19. 支え
「謝罪と訂正を」
ルースの冷徹な声が、響く。
リネーネは振り向くことはなかったが、ひらりと手を振って「やめろ」と合図をした。
顔や腕に針を通したように小さな穴だらけになった青年は、内側から崩壊される苦痛を感じているのか、慄いたようにルースの光の粒を凝視する。
しかし、ルースの理性は飛んでいるわけではないらしい。渋々とだが、リネーネの合図に大人しく従った。しかし、さざなみは未だに身体付近でふよふよと漂っている。
「リネーネ様に謝罪を。死神だと言ったことも、訂正してください」
「……ひ、」
息を吸い込む喉のしまった音だけが、彼から出てくる。
「聞こえませんか? なら──」
「ルース。そこを動くな、と言っただろう」
「……すみません」
ルースの声が、ほんの少し落ち着くのを感じたリネーネは、青年を見上げた。
「悪いね。あの子は、どうも私に関して沸点が低くて」
「……」
「お前の言うように、私がいなければお前たちはもっと自由に過ごせただろう。自由に心を羽ばたかせ──世界に反作用をもたらす。お前は、それに耐えられただろうか」
「……」
「いや、仮定の話は無意味だね。確かにお前は選ばれた。気まぐれな誰かに、加護を与えられた。お前の命は、それに握られたんだよ。もうすぐ心まで握られる。お前の望み通り、自由になれそうか?」
「……」
「大人しく眠りなさい」
薄橙と紫の混じる朝焼け色の光が、天井に反射する。
リネーネの光が加護を絡めとるその光景に、青年は落胆したように──そして観念したように目を閉じた。
その目から涙のようなものが流れる。
彼女の名前をつぶやこうとして、出てこなかったのだろう。歯を食いしばった青年は、そのまま薄っすらと消えていった。
彼に与えられていた加護は粒子となり、リネーネが描いた菱形の中に吸い込まれていく。
──もう耐えられない。
そんな青年の声が、リネーネに巻き付く。
──彼女と一緒にいたいのに。加護なんてなければ、一緒になれたのに。いつか彼女は自分を忘れてしまうだろう。会いに来てもくれなくなるだろう。怖い。彼女をどうにかしてでも自分の側に置きたいという衝動が加護に掴まれたら、どうなるのだろう。喜ぶ自分が怖い。もう耐えられない。本当に自分は生きているのだろうか。たった二年で耐えられないと言い出すなんて。もしかしたら、死んでいるのかもしれない。そうだ。それを確かめなければ。確かめるだけだ。ただ、確かめるだけ。そうしたら、彼女に会いに行こう。
瞬間、足元がふわりと浮いた感覚がして、リネーネは浅い息を吐いた。
後ろから駆けつけてくるルースの足音に、安堵がこみ上げる。
「大丈夫ですか?」
そっと後ろから肩を支えたルースは、リネーネが頷くのを見るとすぐに屈んだ。
靴を履くのだと思って裾を持ち上げると、ルースは袖でリネーネの足を拭った。
「……お前の袖が汚れるよ」
「止められなくて、すみません」
「ガッツリ仕返しをしていたが?」
「それも、すみません。勝手をしました」
「いいよ。おかげで他の者達を怖がらせずに済んだ」
この中にいる、加護を持つ他の者たちを。
彼らが恐れるのは、死という解放に負けてしまった仲間の姿に自分を重ねてしまうことだった。
その隣で、彼らのパートナーもまた、愛する人を失う恐怖に蝕まれる。
「ありがとう、ルー」
リネーネがわざと軽やかに言えば、後悔に押しつぶされそうな顔をしたルースは、少しばかり力を抜いて靴をそっと置いた。
靴を履くと、後ろから階段を駆け下りてくる音がする。
パトリシアだろう、と振り向いたリネーネに突進してきたのは、見知らぬ女だった。リネーネの胸を拳で叩く。
「ひどい!」
彼女の叫び声に、空気が凍りつく。
「この、人殺し!!」
「!」
パッと弾かれたように立ち上がったルースが間に入ろうと腕を伸ばしたが、リネーネはその腕を拒んだ。
呆然としていたパトリシアも走ってくるが、その姿がやけにゆっくりと見える。
リネーネは、自分を殴るように叩く彼女の咽び泣く声を、ただ聞いていた。
「あの人はまだ生きてた!!」
いいや。死んでいた。
「返して!」
もう返せない。
「少しでも一緒にいたかっただけじゃない! どうしてそれも許してくれないの?!」
「……」
「なにか言ったらどうなのよ!!」
「やめなさい、カレン!」
パトリシアが後ろから引き剥がすと、彼女は声を上げて泣き出し、床に小さく丸まった。
身体を揺らしながら「いやだ」と「会いたい」を繰り返す。青年の名前を泣き呼ぶ彼女を見ても「きっと、何を言っても傷つけるだけだろう」としか思えない自分の薄情さに、リネーネは嫌気が差した。
捨ててきたのだ。
いくつもいくつも捨ててきて、彼女を孤独の地獄に突き落としたのが自分であるにもかかわらず、彼女に手を差し伸べるすべも見つからない。
見つける気も、ないのかもしれない。
支えを失った彼女に、支えのある自分が何を言うのだろう。
「パトリシア」
床にうずくまる彼女の背を撫でるパトリシアの悲痛そうな表情に、リネーネは小さく微笑んだ。
「こんな形で出て行って、すまない」
パトリシアは大きく首を横に振ったが、リネーネの真意を汲み取ったように一度深く頷いた。
淑女の、美しい礼だった。




