45. 望み
閉まっていく扉を見ていたルースは、ちらりとリネーネを見た。
「もしかして兄は、僕の味方になってくれてます……?」
「間違いなく、ね」
「僕がしたことをずっと許していないのかと」
「許してはいないんだと思うよ。褒める気もないと思う。でも、お前の愛情の深さは、間違いなく知っている。だからもう馬鹿をせぬように、しっかり見ているんだろう」
リネーネが言うと、ルースは震えるように息を吐き出した。きっと、兄に甘えて、甘やかしてもらえた弟だったのだろうな、と思うと微笑ましくなる。
「ここも、うまく収めてくれるさ」
「やっぱり僕って兄にとことん甘えてるんですね……」
「いいと思うよ」
リネーネはゆったりと頷く。
「パトリシアも、ランスも、お前のことを決して〝ルース〟とは呼ばない。弟、とか、あの子、とか。それは、お前を──お前自身だって失っていないという愛を伝えてるんだと思う」
「……はい」
バスケットに菓子を丁寧に入れるルースが、めずらしく小さな声で答えた。
リネーネは一つ菓子をつまみ、ルースの口元へ持っていく。
「ん」
「……なんですか?」
「愛でようと思って」
「慰めようとしてるなら、断るところでした」
そう言いながら、そっと噛む。
伏せたまつげが、なぜか知らぬ男に見える。
「僕は、リネーネ様の〝ルース〟ですからね」
「わかったわかった」
「でも、兄や姉さまの、弟でも……あろうと思います」
「うん」
「今日は逃げますが、母にも、ちゃんと話そうかと」
「そうだね」
「ということで、もう一つください」
催促され、一つ、口に運んでやると、ルースは安心しきったように笑った。
リネーネはルースの手をそっと掴んだ。
エミリアが悪戯をしたその指先に触れる。
「私に、なにか言うことは?」
「ありません」
「……」
「リネーネ様こそ、僕に言うことは?」
「ないよ」
「……」
同時に笑うと、リネーネはルースの身体を引き寄せた。
自分よりも少し大きな身体を、腕で包むように抱きしめる。
「馬鹿なことをしたら、許さない」
「こっちの台詞です」
ルースもそっと背に手を添える。
互いに何を考えているのか、不思議と理解し合えた。
何故かその向こうにいるエミリアのことまで、見えてくる。エミリアがこちらを見ているのが、わかる。
──どこまでも、あなたのために。
その、自分の望みのためだけに。
「行きましょうか」
夕暮れの一歩前に、窓から飛び立つ。
まるで、いたずらをしている子どものような気分で、バスケットを胸に抱く。
ああ、そうだった。
リネーネは眼下に一瞬だけ見えた受護協会に、記憶を揺さぶられる。
ずっとずっと昔、こうしてエミリアと何度も逃げ出した。一応大人たちを困らせぬよう、アルゼ山の山頂まで行って、景色を見渡して帰るだけ。遠くまでは行けなかったし、まだどこに行けばいいのかもわからなかった。それでも、嬉しかった。
「……」
今までどれほど想っても遠かったというのに、気持ち一つでこんなにも近くにいるように感じる。
それは、愚かな喜びに近かった。
ふと隣を見る。
視線に気づき、ちらりとリネーネを見るルースは、優しく微笑んでいた。
見えているのだ。
きっと、ルースにもエミリアの姿が。
ルースは、パトリシアの館に優しく着地した。
「僕が行きましょうか?」
「いや。私が書くように勧めたからね。受け取れないとパトリシアが言ったら、その時はお前がランスに送ってくれ」
「……それはそれで」
ルースが苦笑する。
その向こうで、門の奥の玄関の扉が開くのが見えた。パトリシアが走ってこちらへ向かってくる。
「リネーネ様!」
パトリシアは門を開けると、すぐにリネーネの腕に飛びついてきた。ふらついたリネーネの背を、ルースがさり気なく支え、持っていたバスケットまで引き受ける。リネーネをちらりと見る目は優しい。
「金の光が見えて、もしかして……と」
「パトリシア」
リネーネが親愛を込めて一度抱きしめ返すと、パトリシアはそっと身を離した。
「この間は、悪かったね。彼女は?」
「少しここで預かって……昨日、ここを出たばかりです。落ち着きましたから、心配はないかと」
「そう」
リネーネの素っ気なく聞こえる返事にも、パトリシアはやわらかに笑みを返す。
「今日はどうされたんです? 王都の方から来られましたよね?」
「ああ。グアルディ家に用があって」
「まあ……」
パトリシアに気遣わしげに見上げられたルースは、黙秘をしながらも肩をすくめて返した。
パトリシアはあっさりとルースが実家から逃げてきたことを見破ったようにくすくすと笑う。
「ランスが見逃がしてくれてね──パトリシア、これを」
リネーネは、バスケットに入っていた手紙を取り出す。
パトリアシアは一瞬きょとんとしていたが、淡い色合いの封筒を見た途端、その目にじわりと涙が浮かんだ。
誰からのものであるのか、理解したのだろう。
リネーネはその涙を見ぬよう、封筒に視線を落とした。
「受け取るか、受け取らないかは──」
震える指が、伸びてくる。
震える声が、落ちてくる。
「あ、ありがとうございま、す」
「……もし、返事を書くようなら、ルースが取りに来るから」
頷きながら封筒を抱きしめて泣き出すパトリシアを、リネーネはそっと抱きしめた。
「今も愛されている。それが支えになることを、祈っているよ」
愛が、彼女の希望であれるように。




