18. 死神
朝の気配に、意識がゆっくりと浮上する。
リネーネは、近くで聞こえる静かな寝息に、薄っすらと目を開けた。
窓から入り込む朝日に照らされて、ルースの細く柔らかい金の髪がきらきらと輝いている。雨上がりの麦のような、誰も触れられないような神々しさだった。
距離がやや近いことと、自分のブランケットまでリネーネに掛けていることにひと言物申したくなるが、それを黙らせるほどの美しさだった。
でも、やっぱり似てはいない。
そんな考えが過ぎり、リネーネは苦笑した。
今まで比べたことはない。
けれど、こうして横たわる姿を見て、つい思い出してしまった。
床の上でたわむ長い髪。
目を覚ました瞬間の、ぼんやりした笑み。
ああ、どうしようもない。
記憶の面影がルースと重ならぬように目を閉じたリネーネは、そのままゆっくりとその残像をなぞろうとした。
が、突如聞こえてきた扉を叩くノックの音がそれを許さない。
そのどこか緊迫感のある音に、一番に反応したのはルースだった。
跳ねるように起き上がり、すぐにリネーネの盾となるように身を低くする。
「……大丈夫だよ、ルー」
「!」
「ここはパトリシアの館だ。クェンロではない。襲撃じゃないよ」
リネーネはその警戒心に強張る背中をとんとんと叩き、起き上がった。
ブランケットをルースの肩にそっと掛ける。
「……あ……すみません」
「いや。あれは私も忘れられない。ひどい朝だった」
「……なぜ笑って言えるんです? 僕のせいで死にかけたんですよ」
「お前との思い出の一つだからね──どうした、パトリシア」
リネーネが扉に向かって声を張ると、ルースはすぐに立ち、リネーネに手を差し出して優しく立ち上がらせた。
扉が控えめに開くと、真っ青な顔をしたパトリシアが、リネーネを見た。
「……様子が怪しい者が」
「案内を」
短く告げると、パトリシアは頷いてリネーネとルースの前を歩いた。
その足取りは震え、悲しみ、そして予感への恐怖に揺れている。
「どんな様子だ?」
「今、来られた方で……お相手の方は先にこちらで待っていたのですが、彼はいつも無表情だというのに、とても幸せそうで」
「……足止めは」
「していますが、ここは女しかおらず」
「相手には部屋から出てこないように言ってあるか?」
「ええ」
それでも、時間の問題だ、とリネーネは思う。
そこに「おーい」というやけに場違いな明るい声が階下から聞こえてきた。
階段を降りると、玄関で足止めをされた若者の青年が、雨に濡れた格好でにこにこと笑っている。
それを止めようとする侍女を、表情に見合わぬ激しい力で突き飛ばす。
「!」
パトリシアが急いで駆け下りようとするのを、リネーネは止めた。
「ルース」
「はい」
ルースはパトリシアをすぐに背後に隠すと、すぐに青年の足元を金のさざなみで囲った。小さかった影が、引きずり出されるように歪に広がる。
金のさざなみがいつにも増して大きいのは、動きを完璧に止めるためだろう。
「いい判断だ。お前もそこから動くなよ」
「リネーネ様」
「わかってる。無理はしな──」
「靴はここへ置いていってください」
「……」
「靴を」
この状況でも言うのか、とリネーネが見上げると、当然とばかりに顔に書いたルースは頷いた。
リネーネはなんとも言えない気持ちのまま靴を脱ぎ、仕切り直すように一度咳払いをしてから青年のもとへ向かった。
突き飛ばされ、怯えきった侍女をそっと立たせ、逃げるように目配せをする。
そうして、ルースによって引き出された影をそっと踏んだ。
燃えるように熱い影だった。
リネーネは青年を見上げるが、彼には全くリネーネが見えていない。
希望に満ちた顔で、階段の上を見ている。
相手が来ると思っているのだろう。
呼び続ける声が、館の中に響く。
リネーネはそっと裾をつまみ、左足のつま先で小さな菱形を描いた。
静かな目で、青年を諌める。
「彼女を呼ぶのをやめなさい」
影から加護が顔を出す。光が。愛だとのたまって、身勝手に人生を覆い尽くす光が。
リネーネの声が届いたのか、青年は不思議そうな顔でリネーネを見下ろした。
「おやぁ……リネーネ様の肖像画にそっくりだ。どなたです? 俺になにか?」
「お前は死んだんだよ」
リネーネは端的に伝えた。
「死んだんだ。覚えは?」
「ないです」
晴れやかに笑ったその顔で、わかる。
「自死したか」
「え? してませんよー!」
「ここに来る直前だな?」
「してませんって!」
「耐えられなかったか。相手をどうするつもりだ?」
「……」
リネーネの問いに、男の笑った顔が凍りつく。
そしてそのまま「えー?」ととぼけた低い声を出した。
「いいんですか? 聞いても。衝動が溢れ出しちゃうかもしれないですよ?」
「できると思うか?」
リネーネが笑うと、青年はぎこちなく目を動かして、自分の足元を見る。
「……はは。あー、踏まれちゃってたかあ」
「とっくにな」
「最悪だ。身体も全く動かない」
青年は顔を歪めた。
「……あんたがいなければ、加護持ちはみんな自由になれるのに。そうすれば、我慢して我慢して我慢して、加護を使わないよう怯えずに済む。好きなだけ使える──そうだよ、俺達は選ばれたんだ! 加護を、授けられたんだぞ!!」
ああ。早い。
自我が崩壊するのが、ずいぶん早い。
影から確実に加護を切り離しているが、その間にも彼の精神は削れていた。
リネーネの左足の輪が周り、薄紫色の光が漏れ出す。
それでも、まるでしがみつくように、青年はどれだけ自分が特別かを叫ぶ。
それだけを。
そればかりを。
恋人の名前はもう、忘れてしまったのかもしれない。
「お前が何もかも悪いんだよ! 死ねよ、死神!!」
無表情のリネーネに苛立ったように、暴言を吐く。リネーネは先にルースを止めようとしたが、遅かった。
青年がリネーネに唾を吐いたのだ。
足にそれがついた次の瞬間、青年の身体に無数の小さな穴があいた。
金のさざなみが影からさらに這い上がって身体にまとわりつき──青年の細胞を消滅させはじめたのだ。




