンスは優しく目を細めた。
「一生使わないと誓った加護でお嬢様を守れたのなら、本望です」
「無事に送り届けられたのですか?」
「ええ!」
死者であることを隠して、嘘を突き通して、彼女の生活が落ち着くのを待って、「国に戻りたい」と我儘を言って去ってきた、と言う。
「ただ、それからどうしていいのかわからず、こうしてリネーネ様を訪ねてきた次第でして……朝早くから押しかけて、申し訳ありません」
「いいよ。気にすることはない」
「そうですよ。リネーネ様はお優しいですから」
余計なことを言うな、と肘でつつけば、フローレンスは穏やかに笑った。
その姿に、リネーネはなんとも言えなくなる。
加護を持つものが、四十代まで生きながらえているのは、奇跡的だ。
どれほどの強い意思を持って、自らの死を願わなかったのだろうと思うと、彼女が最後に衝動的に人を救ったことが、とてつもなく深い愛情のように思えた。
「別れを言わなくて、いいのか?」
リネーネが聞くと、フローレンスは迷いのない瞳で微笑んだ。
「はい」
「あなたの加護を踏んだことは、必ず報告しなければならない。いずれ伝わるだろう。それでも?」
「はい」
彼女が主人を想っているのを見たリネーネは、その空気を壊さぬよう、静かに立ち上がる。
「では、行こうか」
フローレンスは、ほっとしたようにその場で深く頭を下げたのだった。
裏庭に立ったフローレンスが、青空を見上げる。
彼女がその先に誰を思っているのか知っているリネーネは、いつものように声をかけた。
「準備ができたら、目を閉じて、一番楽しかった思い出を」
「それなら、はっきりと思い出せます」
フローレンスの表情が懐かしむように穏やかになり、ゆっくり、ゆっくりと目を閉じる。
幸福な表情を浮かべた彼女に自然な笑みが浮かぶをのを待って、リネーネはルースが固定している影をそっと踏んだ。
どこかあたたかい、体温のような温もりがそこにはある。
裾をつまみ、左足で、小さな菱形を描く。
影は波紋となり、その内側から彼女を愛す加護が姿を見せ始めた。
目を焼き尽くさんばかりの圧倒的な光に、リネーネの左の足首の輪が共鳴し、回る。その紫色の光が、加護を絡め取って朝焼け色へ変化する瞬間、ふとリネーネの中に疑問がよぎった。
そのまま、言葉となる。
「フローレンス──なぜ、私の家を知っている? この国のものではない君が」
目を瞑ったまま、フローレンスが微笑む。
「エミリアが、教えてくれたのよ」
そのまま、彼女は透けて、風にかき消えた。
残された金の粒子となった加護は、リネーネの足元へ吸い込まれていく。




