35. 名前
震える文字の隅々に、老いた彼の若い感情が走っているように見えた。
丁寧に、丁寧に、この日の出来事を思い起こすように、綴ってくれたのかもしれない。
リネーネは知らなかった。
彼の心が、こんなにも瑞々しかったなど、知りようもなかった。
リネーネは優しく本を閉じ、別れを伝えるように、指先で表紙を慈しむように触れる。
「返すよ。私のことを書いているのは……ここだけだろうしね」
「どうしてわかるんですか?」
「なんとなく。お前だって、全部は読んでいないだろう?」
「……はい」
リネーネが丁寧に返した本を、ルースは同じように受けとった。
「多分、祖父の思い出を書き残したものなんだと思います。次のページを開いたら、僕のことを。生まれたばかりの時のことですけど……ものすごく恥ずかしくなって、それ以上は読んでいません」
ルースが照れるほどだと言うのなら、相当に「かわいい、かわいい」と書き記されているのかもしれない。
「文字ではかなり素直なんだな?」
「びっくりしました。見ちゃいけなかったなって。でも」
嬉しくて、と本を撫でる。
「僕は、これを読んで、リネーネ様に会いに行けました。王都から逃げるように出たところで一人でうろうろとしていたら、旅人の方たちが助けてくれて。長時間歩いたこともないし、野宿をしたこともない。そんな僕をつれて森を歩き、みんなが食料を分けてくれて、アルゼ山を超えるときも助けてくれました。僕があまりにもディア湖に行くと必死だから、放っておいたら野垂れ死ぬ、と思われていたんでしょう」
ルースは思い出すようにくすくすと笑う。
「足も、背中も……もう全身痛くて。何やってるんだろう、って半泣きで。そのたびにこの本をぎゅうぎゅう抱きしめて。すごく迷惑をかけたのに、みんな励ましてくれて……そんなぼろぼろの状態で、ディア湖を見たとき」
あの、宝石が埋まったような湖面の輝きを見たとき。
「僕は、ここに来たかったんだ、と全身が喜ぶのを感じました」
今にもその時の感動に身を委ねるように、ルースはそっと目を閉じる。
リネーネは、その横顔を静かに見つめた。
加護を持つ者は、ディア湖に向かってやってくる。
こちらへ向かうと決めたと同時に、加護は少年に宿っていたのかもしれない。彼の祖父から離れて、感情を高ぶらせたのかもしれない。そう思うリネーネに、穏やかな声が微笑む。
「リネーネ様に会えるんだと思うと、嬉しくてたまらなかった」
ルースは大切な思い出を掬うように、ゆっくりと目を開いた。
「きっと、会えたときには日記にあるように名前を聞いてもらえる。そのときに、ルース、と名乗るんだ、って、楽しみにしていたんです」
「……あれは、覚悟を問うてるだけだよ」
新たな〝ルース〟に「本来の人生を奪わないし、関与しない」と、牽制するようなものだ。
でなければ、生命を掴むなどできなかった。
「私は卑怯だから」
夜の中でも冴えた青い目が、リネーネを不思議そうに見つめる。
「そうですか? 僕は、〝僕というルース〟を受け入れるために、名前を聞いてくれるんだって思いました。〝ルース〟は連続するただの記号じゃない、って。祖父に別れを告げ、僕に、誠実に向き合ってくれようとしてるんだ、って。少なくとも、祖父はそう思っていたんだろうし、僕も思いました。優しい人なんだな、って」
真正面から言われたリネーネが「そんな大層なことではないよ」と否定する前に、ルースはいたずらっぽく笑った。
「まあ、希望に満ちてても、そのあとが大変だったんですが。一度ディア湖の橋を渡りきって、赤い帽子を被って、また橋を渡って、アルゼ山を登って、またディア湖へ。ぼろぼろのへとへとに、追い打ちです」
「それは……すまない」
「あと、わりとすぐバレたことも思い出です」
リネーネは、ぼんやりとルースを見ていた視線を逸らし、穏やかに目を細めた。
「そういえば、そうだったね」
ディア湖の橋に立つルースの姿は、すぐに彼の祖父を思い出すほどによく似ていた。ほんの少しの感傷の中、疑問を持たずに加護を定着させた、その後のことだ。
少年は高台の家についてくると言い、それから四日、帰らなかった。
まだ幼いから制御して帰れないのだろう、と思っていたが、帰る素振りは全くない。ある日、とうとうリネーネはルースに「帰れ」と短く言い渡した。すぐに「嫌です」と返されて、口論になったのだ。
帰れ。
嫌です。
帰れ。
嫌です。
なんでだ、とリネーネが聞くと、草むしりをしていたルースが、ムッと見上げて言ったのだ。
──家出してきたんです!
「お前、なんでか怒ってたな……」
「違いますよ。恥ずかしかったんです」
「……」
「恥ずかしかったんです」
「わかったよ」
ルースから家出の経緯を聞いたリネーネは、ようやく目の前のルースが「後継者」ではなかったことに気づいた。
そうして思い当たる。道理で、加護の扱いが致命的に不器用なはずだ、と。
当然、リネーネは頭を抱えた。
ランスから「愚弟がそこにいるなら、すぐに帰るように伝えてください」と書かれた手紙が届き、慌てたルースがようやく家を離れたのが一週間後。
ルースがふらふらと慣れていない中で跳びながら帰る姿を、リネーネは額に手を当てて見送ったのだった。
戻ってこないと思っていたルースが「勘当されました」と戻ってきたときもまた、頭を抱えるはめになるのだが。




