36. 愛の種類
ルースは当時を思い出したように、しゅんと視線を下げた。
「帰ると家族全員に叱られました。兄には特に……その、泣かれてしまって」
リネーネは、一度だけ訪ねてきたランスの姿を思い浮かべた。
同じく金の髪を持ち、彼の祖父によく似た佇まいの真面目な青年だった。
歩いてきたという割には涼しい顔をしており、身なりも美しく、細身に見えてしっかりと鍛えているらしかった。その腕でルースにげんこつを落として「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」と手土産を持ってきたのには思わず笑ってしまったが、帰り際は「弟をお願いします」という言葉をリネーネにだけおいていった。
連れて帰る気はないらしかった。
結局、実の兄が諦めているように、どれだけ言ってもルースは家には戻らなかったのだ。
「……正直に言うと、同行者になるなんて簡単だ、って思ってたんです」
「……ん?」
「わかってます、すごく大変でした!」
ルースが昔の自分を思い出したように本で顔を隠す。
金の粒子の制御も、さざなみを影に伸ばす精度も、座標の固定も。
できないとわかってからは、よく二人で庭で練習をした。
今までの者たちはすでに制御に慣れていたが、ルースは生まれたても同然だった。だというのに、それがエミリアの銀の加護を相殺できるまでになったのだ。
「感慨深いね」
「はい……今思えば、無知で無謀な自信で突っ走ってきたんだな、と。リネーネ様が気長に待ってくださったおかげです」
「そんなことない。お前の成長だよ」
初めて死者を見たときは、その美しい顔に純粋な畏れがあった。
リネーネを、正しく恐れていた。
クェンロの出来事も、受け止めた。
繰り返すうちに畏れに慣れてきたけれど、それでも慣れてはならない部分は、本能的に察知していたように思う。今も、だ。
「僕は、大抵の人とうまくやっていけるし、嫌いになることもないし、リネーネ様と会えたときの感動を忘れずにいれば、うまくやっていける、と思っていました。でも、初めて加護の解放を見た日の夜──自分がどれだけ傲慢で、リネーネ様がどれほど長い時間の中で自らを賭して生きてきたのかを知ったんです」
ルースが呟く。
「兄さんのため。姉さんのため。そんな気持ちも、確かにあったんです。でも、リネーネ様が僕の気持ちを僕のものだと決めてくれてから、僕は自分がどうしたいのかを考えるようになりました。リネーネ様と、一緒にいたい。それだけでした。十七歳の頃から、それだけなんです」
その言葉は、淡々とルースの内側からこぼれ出るようだった。
熱烈な愛の言葉ではない。依存に苦しむ言葉でもない。葛藤など、一滴も滲んでいない。
それがルースの純然たる真実と知るには、十分だった。
「ね? 身勝手でしょう?」
聞かれ、リネーネは笑う。
「身勝手なら、一対であると知ったら、この家を出ていたと思うよ」
「なんでですか?」
「普通、怖いだろう。人の怪我が自分の怪我となるなど」
「……んー」
いまいちピンときていない、という声で、ルースは庭の縁で揺れる小さな花を見つめた。
風に、水色の花がゆっくりと身を預けている。
「確かに、そうかもしれませんね。でも、僕は〝ルース〟を名乗ったあのときに〝リネーネ様のルース〟になった、っていう気持ちだったので……あまり怖いという感覚はないのかもしれません。知ったのも遅かったですし、そうなんだあ、って」
のびのびと語られる「そうなんだあ」に、リネーネはもう笑うしかなかった。
どんなに生命を握った戒めの気持ちを持とうとも、当の本人は全く悲観していないどころか、驚くほどにそのままを受け入れている。一人で彼の未来を慮るなど、ある種の傲慢のようにすら思えるほどに。
「……」
そういえば、靴を履いてほしいと言われたのはルースが来てすぐのことだった。
ルースは知らずに、ただ単にリネーネが怪我をせぬように心配して言っていたのだ。
加護に生かされる者ではなく、一人の人として、気遣ってくれた。
なんと健やかな、あたたかな心なのだろう。
なんと強い、愛に怯えぬ心なのだろう。
「きっと、お前はどこまでも光に愛されているんだね」
「うーん。そこはリネーネ様がいいです」
「お前、私に愛されたいの?」
驚いて聞けば、ルースはきょとんとした顔でリネーネを見た。
「それは、はい。もちろん」
「どういう意味で?」
「そばにおいてもらえれば、それで」
本当に、それ以上に何かを求めているわけではない、という、無垢な顔だった。
「そうなのか」
としか言いようがない。
リネーネが手持ち無沙汰に冷めたスープを飲むと、ルースはなぜか機嫌よく微笑んだ。
「はい。僕はなんというか……女性としての愛情を僕に注いでほしい、というわけではなく」
「うん。なんとなくわかった」
「いえ、多分わかってないです」
あっさりと話題を流すことを阻まれる。
リネーネはとりあえず黙った。たぶん、余計な抵抗をすれば違う方向で丸め込まれる気がする。
「僕は〝ルース〟として、リネーネ様という存在に、愛されたいんです。というか、想われていたいんです。僕も、そうでありたい」
「……」
「親でも子でもなく、男と女でもなく」
「お前という存在を、私という存在で?」
「はい。それが、僕にとっては幸せなことなのだと、気づけたんです」
気づけた。
その言葉の意味を、リネーネは触れぬように沈める。
「人として、か」
リネーネは呟く。
ルースは「そうです」とにこっと無邪気に笑った。
あなたにはエミリアがいるから。
そんな心が見えるような気がしたけれど、リネーネは思う。
きっと、人とし想うことは、もっとずっと深くて──
「……お前ね、それ結構大きなこと言ってるよ」
「ですかね!」
笑い飛ばしたルースは、リネーネが笑ったことにほっとしているように、優しげに微笑んでいた。




