21. コーファ港
背にはアルゼ山の雄大な気配を、眼下には王都ウシュラリエを眺めながら通り過ぎる。
一瞬見えた王都は、華やかさよりも粛々とした空気が流れているようだった。
堅牢であり、実直。
遠くからでも目につく「受護協会」の建物も相変わらず真っ白で、両手を広げるような寛容な姿勢を崩してはいなかった。加護を授かった者は逃げ込むようにそこに向かう。そこに慈悲と救いがあるからだろうが、リネーネにとっては違った。
愛する者に出会えた場所ではあったが、今となっては、それを殺せなかった恩讐の場所でしかない。
何も知らぬはずのルースは、協会に気取られないよう、遥か上空を跳ぶ。
金の粒子に縁取られた景色が溶ける。
木々も、小さな村々も、細い川も、鳥も、まるで生を駆け抜けるように原型を崩して流れていく。
その奥では、揺らぎある青が大きく広がっていた。
蒼き港、コーファ港。
地平線には午後の日差がきらめき、船が行き交っている。その活気ある港町の気配の上を通り過ぎ、細く突き出した岬の灯台のそばに、ルースは丁寧に着地した。
海の向こうからゴッと吹く潮風に、リネーネは目を細める。その横顔を、ルースは落ち着いた笑みで見つめた。
「きれいな景色ですね」
「……そうだな」
「でも、僕はディア湖の景色のほうが好きです」
「お前ね……」
「リネーネ様と会えた場所なので」
「言うと思ってたよ」
呆れたリネーネに、ルースは嬉しそうに髪を押さえる。
「嬉しいです」
「なにが」
「僕のことを受け入れてくださっているところが」
「お前はとんでもなく前向きだね」
「だめですか?」
「いいと思うよ」
適当に返しながら、海を見つめる。
ゆら、ゆら、と大きく動く波は、まるで胎動のようだった。
「生きてるみたいですね」
ルースがぼんやりと言う。
「あまりにも大きいと、どこを見ていいのかわからなくなりそうです」
その言葉は、なぜかリネーネを揺らした。
広大な海に、その向こうまで続いていることを予感させる空。どこまでも大きい。どこまでも広い。どこまでも高く、どこまでも深い。
何を見て、自分の座標を決めるのだろう。
何を感じて、自分の意思を固めるのだろう。
どれだけ自問しても、リネーネはただ一人を思い浮かべてしまう。あまりにも大きなこの世界で、リネーネが見ているのは一つだった。
それでも、隣で美しい金の髪が潮風に煽られれば、目を奪われる。
美しく慈しみに満ちた横顔は、健全な愛に満ちていた。
健やかであってほしい。
心からそう思う。
「ルース」
前を見たまま、リネーネは呟く。
「エミリアが来たら、離れていてほしい」
「……なぜです?」
「危ないからだよ」
「だったら」
「ルース。お前、エミリアのことをどこまで知ってる?」
リネーネが隣を見上げれば、ルースは口を噤んだ。
エミリアについての話題は一切話したくないのだろう。そういう意地のようなものをひしひしと感じる。
それでも、念を押しておかなければならなかった。
「日が沈む間際に、あいつは来る。決して近づかないと、約束してくれ」
「……どうやって止めるんです?」
「私のできることをするだけだよ」
淀みなく答えられただろうか。
リネーネは自分の顔に笑顔が浮かんでいることを願う。
できることなら、ルースを安心させられるような顔であるといい。
「だから私が戻るまで、安心して待っていてほしい」
「いやです」
シンプルな拒絶に、リネーネは隣を見上げた。
海から視線をそらすことなく、ルースはきっぱりと続ける。
「できません。リネーネ様が危なくなったら、絶対に駆けつけます」
「ルー」
「……」
「いやです」
「──〝危なくなったら〟だな?」
リネーネがにやりと笑って確認すれば、無言で「不本意ですけど」と書いた横顔が、小さく頷いた。
「わかったよ、それで十分だ。ありがと──」
「では、手を出すことは許してくださる──ってことですよね?」
やり返されたリネーネが思わず睨めば、にっこりと眩しい笑みが返された。
「ですよね?」
「……お前、聞いておいて引く気はないだろう?」
「リネーネ様と同じですよ」
「私はそんなふうに育てた覚えはないぞ」
「リネーネ様に育てられた覚えはありません」
ルースはなぜか楽しそうに笑うと、自分の胸にそっと手をおいた。
「僕は子どもじゃありません」
「……知ってるよ、二十歳を過ぎたんだろう」
「そうじゃないですよ、リネーネ様」
胸に手をおいたまま、ルースは恭しく礼をした。
まるで、淑女に挨拶するように、微笑みかける。
「僕は、あなたの子どもじゃありません。そういう意味ですよ──他人の、ただの男なんです」




