10. 慈愛
足元に吸い込まれていった加護から、フローレンスとエミリアが会っている記憶が、リネーネの意識に蔓のように広がった。
フローレンスはエミリアに手を握られている。
いいや、フローレンスがエミリアの手を握っている。
ふわふわとなびくスカート。視線は足元へ。
──ディア湖へ向かう街の高台に、石造りの小さな家がある。そこに、加護踏みのリネーネがいる。彼女に会いなさい。
フローレンスが頷くと、その額に、そっと指が添えられた。
慈しむように撫で、それから慈愛に満ちたキスが額に落とされる。
──よく耐えた。よく、生きた。あなたに、穏やかな眠りがあらんことを。
二人の手が離れる。
フローレンスはエミリアを見送った。子どものように無邪気に、手を振った。
エミリアが振り返る。
穏やかな笑みで、手を振り返して、そしてその姿はすぐにそこから消えていった。
銀の矢となって。
「リネーネ様?」
後ろから控えめに声をかけられて、リネーネは記憶の蔓を手放した。
「……大丈夫ですか?」
「平気だよ。悪いがルース、フローレンスのことを報告してきてほしい」
「手紙でいいですよね?」
リネーネが振り返ると、ルースは深く頷いた。
「昨日、帰りました。手紙でいいですよね?」
「……昨日こそ、次からは帰る、と言っていたと思うのだが」
「その次がいつかは、僕が決めますので」
「横暴だな」
リネーネは呆れたように笑うと、ルースとともに家へと戻る。
誰もいなくなった裏庭を、振り返ることはなかった。
ルースがお茶を入れにキッチンへ行くのを見送りながら、リネーネはテーブルに置かれた便箋を何気なく手に取った。何の飾り気もない、ただの紙だ。
「もう少し、好きなものを使えばいいのに」
「兄への報告書みたいなものですから」
「お前、可愛いもの好きなのにね」
「そ、そんなことありませんよ?!」
ルースが動揺したようなカチャカチャというような音を聞きながら、リネーネは頬杖をつく。
「私は知ってるし、気にすることなどないけど」
「何をですか。何を知ってるんですか?」
「色々……?」
「だから、なにをですか?!」
「色々、だ」
リネーネは思い出す。
以前、依頼を受けて王都付近の街へ降りたき、露店の前でルースが人形をじっと見ていることに気づいて、距離を取って待っていたことがあった。
彼は何かしら葛藤していたらしいが、きょろきょろと周りを見てリネーネの不在を確かめると、小さな人形を手にして、会計をしたあとに大事そうに胸にしまっていたのだ。それから、どこへ行っても探して集めているのを知っている。
「何を知ってるんです?」
じっとりと睨むルースに、リネーネは人差し指で小動物を縁取るように動かした。
「……ネヴァンスの」
「あ、はい。わかりました」
小さな耳に、長い尾の先は小さな鐘がついている、架空の生き物、ネヴァンス。加護を遠ざけるとされる少々目付きの悪いそれは、目に様々な宝石を嵌めてある、子供向けのぬいぐるみだ。
どこか顔を赤らめるルースは、リネーネの前に銀の盆をおいた。
「ネヴァンスは石の色も、ほら、毛の色も様々ですから。集めがいがあるんです。別に、最初に買ったネヴァンスが……特別、とか……似てる、とか……そういうことじゃなくて……!」
「私も可愛いと思うよ」
「ほ、本当ですか?」
リネーネは頷く。
「今度は私の分も選んでくれ」
「いいんですか?!」
リネーネの目の前に置かれたティーカップの中のが、珍しく大きく揺れる。
「街によって顔も違うんですよ! 是非一緒に選びましょう!」
「……それは楽しみだ」
機嫌は直ったらしい。リネーネは一口お茶を飲むと「美味しいね」と更に褒めた。にこにこと笑うルースがペンを取るのを見てから、便箋を指さす。
「私も一枚もらっていいかな?」
「どなたに?」
「ランスに」
「なぜ兄に書くんです」
あっという間ににこやかな顔がむっとする。
早かった。
リネーネは首を傾げて乗り切ろうとしたが、ルースは腕で便箋を押さえてしまった。
「……少し、伝えたいことがあるだけだよ」
「僕が書きます。どうぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
「どうぞ」
「お前ね」
呆れたように見るリネーネを、ルースは「絶対譲りません」とばかりに見つめ返し──いや、睨んでいる。
頑固であることを知っているリネーネは、とりあえずお茶を飲むことにした。
「……ランスと喧嘩でもしてきたの?」
「喧嘩はないです」
「嫌いだっけ?」
「好きです」
「……」
「……」
前の「ルース」が言っていた記憶を手繰り寄せる。
自分のことは全く話さない男ではあったが、次の同行者となる孫の話は時折していた。とても落ち着いていて、何も問題はないだろうことや、自分から引き継がれるであろう加護の強さは、自分と同程度になるだろう、ということも。父や母に対してもどこか一線を引いていて自立心はあるが、兄弟仲はいい、とも言っていた。
業務連絡のような会話だったが、自分がいなくなったあとの心配はない、と伝えているのはよくわかった。
だからこそ、最初に会ったときの少年の姿には驚いたものだった。
聞いていた姿よりも、ずいぶん純真である、と。
ルースはまだむすっとしたまま、便箋を腕で押さえつけている。
リネーネは思った。
もっと確認してから、彼の加護に触れて定着させるべきだった、と。




