17. 矛盾
部屋の中で一人、リネーネはちらりと大きな窓の外を見た。
夜の中で窓に打ち付ける激しい雨は、明日に何が起こるのかを訴えてくるようでもある。
片付けに行った二人は、しばらく戻ってこないだろう。
リネーネは、暖炉の前で目を閉じ、夜の静かな気配を吸い込んだ。
不思議と、一人きりになると無音のように感じる。
暖炉の火の気配も、雨音も、遠ざかっていく。
「……明日、か」
リネーネは呟く。
明日。
明日、エミリアが集めた加護が解放される。
そう思うと、頭の中にパトリシアの声が戻ってきた。
──遠い昔にあなた方の身に起こったことは、悲劇であったと思います。誰にもどうもできなかった。そうでしょう?
リネーネは答えられなかった。
今までの「ルース」にあの出来事がどう伝わっているのかはわからない。長い時間をかけて歪んでいるのかもしれないが、あれは確実にどうにかできたことだった。
ただ、自分が甘くなければ。
あのとき躊躇うことなく、殺していれば。
そうすれば「ルース」という存在は生まれなかっただろう。
しかし、どうしても殺すことができなかった。
逃がしたかった。
生きていてほしかった。
だというのに「行かないで」と強く想ってしまった。
すべての根源は自分にある。
リネーネはそれをわかっていても、もう一度戻っても同じことをしただろう、と思う。
これまでの長い時間は、リネーネからたくさんのものを取り上げてきた。罪悪感も、自分への憎悪も、権威への嫌悪も、死への恐怖も、悲しみも。
だというのに、愛だけが枯れない。
たった一人へ向けた愛だけが、あの頃のままに胸の中で輝く。
ひどい矛盾だった。
リネーネは思う。
ルースが、まだ戻ってこなければいい。
パトリシアとの昔話に花が咲いて、二人で楽しそうに話してくれているといい。
その間に眠ってしまえば──
「リネーネ様、ただいま戻りました」
リネーネの願いも虚しく、ルースはあっという間に戻ってきてしまった。
座っていたリネーネが眠ったフリをする間もなく、とことことやってきて隣りに座り、持ってきたブランケットを膝にそっとかける。
「……早いな」
「そうですか?」
「積もる話があったんじゃないか」
「ないですよ」
くしゃりと笑うその顔は、どこか充足感に溢れていた。
「少し話して、笑って、一緒にいたら……なんかもう、それだけでよかったんだ、って思い出して」
「そうか」
「来てよかったです」
じゃないと、ずっと避けていた。
そうルースが言うのを、リネーネはごろりと寝転がりながら聞く。
「そうか」
「疲れましたか?」
「ん? いいや」
「さっきから〝そうか〟ばかりですよ」
くすくすと笑うルースは、リネーネの膝から落ちたブランケットを掛け直した。
距離が縮まり、ルースの声は少し小さくなる。
「本当は、雨に降られてすみません、って言いたいんですけど……でも、こうして再会できたことが嬉しくて、謝れそうにありません」
「いいよ」
リネーネは手を伸ばし、とんとんと頬を指先で撫でる。
昔から、彼が元気がないときにしてきたことだった。久しぶりにしたな、と気づいたのは、ルースの目がまん丸く開いているからだ。
「……子どもじゃ、ありませんよ」
「だな。すまない。それで? 一日早く出発した目的は?」
すぐに会話の流れを変えれば、ルースは縮まっていた距離を戻し、片膝を立てて座って暖炉の火を見つめた。穏やかな目だった。
「コーファの港街は、一年に一度、この陽の季節の満月の前日に、家々の前で火を灯すんだそうです。それがとてもきれいだって、親切な女性に教えてもらったんですよ」
「……」
「街を歩くのも、少し高い場所から見るのも、すごく幻想的だって聞いたものですから、リネーネ様と行って……みたいなあ……と……」
語尾が段々と怪しくなってくる。
どうやら、ようやくそれが女性からのアプローチであったことに気づいたのだろう。気まずそうにルースは「ああ……」と顔を手で覆った。
「なるほどなあ。お前は張り切って、私と行ってくる、と返事をした、と」
「僕って鈍感ですか?」
「いや、嗅覚はすごいと思うよ」
リネーネは即答する。
ルースは「そういうことじゃないんです」と言わんばかりに顔を上げたが、無邪気に傷つけてしまったことを後悔するように重々しいため息を吐いた。
「ルース」
「……はい」
「この雨ではどうせ見れまいよ。また次を楽しみにすればいい」
「来年、ですか? リネーネ様と?」
「いや」
「ぜひ行きましょう」
「まだ何も言っていないが?」
「約束ですよ。嬉しいなあ」
ルースがにこっと笑う。
未来の妻と行けばいい、と言いかけたリネーネを完全に封じたルースは、それでも「今年もリネーネ様と見たかったです」としっかりと自己主張するのも忘れない。
「リネーネ様は見たことがありますか?」
「どうだったかな」
リネーネは曖昧に答える。
覚えていないのだから、見たことはないのだろう。
見ていても、感動できなかっただけかもしれないが。
「火は火だ。その暖炉の火だって、同じだよ」
リネーネは眠気を受け入れ、目を閉じる。
まぶたの向こうで、ルースが微笑む気配がした。
「……うん。すごく、綺麗な火ですね」
その愛おしそうな呟きに、リネーネはゆったりと答える。
「そうだね」
見えていなくとも、そう答えたかった。
ルースの目が見る光景は、いつも美しいものであってほしい。
そう思うのだ。




