52. 本音
ただ見ていた。
そばを離れればいいと思うのに、エミリアは座ったままその場から離れられなかった。
草の上に倒れる薄い金色の髪が、風に揺れる。
シエバの花の香りはしないのに、どうしてかその背中から、ひだまりの匂いがしてくるように感じる。花の香が混じっているのに気づくと「ああ、そういえばこいつは花の手入れを狂ったようにしていたな」と、エミリアは思い出した。
今となって、自分が去る準備をしていたことがわかる。
心が読めればよかった。
そうすれば、説得などせずにさっさと力ずくで踏ませたのに──そう思ったところで、エミリアは空を見上げた。
その髪は青白くはなく、ルースと同じ薄い金色となっている。
馬鹿馬鹿しい。
そう思うが、内側に満ちる何かが、エミリアを包み、苛立つ感情すらも抱きしめられていく。
諦めるしかない。
そう思うほどの、圧倒的な何かだ。
エミリアはため息を吐きながら、手を振り上げると、隣で潰れるその頭に拳を落とす。
「いい加減起きろ」
「……、いったあ……!」
ルースは間抜けな声とともに頭を抑えると、ハッとしたように起き上がった。
「……え。生きてる?」
「お前ね、俺に全部渡す前に疲れ切って倒れたんだよ」
「つ、疲れ切って……?」
そんな、と言わんばかりに頭を抱えるルースは、しかしエミリアの髪を見ると「少しは返せたんですね」とほっと笑った。
その顔は青白い。相当消耗したのだろう。
「本当に苛つく」
「なんでですか」
なんで、と聞き返されること自体が苛立つ。
加護を「返せた」ということも、自分に笑いかけてくることも、これに苛立たなければおかしいのは自分だ。
エミリアの顔を見ていたルースは、なぜか俯いて「ふ!」と笑った。
「なんだよ」
「だって。あなた、僕が気を失ってる間に、無理やり踏ませれば目的は達成できたのに」
「馬鹿を言うな。俺はあいつらと同じことはしないよ」
遠い昔、エミリアの影を踏ませるためにリネーネの足が捻り上げられたあの光景は、どれだけ経っても忘れられない。表情をしかめるエミリアを、ルースはまじまじと見た。
「そうですか? あなた、リネーネ様に同じことしてきましたけど」
「……」
「無理やり加護を渡してますよ。似たようなことです」
「……」
「あ。でも、謝れば許してくれますよ。リネーネ様はそういう人ですから」
「うるさい」
「いたっ」
また頭に降ってきた拳を、ルースは肩をすくめてやり過ごす。
そうして頭を擦りながら、不満げにエミリアを見てきた。
「……本当に、僕にすべてをくれるつもりだったんですか」
「そうだよ。お前にあっけなくやり返されたけどね」
「……必死、だったので」
途端にトーンが低くなるルースの顔は、何かを必死に抑えているようでもあった。
エミリアは無視しようとしたが、何かに押し負けるように、結局口を開く。
「なに」
「……」
「嫌だよ。俺もお前と同じ。お前が目の前で俺の加護を相殺したとき、俺の代わりができるのはお前しかいないと思った。けど、吐き気がするほど嫌だった。彼女のそばに他の男がいるなんて、昔からずっと嫌だった」
言おうとしないルースの表情を読めば、わずかに動揺するのが見て取れた。
エミリアは笑う。
こいつはどこまでも素直だ。
「今までの〝ルース〟は、自分が死なないための役目として彼女といたけど、お前は違う。俺もお前なんか嫌いだよ」
「じゃあどうして」
「お前しかいないからだ」
こいつしかいない。
あとにも先にも、自分のしていることを引き継げるほど、リネーネを想う者などいない。
そう思った。
あの見合いの様子をここで眺めていたときに、ああ、こいつは逃がしてはならない、と思ってしまった。
自分の感情よりも、リネーネの「生」を優先できた。これが最後だとわかったのだ。この最後の理性を逃せば、限界は超えてしまうと。それだけだった。
「……なら、僕も同じです」
ルースが呟く。
「あなたなんか嫌いです。でも、あなたしかいない」
「……あの人をずーっと独り占めできるぞ。今からでも遅くないが?」
「あなたの加護は踏みません」
きっぱりと言い、睨まれる。
「それに、僕には踏めません。やっぱりこの加護は、あなたを愛してるものなんです。僕のもとに残ってくれているのは、きっと慈悲みたいなものなんでしょう。あなたを生かそうとしたご褒美だ」
手を握って開くルースは、自分にできることが少なくなったことを察したらしかった。
「あなたはどうですか?」
聞かれ、エミリアは自分の手を見た。
自分の加護が戻ってきたというよりは、ルース自身の光を取り込んでしまったような感覚に近かった。今まで自分の弟の子孫に幾度も引き継がれてきているが、一切擦り切れていない。むしろ、このルースによって増幅されたような、満ちて発光するような、理由のわからない幸福感すらあった。
「お前、怖いね」
「……同じこと言わないでくださいよ。本当にそっくりだなあ」
「俺と、あの人が?」
「そうですよ。不器用で怖がりなところがそっくりです」
その声に、なんとも言えない苦しみが滲む。
エミリアがルースの歪む表情を見る前に、ルースはべしゃりと沈んだ。
「あなたなんか嫌いだ」
「……」
「本当は羨ましくてたまらないんです」
エミリアはただその伏せられた頭をじっと見つめる。
「あなたは否定するけど。否定しなくちゃんならないんだろうけど、でもリネーネ様はあなたしか愛せないんだ。それくらい、あなたがリネーネ様の希望なんだから。僕じゃどうにもならない」
「……泣くなよ」
「泣いてません!」
そう言うが、ぐすぐすと聞こえてくる恨みつらみに、エミリアは遠くを見ながら付き合うしかなかったのだった。




