44. ランス
「他に話がないようなら、私はこれで」
ランスは礼儀正しく頭を下げると、席を立った。
「これ以上ここにいると、弟が脱走しかねないので」
「女性を一人で置いてくるような薄情なやつではないよ」
「そうですが、それ以上にあなたを置いておけるやつではないのですよ」
「……お前は、いいの?」
暗にパトリシアのことを尋ねれば、ランスは優しく目を細めた。
「どうにもならぬこともあります。リネーネ様」
「どうにかできることもあるよ、ランス」
リネーネはランスを見る。
「私も何もできないと思ってきた。だけど、何もできないと思うことで何もしなかっただけだったと、ルースに気づかせてらえてね。時間は短い。特に、加護を持つ者は」
「嫌なことを言いますね」
「お前が守っていることを、せめてパトリシアに知らせてやれ。手紙なら、簡単に飛ばせるだろう。私宛に書いていることにすればいい。誰も文句は言えまい」
「……」
「余計なお節介なら、聞かなくてもいいよ」
リネーネがひらりと手を振ると、ランスは「リネーネ様」とルースとよく似た声で呼んだ。
「私が彼女に接触することが、苦しみしか与えなくとも?」
あなたが一番よくわかっているのではないか、と言う目を、リネーネは静かに受け入れる。
「何が苦しみで何が幸せなのかは、パトリシアが決めることだ」
「……」
「また彼女の屋敷に顔を出す。預かろうか? 彼女が受け取らなかったときは──ルースに頼んで送り返すよ」
軽く言ったリネーネを見たランスは呆れたように笑い、何も言わずにルースの部屋を出ていった。
リネーネは見送ると、また窓の外を見る。
二人の姿は、もう見えなかった。
◯
「……おまたせしました」
ルースが戻ってきたのは、日が暮れ間近になってからだった。
憔悴と言わんばかりに疲れ切っている。
「愛想はどこにおいてきた?」
リネーネが菓子をつまみながら言うと、テーブルの上の様子に気づいたルースがぎょっとする。
「まさか……母が来ましたか?」
「来た。さっき」
ルースの母は、想像よりも可愛らしい人だった。
会ってすぐに「お会いしとうございました、リネーネ様」と柔らかに言われたときには、パトリシアはこの義母ときっと仲良くやってきたのだろう、とわかるほどで、彼女はにこにこと微笑みながらリネーネのために用意したという焼き菓子を準備してくれたのだ。
「お前は母親似なんだね」
「変なことを言ってませんでした?!」
「いいや? なぜかお前の父親との馴れ初めを聞かされた」
「……す、すみません」
「きっとお前のルーツを知ってほしかったんだろう」
──リネーネ様。私は、まだ見ぬ息子がいつかあなたの同行者になることを理解して嫁いできました。ですから、あの子達にも、覚悟ある人との婚姻を望んでいるのです。身勝手ですが、私はそう思える自分を許してしまえるのです。
「ふ。本当によく似ている」
「嫌な予感しかしないのですが」
「彼女は現実をよく知る聡い人だよ。素敵な人だ」
「……わかってます。正しいことを言っているっていうのは」
むっと顔を曇らせたルースは、ランスが座っていた席につくと、一つつまみ、食べる。
「正しいことが必要だってことも、わかってます。ただ、姉さまのときには、それがすごく嫌で」
「うん」
「母さん悲しんでいたことも知っていますけど」
「うん」
「でも、一度は守ろうとしてほしかったというか……うわ、僕かなり幼いですね……」
「当時は十代だろう。そんなものさ」
リネーネが言うと、ルースは懐かしむように菓子を見つめた。
「……お相手の方が、リネーネ様にいつかお会いしたい、と」
「かまわないよ」
「断りました」
ルースは焼き菓子を口へ運び、サクサクと咀嚼する。
「……ん?」
リネーネはその軽い返事に、思わず聞き返していた。
「私と会わせたくはない、ということ?」
「……」
「あー、あれか。私が納得する相手を連れてこいって前に言ったことなら、もう忘れて──」
「見合いを断りました」
食べ終えたルースが、あっさりと告げる。
「断りました」
「……でも、こんな時間まで話に花が咲いたのなら」
「母さんが安心して退席するのを待ってたんです」
「……私のところに来たときか……」
「そうみたいですね」
ルースは悪びれることなくにこりと笑った。
「ということで、帰りましょう」
「バレる前に?」
「そういうことです」
ルースが窓を開ける。
どうやら、窓から逃げるらしい。
リネーネが仕方なく立ち上がったところで、ルースの部屋の扉が開いた。ランスだった。
「窓から帰るつもりかな? 理由を説明してから帰ったらどうだい?」
「母さんは……?」
「まだ知らない。お相手の方を見送りしたことをいたく褒めていたよ」
「すみません。僕にはもったいない方でしたので。これにて帰らせていただきます。では」
「待て」
慌ててリネーネのそばに寄ったルースを、一言で押し留める。
そうして、小さなバスケットをルースに渡した。
「その菓子は、母さんがお前とリネーネ様のために焼いたものだよ。きちんと持って帰りなさい」
「……はい」
「それからリネーネ様。甘えさせていただいてもいいでしょうか」
ランスから差し出された手紙を、リネーネは丁寧に受け取る。
「わかった。パトリシアに届けるよ」
「ありがとうございます。では、これで」
ルースは手紙とバスケットを見ていたが、ランスに「気をつけて帰りなさい」と言われると、察したように「ありがとうございます」と兄へ向けて小さく頭を下げたのだった。




