5. 黄金の矢
橋を渡りきり、アルゼ山の麓の森まで歩くと、ルースは満足したように「帰りますか」と言い出した。
「やっとか……」
「え? 楽しくなかったですか?」
驚いたように聞かれるので、リネーネは「まあなあ」と曖昧な返事を返す。
ディア湖の橋の上で「結婚……結婚か」と言いながら歩くルースに付き合っていただけなのだが、ルース自身はいつの間にか散歩を楽しんでいたらしい。
「お前のことはよくわからん」
「僕も僕のことはあんまりわかんないです」
「……そうなのか」
「リネーネ様は?」
無垢に聞かれて、リネーネは苦笑する。
「言われてみれば、わかってないね」
「そういうものですよね」
ルースが顔を上げれば、リネーネもつられたように顔を上げた。
アルゼ山の麓の木々は遥か頭上でゆったりとその細い身体を揺らす。
長閑だった。
どこまでも、追いかけられそうな空だ。
「ルース」
呼ぶと、すぐに「はい」と隣から聞こえてくる。
二人に届く木漏れ日の向こうには、澄み渡る青空が広がっていた。
今なら聞けるだろうか。
リネーネは考える。
ほんの一瞬。
エミリアと自分のことを、どこまで知っているのか、と。
「……帰ろうか」
聞けなかった。
けれど、ルースは何も気にしないように、頷く。
「はい。帰りましょう。僕らの家へ」
「……私の家だが?」
「今日はきっとよく眠れますよ」
ものすごく軽く流されるが、今のところ出ていく気はないらしいことだけはしっかりと受け取った。
「さ、リネーネ様。お疲れでしょう。帰りは僕がお連れしますね」
腰に手を添えられるのも、慣れてしまっている。
以前のルースたちは腕だったり、肩だったり──それも指先だけという徹底ぶりだった。
先代のルースでさえ、まだ親しみを込めていてくれた方だったが、同じだ。
自分に躊躇いなく触れる者など、今となってはこのルースだけなのかもしれない。
彼もいつかいなくなり、また、別のルースがやってくる。
赤い帽子が窓から見えたとき、自分はどう思うのだろう。
「……ふ」
「? どうしました?」
「いや、いつかあいつの子孫が私とともに歩くのだと思ったら、おかしくてな」
「なんのことです?」
「お前の兄のことだよ。お前が結婚しなかった場合は、彼の息子の息子が、私の同行者になるのだろうな、と。あのクソ真面目なやつの子とは……ふふ、おかしい」
きっと、今までのルースと同じような立ち位置で、しかめっ面で、嫌そうに腕に触れるのだろう。
想像して笑うリネーネは、腰に添えられた手がかすかに強くなったことには気づかない。
「リネーネ様」
ルースがはっきりとした声で言う。
「それは、賛成できません」
「……うん?」
「兄の子が、リネーネ様の同行者になることは、賛成できません」
「お前は何を言ってるの?」
兄弟仲が悪かっただろうか。リネーネは首を傾げたが、ルースは真面目な顔で「賛成しません」と繰り返した。面倒なことになる気配に、リネーネはあっさりと頷いた。
「ああ……そう」
「そうです」
「でもお前が結婚しなければ、そうなると思うのだが?」
リネーネの問いにぎゅっとしかめっ面をしたルースは、珍しく黙って跳躍した。
一気に身体が軽くなり──景色が高速で流れる。
けれどリネーネに触れる手は、どこまでも優しかった。
黄金の矢は、来た道を引き返す。
こんな使い方も、以前のルース達はしなかった。
リネーネのためにその力を使うことは、なかったのだ。
高台の家の庭に降り立つと、ルースは神妙な顔で「突然跳んで、すみませんでした」と謝った。
リネーネはとりあえず頭を撫でてみたが、嫌がる様子はない。
「疲れてるなら休みなさい」
「疲れてません。ちょっとの距離でめまいがしていたのは十六の頃です。これくらいなら、まだ」
「ああ、よかった。なら、ちょっと実家に帰ってくれ」
えっ、とルースが目を丸くする。
慌ててそうなルースを、リネーネはすぐに手を振って止めた。
「出ていけ、と言っているわけじゃない。今日の死者の報告を、対面でしてきてほしい。加護を受け取って亡くなった子だ。今頃、王城付近は大変な騒ぎになっているだろうよ。お前の兄が出られていれば、加護を受け取ったことによる消滅であると判断しているだろうが……どちらにしてもこちらに相談が来る前に、彼女のご両親に安心を届けてやってほしい。すでに加護は踏まれ、危険性はなくなった、と」
「……それを言われたら、嫌だとは言えません」
「言わせる気がないからな」
「帰ってきて、いいんですよね?」
許可を取らなくとも帰ってくるつもりのくせに、とリネーネが笑うと、それでも「言ってほしい」と言わんばかりの切実な瞳が向けられた。リネーネは頬を撫でてやる。
「はいはい。いいよ。終わったら帰ってきなさい」
「! はいっ!」
嬉しそうに笑って、まるで美しく礼をするように頭を軽く下げてから、ルースはまた跳んでいく。
心なしか、その矢はキラキラと輝いているように見えた。アルゼ山を抜け、王都ウシュラリエ──彼の実家がある方へと矢が走る。
見送っていたリネーネは、ゆっくりと家を振り返った。
白い洗濯物がはためくその向こうに、誰かが立っている。




