25. 懇願
その光景は、遠くから見れば奇跡のように美しかった。
空からは銀の光が、海からは紫色の光が、手を伸ばし合うように伸びていく。
けれど、空から降るのは光ではなく──加護だった。
エミリアの足元に描かれた菱形から、微笑みを浮かべる人間の残像がいくつも、いくつも、リネーネを抱きしめんと落ちてくる。ともすれば恐怖を感じるほどの圧倒的な量だった。
リネーネはその奥にいるエミリアを睨もうとするが、姿は見えない。
去ってはいないだろうが、聞き入れる気は微塵もないのだ。
リネーネはいつもは制御しているそれを、全開になるよう、大きく上へ伸ばす。
同等の大きさまで広げた菱形が向き合い、エミリアを捕まえようとするが、光は月光のように混ざるだけだった。
「そうやって、聞かぬふりをするのはやめろ!」
リネーネが叫んでも、微笑みの加護は落ちてくる。
「私はもうこれ以上──!」
決定的な一言を言おうとした瞬間、指の美しい女の加護がするりとリネーネの口を塞いだ──かと思うと、リネーネの身体に薄っすらと重なる。
そうしてサラサラと消え、足元の菱形の沼の奥へ、銀の粒子となって落ちていった。
──エミリア様。わたし、もうこの世で生きていく力がありません。
女の声がリネーネの中に広がる。
その重々しい絶望的な悲しみにリネーネが歯を食いしばった途端、他の加護たちがリネーネに絡みついた。雨に振られたように、リネーネの全身に銀の粒子が響く。
──エミリア様。
──私は衝動が抑えられていますか?
──エミリア様。
──解放されたいと思うのは、罪ですか?
──エミリア様。
──ただただ真っ直ぐに、何かを喜びたい。
──エミリア様。
──怯えない毎日が欲しいのです。
──エミリア様。
──助けてください。
「!」
様々な記憶が蔓となり、リネーネの内側を這い、締め付け、裂くようにまとわりつく。
その隙間から、何かがじわりじわりと染み込んでいく。声ではない何かまで、身体に刻み込まれていく。
リネーネは俯き、手を握り込んだ。
心臓が、細胞が、筋肉が、命で急激に満ちていく。
沸き立つ。
望まずとも、震える。
浅ましいほどに、漲る。
「……はあ、はあっ」
リネーネは、詰めていた息を吐き出した。
額には汗が浮かんでいる。
それは、安堵だった。
終わった。
加護を全て回収できた。まだ、やれた。どこにも被害をもたらすことはなく。ならば──
選べ。
リネーネは自分に言い聞かせる。
今なら、できるかもしれない。
選べ。
もう一度、あのときにできなかった選択を──
「──まだだよ、リネーネ」
隙をつく優しい声に弾かれたように顔を上げれば、空には銀色の微笑みが埋め尽くしていた。
リネーネを見た彼らが、急速に落ちてくる。
「!」
リネーネの瞳が揺れた。
悲しみか、怒りか、自分でもわからない何かで大きく揺さぶられる。
エミリアの意図がはっきりと伝わってくる。
何をしたいのかが。
「やめろ」
「俺が、あなたを殺すと思うの?」
銀に光る人々遠くから、悲しげな声がはっきりと届いた。
リネーネは自分に届こうとする加護に歯を食いしばりながら、空を睨む。
その向こうにいる、エミリアを。
「ねえ、リネーネ」
無垢な声が、問いかける。
「俺は、彼らを助けているだけだよ。死ぬまで苦しみの中で這って生きろというのが、優しさなの?」
「エミリア」
「どうせ彼らは加護に消耗して、尽きる。絶望しながら息絶えるより、安心を与えられれば、少なくとも苦しみに喘ぐことはない。死にたくない人から無理やり奪ってもない。命を無駄なく循環させてるだけだよ。どの世界だって、そうだろう?」
「じゃあ、私にもそうしてくれ」
数秒の沈黙が落ちる。
「どうせ私も加護に消耗して、尽きる。絶望しながら息絶えるより、お前に安心を与えてほしい。もうなにもしなくていい。静かに終わらせてほしいんだ。頼むから、死ぬまで苦しみの中で這う真似をさせてくれるな」
降り注ぐ加護の動きが、鈍る。
エミリアの感情が、ひどく揺らいでいるのだ。
けれどそれは、一瞬だけだった。
「無理だ」
聞こえてきた声に、痛みが滲む。
「じゃあ、あなたは俺の加護を踏める?」
「……」
「殺してほしい──って、俺がそう頼んだら、できる?」
「できない」
リネーネは即答していた。
選ぼうとしても、選べない。
何一つ昔と変わらない。
エミリアが笑う。
「俺もだよ」
まるで近くにいるように、その声がリネーネを抱きしめた。
深く抱きとめられるような愛おしさが、耳に触れる。
「俺も、あなたが死ぬのは見たくない。絶対に。だからあなたが嫌でも、望んでいなくても、あなたが生きるために加護を集める。それが俺達がバラバラになった原因だとしても。俺はやめない」
切実に、ただ愛を伝える声だった。
「あなたは加護を身体に集めなければ死んでしまう。なら、俺は誰からも命を奪ってくる。どこまでも、あなたのために」




