54. ひたむきな愛
名前を呼ばれている、気がした。
リネーネが重なって咲く菱形の花をぐっと踏むと、すぐに銀の粒子が身体を包んだ。
深く抱きとめられるような安堵感に、力が抜けていく。崩れ落ちそうになれば、身体は優しく包まれた。
大声で泣きたくなった。
身体を丸めて、ただ耐える。
今までの日々が、景色に溶けていく。
エミリアとともにいた日々も、街を見下ろしている長い時間も、ルースとの四年も。
諦めて、心を沈めて、何もかも過ぎていくものであると見送ってきた。罪悪感も痛みも消える恐怖心すら、通り過ぎていった。
けれど今、なぜ心はこんなにも叫んでいるのだろう。
そっと地に下ろされても、リネーネは蹲っていた。
草の柔らかな感触が、額を撫でる。
たくさんの罪悪感や後悔や死者の記憶が、リネーネの内側で決壊する。
いやだった。
あんなことなどしたくなかった。
胸を貫かれた瞬間の痛みが広がり、胸を両手で抑える。それでも、彼に会えたこということだけで、自分の「生」を意味のあるものだと思えてきた。
酷いほどの愛だった。
「リネーネ様」
ルースの穏やかな声に、リネーネの身体がびくりと揺れる。背中に置かれた大きな手は、ぐっとリネーネを抱き寄せた。子を守る親のように──リネーネの上から優しく抱きしめる。
安堵と戸惑いの中で、リネーネは察した。
ルースが、何をしたのを。
「……馬鹿なことをしたら許さないって、言っただろう」
「はい。でも、僕も言いましたよ。こっちの台詞です、って」
「生きてた」
リネーネが震えながら吐き出した不安に、ルースは「はい。生きてます」とリネーネの背中に額を寄せる。少し体温の低くなったそれが、溢れていく感情を、一つずつ、落ち着かせていく。
「大丈夫ですよ。僕は、大丈夫です」
「……お前、いつもそればっかり」
「すみません、若いので」
くすくすと笑うルースが、リネーネの身体をあやすように揺らした。
それだけで、息が深く吸える気がする。
ルースはトントンと背中を叩くと、リネーネの腕を柔らかく支え、起こした。俯くリネーネに構わず、袖で顔を拭う。最後に、土のついた額を、親指で優しくそっと払った。
きっと見ていられない顔をしているだろうに、目を合わせれば、ルースはなぜか嬉しそうに笑う。
リネーネの中で溢れていたなにかが、柔らかく包まれていくような気がした。
「……ルー」
「はい」
何を言えばいいのだろう。
色が薄くなったやわらかな髪に、そっと手を伸ばす。
頭をくしゃりと撫でれば、リネーネがよく知る無邪気で明るい笑みが向けられた。
そのまま、ルースもリネーネの頭を撫でる。
「お返しです」
「……子ども扱いをするな」
「ですよね? 僕もいっつも思ってますからね!」
笑い飛ばすルースが、ゆっくりと立ち上がる。
目を伏せるように笑いながら、リネーネに手を差し出した。その手を、なぜか迷いなく掴める。
「信じています」
だから、と、ルースは言うと、リネーネの後ろを見た。
遠くで立つ、誰かを。
その青い目は、どこまでも慈愛に満ちていた。
風がルースの髪を優しく撫でる。
「行ってきてください」
その言葉を聞いた瞬間、リネーネは振り向いて走り出していた。
力の入らない足で、必死に向かう。
ああ、なんて懐かしい顔をしているんだろう。
互いに泣き出しそうな顔をしたまま、それを見て懐かしんでいるのがわかった。
長い長い、長すぎた時間が一気に縮まるように、何も見えなくなる。
愛しい人しか、見えなくなる。
「ルーシャス」
リネーネが呼べば、懐かしい名前で呼び返される。
夢中で飛び込むように、ただ手を伸ばしていた。
─……─
僕は、あの日のことを忘れられません。
まるで子どものようだった。
二人が必死で手を伸ばして、失っていないことを確かめ合っていた。
不思議と、胸は痛みませんでした。
あの人がいるから、リネーネ様は生きている。
リネーネ様が生きているのは、あの人が生きているから。
そうして、幾度も幾度も繰り返した生命の最終地点に、僕がいる。
それは、あの光景を見ればとても自然なことのように思えたのです。
もし、僕があの人の提案を受けていたら。
正直に言うと、揺れた。
僕だけがリネーネ様の隣りにいたかった。でもきっと、それをしてしまえば、僕は今のようにリネーネ様のそばにいることは、許されなかったでしょう。
僕は、リネーネ様が愛するのがあの人であっても、そばにいるのが僕であればいい、と思えてしまった。
僕は、愛はもらえないかもしれない。
でも、時間はもらえる。
人として、想ってもらえる。
あの人よりももらえるものは多いのです。
そう言うと、あの人は顔をしかめっ面にして、悔しそうに「嫌い」と僕に言いました。結構わかりやすい。
リネーネ様は、僕とあの人を見て不思議そうにしていましたが、それでもどこかへ行くあの人を、僕と一緒に見送りました。
あの日の空は、とても青かった。
僕のできることは、少なくなりました。
リネーネ様を連れて行くことと、影が暴れないようにさざなみで囲うことだけ。
誰かを攻撃できるような使い方は、ぱったりとできなくなりました。
きっと、僕の解放を願ったリネーネ様の加護によるものなのだろう、ということにしています。
その想いを受け取ったのだろう、と。
あの人は、今も生者の加護を踏む。
けれど丁寧に、丁寧に、寄り添うようになったのだろう、と思います。
リネーネ様に会いに、四ヶ月に一度もやってくるんです。多い。
一度だけ、リネーネ様にもらった手紙を開けたことがありました。
そこに書いてあることは、僕だけの大切なものにしておきたいので、ここには書くのはやめておきます。
あの人に自慢したいけれど、それも、やめておきます。かわいそうだし。
何かが変わったけれど、僕らは何も変わっていない。
そういう時間を、ただ見つめて、撫でて、慈しんでいきたいと、僕は思うのです。
加護は、今も人々に降り注ぐ。
愛を押し付けてくる。
けれどそれは、僕も同じなのでしょう。
僕もあの人もリネーネ様も、同じなのでしょう。
─……─




