16. 優しき日々
「……なに、してるんですか?」
部屋に戻ってきたルースが、呆然と呟く。
その様子を見たパトリシアは、さらにぎゅっとリネーネを抱きしめ、ゆらゆらと揺らしてみせた。
「いいでしょう?」
と、ルースをからかうように言うが、きっとリネーネがほんの少し見せた本音が漏れないよう、隠してくれているのだろう。
リネーネはその気遣いに感謝するように、彼女の背をそっと撫でた。
「ありがとう、パトリシア」
「愛しておりますもの」
「──あの!」
ドアを閉めたルースは、ティーセットを持ったまま音を立てることなく暖炉の前までスタスタと歩いてくる。
それはもう、すごい速さで。
「あのっ、なにしてるんですかっ」
「あらあら。なぜ拗ねるのかしら? ただの愛情表現よ。あなたともたくさんしたじゃないの。いつも〝姉さま、ぎゅー、して!〟ってねだってきたじゃないの……いやね、覚えてないの?」
「リネーネ様、真に受けないでください! 小さい頃の話ですからね?! 本当に、五歳とか、それくらいの頃で」
「ふ」
リネーネが笑って身体を離すと、二人の間にぐっとルースが割り込む。
座る場所を譲ってやったパトリシアは、「いじめすぎたかしら」と言わんばかりにリネーネを見ようとするが、それすらもむすっとしたルースに阻まれた。
「僕がお茶を入れます」
「……まあ……ありがとう?」
「リネーネ様は、特に女性に甘いんです。いつも、お優しいんです」
牽制されたパトリシアは、ルースの背中からひょいと顔を出してリネーネに尋ねる。
「そうなのですか? 男性はお嫌いで?」
「私は相手の性別など気にしたことはないよ」
リネーネが答えると、ルースは驚いたようにリネーネを見た。
「そ、そうなんですか?!」
「そうだが?」
「……じゃあ、僕ともしましょう。ほら、どうぞ。できますよね?」
「どうしてそうなった?」
リネーネの確認に「だって」と言い出したルースは、パトリシアが口元を隠してにやついていることにようやく気づいたらしい。ハッとしたように真っ赤になりながら、開いていた腕を閉じ、もごもごと口ごもる。
「き、聞かなかったことにしてください、姉さま──あぁ……いえ……パトリシア、様」
「昔のように姉さまと呼んでいいのよ。ええ、ぜひそうしなさいな!」
「……忘れてください……」
「いやよ。うれしいのに」
リネーネは、身を小さくするルースの姿を新鮮な気持ちで見つめながら、ティーポットを持ってカップに傾けた。
ほのかに香る蒸気が、暖炉の火を受けて揺らめく。
三つ並んだカップに、ルースのパトリシアへの気持ちが広がっているようで、なんとも言えず嬉しくなる。
「あ、すみません、リネーネ様」
「いいよ。お前は少しパトリシアに甘えなさい」
「それは素敵な提案ですわね!」
「結構です」
ルースが拗ねたように言う。
パトリシアは無理強いすることなく、穏やかな表情でカップを手にした。
「本当に、大きくなるのは早いわね。あっという間。この前まで、こーんなに小さかったのに」
「小さくないです」
「初めて会ったときは、なんて可愛いのって、すっごく感動したわ。いつかお姉様って呼んでほしいって」
「……すぐ呼ばされた覚えがあるんですが」
「そうだったかしら?」
二人が過ごした愛おしい年月が滲む会話に、リネーネは黙って耳を傾ける。
優しい日々だったのだ、と思う。
ルースの日々も、パトリシアの日々も、ランスの日々も。
きっと、グアルディ家にとっても。
「でも……あなたに怖い思いをさせたこと、わたしずっと気がかりで」
「え?」
「ほら。わたしが加護を授かったとき、一緒にいたでしょう?」
一瞬、ルースの反応が遅れる。
その記憶の中で、パトリシアが加護を授かったところが流れているのだろうか。
リネーネは思う。
ああ、そばにいてやれたらよかった。
全身から光を放ち、まるで人をやめたように微笑む者を見たときの──あのなんとも言えない恐ろしさを間近で見たというのなら、きっと少年であったルースには強烈な体験になってしまったことだろう。
目を塞いでやりたい。
何も知らぬまま健やかに過ごして「ルース」という名前を受け継ぐことなく、彼本来の名前で生きてくれたら──そんな馬鹿馬鹿しい感傷に、リネーネは揺れた。
自分がこうして「ルース」にしたというのに。
「だからね」
パトリシアが、深く抱きとめるように、ルースへ向けて言う。
「だから、あなたが元気な姿を見ることができて、嬉しいわ」
「……はい」
「きっとリネーネ様のおかげね」
「はい。それはもう」
その即答に、パトリシアが嬉しそうに笑ってリネーネをちらりと見た。
どこまでも優しい人だ。
ルースも、ようやく気持ちが落ち着いたように声が穏やかになる。
「お変わりないようで、僕も嬉しいです」
「ありがとう」
「兄も、変わりないです」
ルースがやや緊張しているのを感じ取ったように、パトリシアはころころと笑った。
「ありがとう。よく似てるわね」
「えっ」
「情の深いところ。あと、声も似てるわ」
「そうですかね……?」
「顔は似てないわよ? お兄様のほうがキリっとしてるもの」
「それは……よく言われます。って、昔から知ってるじゃないですか」
「ふふ!」
朗らかな笑い声の隙間に、パチ、パチ、と暖炉の火が爆ぜる。
外の雨音も、二人の呼吸のかすかな音も、リネーネのやんわりと心を包む。
リネーネは温かいお茶を一口飲むと、炎の揺らぎを見つめた。
揺れて、寄り添って、また離れる。
その不規則な動きは、まるで感情のようだった。




