32. 再会の余韻
岬に戻り、夕暮れに紛れるように、灯台の後ろからそっと跳躍する。
リネーネの胸には、しっかりと帽子が抱かれていた。
溶け合う景色の中で、来た道を戻る。
山々の上を、川のそばを、王都ウシュラリエの受護協会を──パトリシアの館を。
ディア湖が見えてくると、リネーネはほっとする自分に気づいた。
見慣れた煉瓦の道、石造りの灰色の建物、緑の屋根。高台にぽつんとある自分の家を見て「ああ、帰ってこれた」と安堵が押し寄せる。
腰に添えられたルースの手も、同じようにやわらぐ。
庭に着地すると、ルースはリネーネの顔を見て微笑んだ。
「僕、先に入って窓を開けておきますね。なにか食べれそうですか?」
「少しなら」
「適当に用意して、できたら持ってきます。外で食べましょう」
「ああ。ありがとう」
無垢に笑ったルースは、リネーネを家の前の庭に一人にし、家へ入っていった。
街が見下ろせる木のベンチに、ゆっくりと腰を下ろす。
夕暮れの町並みは、緑色の屋根にオレンジ色の光がそっと手を伸ばし、夜の気配を連れてきていた。空に薄っすらと深い色が広がっていくのを見ていると、心が凪いでいく気がする。
それが通り過ぎ、空に星の光がぽっと現れると、その銀色の光を見たリネーネの瞳は、うっすらと濡れていった。
感情が、小さく滲み出す。
「……」
会えた。
抱きしめることができたのは、どれくらいぶりだったろう。
抱きしめ返されたのは、いつぶりだっただろう。
相変わらずの憎まれ口で、相変わらず信じてもらえはしなかった。
けれど、リネーネは知っている。
加護を受け入れる苦痛を、知っている。
加護を限界まで貯めることが──それをエネルギーに変換する必要のないエミリアにとってどんな痛みを伴うのか、考えなくともわかった。
それでもずっと、ずっと、どんなに「やめろ」と言っても、再びやって来る。
情報屋のフリをして、会う場所を伝えに来る。
次は、数年後になるだろう。
数年間、エミリアは加護を要らぬという人間を探し、そしてその加護を踏み続ける。たった一人で。
いつまで正気でいられるだろう、とリネーネは思う。
自分は、いつまで。
エミリアも、いつまで。
空が藍色に染まっていく。
いつ、想いが復讐に傾く事が起きるかわからない。
自分が。エミリアが。
何かの瞬間に間違えれば、きっと王都など塵にしたくなるに決まっている。
そんなギリギリの攻防は、すぐに終わらせなくてはならないことも、わかっている。
それでも、この空の先にエミリアがいるのだと思うと、心はじわりと満たされた。寂しさを超えた喜びが、ずっと横たわっている。どうしようもなく、それを大切にしたいという気持ちがただ湧いて、尽きない。
リネーネは思い出す。
愛している、と言ったときの、エミリアの反応を。
その目がほんの少し変わったのを。
ルースから離れろ、と言うその顔は、悲しみに満ちていた。
──ずっとあなたを愛してる。
その言葉を反芻しただけで、リネーネの感情は溢れていた。
何かが繋がって離れない。これが純粋な愛によるものなのか、もうわからない。
ただただリネーネの全てが彼のためにあり、彼のすべてがリネーネのためにあった。
愛情、と言うには、もはや生ぬるい。
一生離れることができない。
離れたくない。
そういう想いしか、残らない。
リネーネは胸の帽子を抱きしめた。
「ルーシャス」
彼の名前を呼ぶ。
彼が自分の名前を名乗りながら苦痛の波から一切出られないというのに、ただただ愛しているという感情だけがリネーネの身体の中に広がっていく。
どうしようもないけれど、どうにもできなかった。
「リネーネ様。少し食べませんか?」
夜がすっかり訪れてから、ルースは後ろからそっと声をかけてきた。
リネーネの感情が落ち着いた頃で、きっと見計らっていたのだろう、とリネーネは前を見たまま頷く。
「ごめん。一人にしてくれてありがとう」
「なんのことですか?」
「……わかりやすくすっとぼけたな」
「気持ちの整理っていうのは、多分一人じゃないとつけられないですもんね」
ルースがベンチの隣りに座り、リネーネと自分の間にバスケットを置く。
中にはスープカップと、小さな本、火が灯ったキャンドルと──何故か庭の花まで添えられている。
「それから、これも」
と、リネーネの膝にブランケットを掛ける。
「……」
「なんですかその微妙な顔は」
「お前は本当にすごいな、と思ってね」
「素直に嬉しい、って言ってくれてもいいんですよ」
そう言いながら、スープカップをリネーネに渡した。
細かく刻まれた野菜はくたくたに煮込まれている。
そっと口をつければ、優しい甘みが腹まで落ちていった。
リネーネはスープを飲みながら、思う。
あんなふうに気持ちが溢れたのが久しぶりだったが、それはきっと、ルースがいてくれたからなのだ。
深い安堵の中で、エミリアを想う。
それがどれほど罪深く、許されず、ルースを蔑ろにすることだったとしても、今まで抑圧してきたリネーネの気持ちは、今までにないほど深く安定していた。
きっと、謝ってはいけない。
リネーネはスープカップで手のひらであたためながら、小さく呟いた。
「ありがとう」
「いえいえ。我慢は良くないですしねえ」
ルースがいつもと変わらぬ声で言う。
「リネーネ様の気持ちは、リネーネ様のものです。大切にしてください。僕も、僕の気持ちを大切にします。それは、悪いことではないでしょう?」
「……そうだね」
「それに、リネーネ様が教えてくれたんですよ」
「え?」
「僕が初めて加護の解放を見た日の夜です。覚えていますか?」




