39. ネヴァンス
摘んだ花をどうするのかと思えば、夜に小さな籠に入れ、ルースはリネーネの部屋に持ってきた。
暗い部屋の中で、薄っすらとルースの金色の髪の光が差し込む。
「枕元に置いたら、よく眠れるかと思いまして」
「……ありがとう」
「それから、これも。僕が集めたものの一つで申し訳ないんですけど、よかったら」
そう言ってルースが差し出してきたのは、手のひらに乗る小さなネヴァンスの人形だった。
小さな耳。
細く長い穂の先には、小さな鐘。
加護を遠ざけるとされる、少々目付きの悪い、それ。
「ええと……だめ、でした?」
リネーネが呆然とそれを見ていると、ルースは焦ったように引っ込めようとした。
その手を、反射的に取る。
「いや」
「……どうぞ。リネーネ様」
ネヴァンスは、街によって顔も、毛の色も、瞳の色も違う。
けれど、リネーネの持つ籠の上に優しく置かれたのは、青みのある白い毛に、青い瞳のネヴァンスだった。
「では、おやすみなさい」
「おやすみ」
かろうじて、それだけを返す。
なぜこれを選んだのか。そんなことを聞く必要も、なかった。
穏やかな瞳が、繰り返すように「おやすみなさい」と言ってドアを閉める。
リネーネはベッドの脇の丸椅子の上に籠をそっと置くと、ベッドにぼすんと倒れた。籠の花びらの中芯でちょこんと座るネヴァンスをじっと見つめる。
「……ふ。似てる」
エミリアに、似ている。
ふいに、ディア湖でエミリアとして初めて再会したときのことを思い出した。
無言で渡された幾人もの加護から、その記憶から、彼が何をしたのか理解したときは二度目の絶望を味わったが、生命が溢れるその中で、リネーネの心は震えていた。
悲しいほどに嬉しかった。
生きていた。
生きていてくれたのだ。
たとえ、髪の色が変わっていても。
たとえ、その目から澄んだ青が濁っていても。
たとえ、彼がおぞましいことをしてでも自分を生かそうとしていても。
生きていた。
会えた。
初めて受け入れるたくさんの加護に耐えるリネーネは、ただ見ていることしかできなかった。
まるで全てから見放されたように、陽の光が抜けてしまった銀色を纏って跳んでいく彼の姿を、縋るように見ていた。
「……」
ふと、奇妙な感覚になる。
記憶は確かにある。
想いも変わらずにある。
けれど、そこにずっと横たわっていた疼くような痛みがうっすらと消えていることに気づいた。
通り越したのだろうか。
リネーネはネヴァンスを見つめる。
許しを得たのだ。
エミリアを愛おしむことを、許された。
そんな感覚が、リネーネの中に広がっていく。
「……あの子はすごいね」
しんとした寝室で、リネーネは籠に手を伸ばす。
花びらをつまみ、ネヴァンスの頭へをちょこんと乗せた。
「私たちよりも、ずっとずっと大人だ」
ね、と笑いかけると、ネヴァンスの目が夜に溶けるように煌めく。
文句を言いたそうな目だった。
エミリアのことを「話す覚悟がない」とルースに打ち明けた夜──シエバの香りに包まれた夜は、居心地の悪さは消えなかった。けれど、今はそうではない。胸の中にしっかりと風が通り抜けていくように、遠くまで見渡せるようだった。
その先に、エミリアが立っている。
一人きりで。
ふと、理解できたような気がした。
一つだけ、できることがあるかもしれない。
「あの子に、手を出さないで。お前には私がいるだろう」
返事などない。
あるわけがない。
けれど、リネーネは祈るようにその目を見つめていた。
何もかもできないことばかりだ、と感じたあの夜の無力感は、今はもうない。
◯
「では、行きますね」
その声は、晴れた空とは正反対にどんよりと曇っている。
どう聞いても「はあ、いやだいやだ、行きたくない」という心の声が聞こえてくるようだった。
「……やめる?」
リネーネは聞く。
わざとではない。
ランスとの話し合いは、またどうにか頃合いを見て二人だけで話せるようにする──ことは簡単にはできないとわかっていても、それでも美しい金色の髪が顔に影を作るのを見ていると、申し訳ない気持ちのほうが大きくなっていた。
腰にそっと添えられていた手が、ピクリと動く。
「いえ。行きます」
「そんなに怖いのか」
「というより、そんなに大事な用事があるんだと」
「……」
「兄は無駄なことはしませんから。とても、忙しい人なので」
はああ、と息を吐いたルースは「姉さまが元気だってって言ったら、嫌な顔されますかね」と心配そうにリネーネを見た。
「私から話すよ」
「……」
「嫌そうな割には〝だめです〟って言わないんだな?」
「……だって、多分リネーネ様が言ってくれるのが、一番いいような気がしますし。でも、僕が必ずおそばにいます。常に。誰からもお守りします。グアルディ家は魔窟ではありませんが、心配ですので」
「ブレないね」
リネーネはくすりと笑う。
その横顔を見ていたルースは、意を決したように、軽く踏み込んだ。
「もしリネーネ様から離されるようなことがあれば……僕はまた反抗期に逆戻りするだろうなあ」
などと、呟きながら。




