20. クェンロ
パトリシアの館を出てきてから、ルースは何も言わずにリネーネの後ろをついてきていた。
森の中は湿った静けさに満ち、けれど朝露でキラキラと輝いている。
ふと、リネーネはクェンロで襲撃されたときのことを思い出した。
まだ、ルースが加護の制御が難しかった頃だ。
受護協会から、ある者の様子を見てきてほしい、と要請があった。
どうやら定期連絡がこなくなったらしく「おそらく死者となっていると思われる」という緊急性の高いものだったが、いかんせん遠かった。ルースはまだ長距離を移動することは難しく、休み休み移動していたが、距離が縮まらないことに焦ったルースが無理をして途中で落ちたのが、クェンロだったのだ。
リネーネ様だ、ルース様だ、と歓待された翌朝、村人たちに部屋になだれ込まれ、拘束され、広場へと引きずり出されるとも知らずに。
──この愚か者どもをエミリア様に捧げます。エミリア様! エミリア様!
そう叫ばれる。
クェンロの村にどんな信仰が根付いていたのかはわからない。
しかし、彼らは「死神リネーネ」と「女神エミリア」というどこからか流れた噂を信じ切っていた。
リネーネは生者を助けず死者を追い詰め、エミリアは加護に苦しむ者に苦痛のない安寧を与える──その慈悲深いエミリアは、死者をも貪るリネーネの死を望んでいる、と。
頭を蹴られたリネーネは、上から罵声を浴び、踏みつけられながらも「ああ。何も間違っちゃいない」と思えた。
縛られていたのもあるが、動く気すらしなかった。
そのせいで、ルースの変化に気づくのが遅れてしまったのだけは、今も悔やまれる。
あ、と誰かが叫び声を上げた。
次いで、踏みつけられていた重みがなくなる。
リネーネが周囲の異様な静けさに顔を上げれば、リネーネと同じ場所に傷が滲み出すルースが、わなわなと震えながら涙を流していた。彼の周りには金のさざなみが漂い──今にも爆発しそうなほどに膨れ上がっていた。
離れろ。
リネーネはそう叫んでいた。
ルースにではない。周囲の村人たちに、そう言った。
ルースが縄をさざなみで切り、リネーネを抱きしめるように抱えてその場から離脱するまで、たった数秒。
数人の男が血を流しながら倒れているのを見たリネーネは、ルースを抱きしめ返した。
謝り続ける少年を、ただ何も言わずに受け止めた。
その後からだ。
ルースは、リネーネのそばを離れない。
「リネーネ様」
こうして、話しかけるタイミングもよくわかっている。
ルースは横に並ぶと、あたたかな笑みでリネーネの顔を覗き込んできた。
「雨、上がりましたね」
「そうだね」
視線を合わせ、互いを労る。
リネーネは思う。
きっと、青年の恋人は今もまだ絶望のさなかにあるだろう。
けれど、彼女を思うことすら、リネーネには許されない気がした。
ルースもまた、それを理解して日常に戻ろうとしてくれている。
あの日、クェンロから逃げた先で、二人で歩いたときのように。
「ねえ、ルース」
「? はい」
「私は、お前のせいで死にかけたなんて思ったことはないよ」
ルースは驚いたように目を見開き、一瞬動きを止めた。
癖のようなものだ。
触れられたくないときの──触れられるのが怖いときの、ルースの癖。
リネーネは、安心させるように目を細め、続けた。
「クェンロでのこと」
「は、い」
「あれはどう考えても、死にかけてはない」
リネーネが言えば、ルースは納得していないように眉をひそめる。けれど、それを口にはしなかった。
「気にさせて悪かった。話さないのも少し問題だな」
「いえ、そんなことはないです」
ルースはゆるく否定する。
「僕は──実家にいたときは、何でも言葉にしてきたんです。それが相手に伝わる方法だって、そう思ってきました。言わないともったいないじゃないですか? でも……リネーネ様といるようになって、ただ想うことでも伝わるんだって、そう気づいたんです。少し目を見るだけでも、救われるものがあるな、って」
ルースがリネーネの目を見つめる。
ほらね、と言わんばかりに、嬉しそうにその目がやわらいだ。
「僕が、ずっとクェンロのことを後悔していたのは、僕の問題です。リネーネ様が、あれを〝思い出の一つだ〟と言ってくださって、あっさり消えちゃいましたけどね」
「では、話すのも大事だな?」
リネーネがからかうように言うと、ルースは「そういうときもありますね」と苦笑した。
そっとリネーネの腰に手を添えながら言う。
「すべてを話す必要は、ないと思います。ただ、話せるときに、話したらいいんじゃないかと。僕はずっとリネーネ様のおそばにいるので、いつだって話せますよ」
それは健全であるのに、どこか背徳的な響すらあった。
何でも許す、と。
あなたを許す、と、そう伝えていることを全く自覚していないのだろう。
リネーネは呆れたように笑った。
「お前、私を甘やかしすぎだよ」
「そうですか?」
「そうだ」
「僕のほうが甘やかされていますけどね……こんなに可愛くて優しい人が僕に笑ってくれるなんて、今でも信じられませんし……」
「……お前の幼少期が惚れっぽかった、というのが今理解できた気がするよ」
跳ぼうとしていたルースが、がくりと前のめりになる。
「な、なんですかそれ」
「いや、なんでもない」
「何を聞いたんです?!」
「なんでもないって」
「違いますよ?!」
何が「違う」のか全く説明しないまま、ルースは目を泳がせたあと「とにかく行きましょうか!」と元気に仕切り直して、軽々と跳んだのだった。




