34. 日記
ルースの声は、穏やかだった。
「僕は、祖父のことをあまり知りません」
本の表紙を、ルースは撫でる。
「受護協会にいて、加護を持つ人たちと話をするという仕事があったのもそうですが……本当に自分の話をしない人でした。生きるために自分を抑える必要のある人たちに関わっていると、もしかしたら自分の考えを持つことが危険だという考えになったのかもしれません。兄も、似たようなところがありますし。祖母は深く理解しているようでした。だから僕は何も怖くなかった」
リネーネの知る、どの〝ルース〟たちも似たようなところがあった。その身は受護協会にあり、時折リネーネとともに死者を見つける見回りも、職務の一つと割り切っていた。
「兄が、手紙ならば扱える加護に似た力を持っていたこともあって、大きな期待のない僕は、ただの次男坊として甘やかされてきました」
「……」
「笑いました?」
「ごめん」
「まあ……だからか、広く興味はあるけど、いつでも手が届くという無謀な安心感みたいなものがあって、何に対しても本気で取り組むことはなかったと思います」
リネーネの脳裏に、パトリシアの言葉が過る。
──何に対しても肯定的な子だったんです。でも、そのせいか広く浅く何でも愛せてしまえるのか……どこか孤独感を持っていたようでもありました。
「本当のことを言うと、同行者になりたくてたまらなかったわけじゃないんです」
ルースの声がひとつ低くなる。
リネーネは冷めかけたスープを一口飲み、バスケットの中で揺れるキャンドルの光を見て「うん」とだけ返事をする。
「……僕は、兄からその役目を奪いました。でも、理由があって」
「うん」
「姉さまが加護を授かり、家から出ていくことが決まって──それで、衝動的に飛び出したんです」
「……なるほどな。二人のため、か」
「はい」
察したリネーネに、ルースは力なく笑み、俯いた。
「祖父は寝込むことが増えていた頃で、兄を守ることはできませんでした。もし、元気であったら、どうにか家族を説得できたかもしれません。同行者としても、受護協会の者としても──〝グアルディ家に加護持ちがいたとしても、立場は何ら変わらない〟と証明できるほどの立場があった。でも、その生命は尽きかけていました」
受護協会は、加護を持つ者を保護するという。
が、実際は管理していることをリネーネは知っている。彼らの許可がなければ施設からは出られないし、定期的な連絡も義務付けられている。それを怠れば、リネーネ自身が遣わされるからだ。
それほどに「管理された者」が、「管理する者の妻」であるという事実は、到底許されるものではない。
きっと、ルースの祖父がいようと、パトリシアが婚家を追い出されるのは時間の問題だっただろう、とリネーネは思う。あれは情が深かったが、同じくらいに物事を整然と見つめる目を持っていた。
「僕は、姉さまが家を出ていくのを止めることができなかった。みんなが悲しんでいたからです。父も母も祖母も、姉さまに向かって申し訳ない、と。誰も、姉さまを追い出す気なんてなかった。でも、力にもなれなかった」
「……それで、家を?」
「はい」
ルースは安堵したように息を吐く。
胸に詰まっていた苦しみを吐き出すように。
「兄は独り身となる。だとしたら、次の同行者として、再婚を迫られる。そう思いました。誰も望んでいないのに。姉さまは昔から家族だったのに。兄は、姉さまを愛しているのに、他の人と一緒になるなんて……」
そう言いかけて、ルースは一度黙った。
「ですから、僕がなればいいんだ、と」
「……」
「僕が同行者になれば、兄は再婚からは逃げ切れるでしょう。加護に似た力も扱える。僕が役目を奪っても、蔑ろにされることなどない。そう思って、祖父のもとへ行って頼もうとしたのですが、もう、何も反応しないほど弱っていました。けど、枕元にこの本が」
ルースは小さな本を、愛おしそうに撫でる。
「日記です。あの祖父が、それはもう饒舌に、リネーネ様と初めて会えたときの感動を綴ってありました。それを読んだから、僕はここまで来れたんです」
ルースがリネーネからスープカップを取り上げ、代わりに本を渡す。
「最初のページを」
リネーネは、本をそっと開いた。
『僕があの人と出会ったのは、陽の季節のことでした。
祖父から言われた通り、赤い帽子を被って、一人でディア湖を渡り、アルゼ山に登って、またディア湖に戻る。なぜ時間をかけて、足を痛めながらこんなことをするのだろう、と思っていたのですが、すべて見渡せる高台の小さな家で、あの人は見ていたそうです。
赤い帽子が、くるくるくるくる動いているのを、眺めていたそうです。
それを語ってくれたとき、僕は、あの人らしいなあ、としか思えませんでした。
ディア湖に戻ったときのことを、僕は一生忘れられません。
あの人は橋の真ん中に立っていた。
肌を一切出さない黒い服。なびく大きな裾。昔、母が読んでくれた「死神の花畑」に出てくる死神の姿そのものだったのです。
肩の上でパラパラと揺れる黒い髪。
白い横顔。
宝石を思わせる紫色の瞳が、鈍く輝く。
少年だろうか、と思ったのは一瞬だけで、あの人は「お前、若返ったね」と、優しく声をかけてくれました。
僕が「祖父の代わりを務めることになった」と言うと、彼女はわかっていたのか、少しだけ遠くを見て祖父を見送るように慈しんでから「そうか」とだけ言いました。そうして目を閉じて、祖父の名を呼び、僕を再び見て「お前の名前は?」と聞いてくれたのです。嬉しかった──』




