48. 反射
「!」
リネーネは手を伸ばしたが、その指先には銀色の粒子が一つ、触れただけだった。
喉が詰まる。
誰の名前を呼ぼうとしたのか自分でもわからないまま、リネーネは呆然と空を見ていた。
光の先が、アルゼ山に降りたのを見た途端、もつれるように走り出す。
「は……はっ」
転げるように坂を下り、街に降りて必死に脚を繰り出す。
誰も彼もが不思議そうに振り返る中、大きく広がる裾に足を取られそうになりながら、それでも走り続ける。
「だめ」
何が起きるのかわからないが、それでも頭の中にはそればかりが浮かぶ。
自分を厭わない方法を取ることが、わかるからだった。
リネーネの耳には、自分の荒い呼吸しか届かない。はあ、はあ、とひたすら息を貪り、どちらの名前も呼べないま、最悪の事態に胸を押しつぶされそうになる。もう息をするのも苦しい。それでも、足は止まらなかった。
足元の煉瓦に躓きそうになり、灰色の家々の壁の間を縫い、ただ必死にアルゼ山へ向かう。
シエバの香りはしない。
あのときは、ルースと一緒だった。
お前は愛されているね、と話したことを思い出す。
走り続けるリネーネの前に、ようやくディア湖へ向かう一本道が見えてきた。
煉瓦の道の隙間に生えた草も、道の脇の背の高い木々の爽やかな木漏れ日も、リネーネの足に潰される。髪にかかるチラチラと揺れる光も、頭上でさわさわと鳴る葉の音も、全てが記憶と結びついていった。
「死ぬな」
リネーネの震える声が溢れる。
交互にあふれる記憶に、頭の中が揺らされていく。
幼い笑み。
大人びた笑み。
抱きしめられて、跳んだこと。
腰にそっと手を添えて、跳んだこと。
繋いだ手の、記憶。
ディア湖の辺りが見えてくる。
リネーネの身体は限界だった。全身を大きな手に握りつぶされていくような苦しみの中でも、焦る心が強制的に手足を動かしていく。
ディア湖の中心を通る道のような石橋に足を踏み入れたときには、もうまっすぐ前を見ることもできなかった。激しい呼吸を繰り返しながら、よろよろと進むことしかできない。
湖面が揺れれば、石橋の両脇が水に濡れる。石の隙間に流れ込む水が、リネーネの足を掴もうとする生き物に見えた。ゆっくり、ゆっくり、嫌な予感を届けに来る。
「……っ」
大粒の汗が頬を伝う。
胃がひっくり返るような吐き気のなかで、リネーネの目には大粒の涙が浮かんでいた。
足が止まる。
どれくらい走ったかわからない。
あれからどれほどの時間が経ったのかもわからない。
これが、現実なのかももうわからない。
それでも、へたり込むことなく、震える足のまま、どうにか立ち続ける。
手をきつく握ると、ぼろりと涙が落ちた。
「──」
ぼやけた視界の隅で、何かが光る。
ディア湖の水面かと思ったが、そうではない。
足元だった。
リネーネの足元が、やわらかく光っている。銀色の光が、ゆっくりとゆっくりと菱形を作り始めるのを見て、リネーネは靴を脱いだ。
ぐっと踏み込めば、そこに自分の菱形も重なる。
それは交差し、一つの形となった。まるで四枚の花びらのように、リネーネの足元で咲く。
「ルーシャス」
呼ぶと、一気に光が溢れ出した。
リネーネの身体が、銀色の粒子に包まれる。
◯
エミリアが、掴んだ服をぱっと離したのは、アルゼ山の頂上にある草原だった。
ここは奇妙な山で、頂上は真横に切り取られたような不自然な作りになっている。その下は絶壁となっていて、花も咲かず、木もない。まるで誰かが腰掛けるための椅子のように、そこにある。それが誰のためかなど、エミリアにとってはどうでもいいことだった。
足元で膝をついて俯く少年に見える男を、ただ見下ろす。
美しい髪だった。
かつては自分も同じ色をしていたが、それがどれほど遠い昔かは思い出せない。
その頭が、ゆらりと動いてエミリアを睨んだ。
「なに。お前、そんな顔できるの。リネーネには笑ってるくせに」
鼻で笑えば、その〝ルース〟はそれを許さぬようにただじっと見つめてきた。
ああ、嫌な目だ、とエミリアは笑う。
「お前の〝リネーネ様〟は助けに来てくれるかなあ? ここには俺達のような力がなければ来れない。あの人が来れるのは……せいぜい旅人たちが山を越えるための道までだろうよ」
「僕は助けを呼んだりはしない」
凶暴な色を混ぜた声に、エミリアは目を細めた。
「見合い。なかなか面白いことしてたね、お前」
「……」
「──あの綺麗な子が、お前の役目を心得て支えるって言ってくれてたじゃないか」
「……」
ただ黙って睨む若い激情が、おかしくて仕方がない。
エミリアは見ていたものを、そのまま言葉にした。
「〝支えられたいとは思えません〟だっけ?」
──あなたを愛せる気もしません。それでも、僕の役目を理解して、子どもだけを生んでくれるのですか?
この穏やかな顔をした青年は、美しい子に向かってそう言った。
容赦がないな、とエミリアはその青い目を通して見ていたが、彼女も強かった。
それでいい、と頷き「一度リネーネ様に会わせていただければ、以後は引きます」と言い放ったのだ。
この場にいたエミリアが目を瞑ったまま笑うと、青年も笑った。
──あなたを会わせるつもりはない。あの人を傷つけることは、僕は許さない。
そう言って、彼女を蔑むように見て「あなたから断る機会を、一度だけ与えます」と言い、彼女を馬車まで送ったのだ。
「あれを見て思ったよ」
エミリアはルースの手を、ぐ、と踏みつけた。
「俺はお前を逃さない。お前が、リネーネを守るために冷徹になれるのなら──俺はお前を使わせてもらおうって」




