30. それでも
「泣いてなどない」
リネーネがそっけなく言いながら顔を伏せると、ルースは繋いでいない左手をそっと伸ばした。
帽子のつばをくいっと引いて、リネーネの顔を隠す。
「はい。泣いてないですね」
「……」
「目が少し潤んだだけです」
「……お前、すごいね」
「褒められてます?」
ルースが控えめに笑う声が、心地良い。
感情の波に飲まれそうだったリネーネの遠い記憶が、次第に落ち着いていく。
ああ。ようやくわかった。
リネーネは理解する。
これが恐ろしかったのだ、と。
許されることが、怖かった。
「……リネーネ様。知っていたり知らなかったり、それが安心したり不安だったり……そういう関係があってもいいんじゃないかなって、僕は思うんです。リネーネ様が話したいときに話して、僕が気になったときは、僕から聞く。どうですか? だめですかね?」
「だめじゃない」
リネーネは即答していた。
剥き出しの心だけが反応する。
ルースの優しさに。ルースのあたたかさに。
「お前ね、怖いよ」
リネーネはぽつりとこぼした。
あまりにも素直な響きに、ルースはくすくすと笑う。
「すみません。怖がらせないつもりなんですけど」
「私に座標を固定するな」
「あー……それはごめんなさい」
「やめる気ないね」
「はい。ありません」
「怖いよ」
「はい」
「優しすぎて、怖いよ」
「……はい、リネーネ様」
それでも、そばにます。
そう呟くルースの声は、リネーネの知らない慈愛深い声だった。
子をあやすように、手をゆらゆらと揺らされる。
「リネーネ様、他に話したいことはありますか?」
「……わからない」
「では、靴を買いに行きましょう。それが終わったら、家に帰りましょうね。僕らの家に」
「あれは私の家だが」
「一緒に、帰りましょうね」
それが答えだと言わんばかりの声に、リネーネはうつむいていた視線を上げる。帽子のつばをそっと上げれば、ルースは海のずっと向こうを見つめていた。不安や躊躇いのない凛とした青い目は、全てを慈しむような光で満ちている。
エミリアと会う前とは、何かが違う目だった。
リネーネの視線に気づいているのか、ルースは海を見つめたまま柔らかく微笑む。
「あの人は、あなたのために自分を捧げている。けれど、僕はそうはしません。僕は、あなたのために、僕の人生を生きる。そう決めました」
何を、聞いていたのだろう。
いつから、見ていたのだろう。
聞くことができないリネーネを、ルースは眩しそうに目を細め、慈しむ。
「怖がりなリネーネ様を、僕は怖がらせません」
「……」
「……座標の固定は、見逃してください」
今度はいつものように無邪気に笑ったルースの手を、リネーネは少しだけ握り返した。
よく知った子どもっぽい笑みが、さらに弾ける。
リネーネも笑う。
少し諦めたように、そして委ねるように、何よりも恐怖を乗り越えたように。
何が正しいのかはわからない。
間違っているのかもしれない。
ルースの手を握り返すことは、また後悔することの一つになるのかもしれない。
それでも、今、リネーネはそうしたかった。
二人で、街へ歩き出す。
潮騒がリネーネの背を追う。
その中に、ルーシャスが「卑怯だね」と囁く声が混じっているような気がした。
コーファ港は、海の上の出来事など誰一人見ていなかったように賑わっていた。
港に船が着き、男たちが荷運びをする。
海鳥が日差しをキラリと遮る光景は、尊いほどの日常だった。
「変わった様子はないですね」
ルースはほっとしたように言い、リネーネも頷く。
「遠くだったからだろうね」
「……あの人って、結局他の人に危害を加える気はないんですか?」
まるで知り合いのように軽くエミリアの話題を振ってきたルースに、リネーネもそのまま返す。
「ないよ」
「僕が初めて見た以前の解放のときは……かなり派手でしたよ」
「お前を牽制したかったんだと思う」
「嫉妬深い人ですね」
「ふ」
あまりにも普通に話すルースに思わず笑うと、握ったままだった手が、ふらりと揺らされた。
「──多分ですけど、触れないようにするほうが、変なんです。意識しすぎると良くないですよ。こうやって普通に話して、あの人なんて親戚のおじさんくらいになればいいんです」
「……すごいな」
「実際そうでしょう? 僕にとっては遠い親戚だし」
けろりと言うルースは「遠いっていうか、先祖……?」と首を傾げてしまった。
「ふ。あはは!」
たまらなくなって声を上げて笑うリネーネを、ルースは穏やかに見つめ、一緒に笑う。
そうして、やらかに手を引き、リネーネを日常につれていくように、優しく歩き出したのだった。




