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29. エミリア③




 輝きながらうねる海を見たリネーネは、思い出すように目を伏せた。



「彼は首から血を流しながら、私の願いを聞き入れて、その場から離れたんだ。逃げてくれた」


 周囲は動くことはなかった。リネーネが悲痛に叫ぶものだから、どちらかが加護を使うかもしれないと警戒したのだ。

 彼は首を押さえ、跳ぼうとしたけれど跳べず、よろりと走って逃げていく。その様子を見た、誰かが言う。


 ──加護を使えぬのなら、生きてはおれまい。


 笑みと安堵が込められた言葉を聞いた瞬間、リネーネは絶望に落とされた。

 床に残される血。

 髪を振り乱してぼろぼろになって這いつくばったリネーネの頭に、衝動がよぎる。

 この世界が全て悪いのだ、と恨みそうな感情が膨れそうになる寸前で、リネーネは頭を床に打ち付けた。石畳に、額を押し付ける。何度も、何度も。何も考えないように。衝動を抑えるように。


 おかしくなってしまったと思われたのだろう。事実そうだったが、気味悪がった周囲がリネーネを止めることはなかった。

 叫びながら頭を打ち付け、泣き続けるリネーネ止めたのは、たった一人。


「彼の弟。兄の最後を、一族を代表して見届けるように言われてきていたんだって。彼は優しい心根の素直な、彼によく似た子でね。なのに、私は一人になるのが怖くて、その腕にすがりついて叫んでしまった」


 一人にしないで、と。


「金色の加護が降り注いだのはその直後だった。きらきらと降ってくる──私は咄嗟に離れて、無我夢中で転がっていた剣を手に取って、先に私の命を終わらせようとしたんだ。だけど、これも結局、間に合わなかった」


 リネーネが剣身を握って引き寄せた途端に、背後で痛みに耐える声が聞こえてきた。

 振り返ると、右の手のひらが剣を掴んだように深く切れ、血が流れ出していた。

 リネーネが「一人にしないで」と叫んだのと同じように、その幼い顔が絶望に染まる。

 一人にできるわけがなかった。

 彼の後を追いたくても、リネーネが死を選べば、彼が大切に思っていた弟まで殺すことになる。

 リネーネの震える手は、剣を手放していた。

 これからこの子に何が起こるのかを思えば、そばにいなければ、と思ったのだ。



「あの子には、新しい名前が与えられた。まるで私に、忘れるな、と言わんばかりの……彼の愛称だった名前。それが、同行者としての〝ルース〟の始まり」



 その名前は、長いことリネーネに杭として刺さっている。

 愛しい者の愛称は、自分の罪を見つめる名前となった。もう二度と彼をその名前で呼べないことが、悲しくてたまらなかった。


 加護を失えば、死ぬ。

 ならば死んだのだ。

 加護は〝ルース〟に向かったのだから、彼は死んでしまったのだ。


「けれど、何も考えぬように数年が過ぎたあるとき──妙な噂が流れ始める」


 銀の光をまとった者が現れて、苦しみから解放してくれる。

 病で臥せる者が、幸福に満ちた顔で消えていく。

 名は、エミリア。


「彼だ、と思った。私だけではない。受護協会もだ。彼が生きていて、何らかの加護をさらに授かって、私たちに復讐している──そう結論づけた。そうじゃないのに」


 彼だとわかっても、捕まえることはできない。

 リネーネが協会から出ることが許されたのは、餌として撒かれたようなものだったが、長い間監視役であった〝ルース〟の誰かが相対したことはなかった。エミリアとなった青年が、誰のためにしているのかなど、知る由もない。


「私は言わなかった。私自身の反作用も、彼がなんのためにしているのかも。ただ──彼の愛情を独り占めしたかった」


 誰にも言いたくなかった。

 それを唯一知っていることで、離れていても満たされようとした。

 間違っているとわかっていても、誰にも二人だけの真実を明かしたくはなかった。

 

「この長い間に、何度も思ってきた──私が、あいつを殺していれば……私が、死を選べていたら」


 リネーネの手を取ったままのルース手に、わずかに力がこもる。


「でもね、後悔できないんだよ。私はあいつを失う真似ができない。あいつが、私のために加護を集めるのをやめないように、無理なんだ」


 孤独の恐怖に耐えるべきだった、とわかっている。

 あのとき、跪かされた彼は、明らかに覚悟を決めていた。

 生者から命を奪った暴挙を、リネーネになじられ、軽蔑され、加護を踏まれることを、甘んじて受け入れようとしていた。

 けれど、気づいてしまった。

 その愛に気づいてしまった。


「すべてが私のせいなんだ」

「……リネーネ様」

「お前達〝ルース〟も、あいつも、こんなに長い時間苦しまずに済んだのに、後悔一つできない。自分がおぞましいよ」

「リネーネ様」


 ルースが向き合い、リネーネをまっすぐ青い目に映した。

 その冴えた青に、何一つ翳りはない。

 リネーネが戸惑うほどに、どこまでも澄んでいた。


「僕は、リネーネ様に出会えて嬉しいです」

「……」

「今までのすべてが、幸せです」

「それは」


 リネーネの掠れた声に、波の音が重なる。


「それは、お前は何も知らなかったからだよ」

「んー、そうですかね?」


 穏やかに首を傾げるルースに、リネーネは面食らう。

 それを、ルースはいつものように見つめて笑った。


「僕、言いましたよね。〝僕は、自分がしたいことをして、自分のために生きています〟って」

 

 ルースの言葉を届けるように、風が一瞬止む。

 リネーネは、ルースから目を離すことができなかった。ただただ、その青さが心のなかに広がり、晴れ渡っていく。


「リネーネ様。僕は図太いし、自分勝手なんです。だから、過去に何があろうと、自分がどんな存在であろうと、何にも傷つきません。大丈夫です。怖がらないでください」


 そう言って、ルースは握っていた手を、優しく、揺らす。



「だから、泣かないで」







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