15. 親愛と感謝と
パトリシアは、ゆっくりと身体の力を抜き、リネーネから離れた。恥じらうように華奢な手で顔を覆う。
「……す、すみません……」
「気にすることはないよ。突然訪ねて、怖がらせたね」
「! いいえ!」
パトリシアがはっきりと否定する。
そして、苦しむように俯いた。
「あの……知らぬ間に死者となるかもしれない、という不安から目をそらしていることを、思い出して……」
「そうか」
「ですから……つい、甘えてしまいました……」
「いいよ」
パトリシアのわずかに赤い目を、リネーネは人差し指をそっと拭う。
リネーネが穏やかに笑いかけると、パトリシアは顔を赤くしながらまた離れて「あら、これは大変だわ」と呟きながら髪を整えた。
可愛らしい仕草にまたリネーネが笑うと、今度はリネーネの腕を嗜めるようにぺしっと叩く。
「リネーネ様っ、そのようにからかわないでくださいませ」
「からかっているつもりはないよ。ただ、パトリシアがかわいいな、と」
「まあ!」
パトリシアは大仰に驚きながら、今度はぐいっと近くに寄ってきた。
「まさかとは思いますが、あの子にもその調子で?」
「……ルース?」
「そうです」
真面目に頷かれ、リネーネはやや遅れて頷き返す。
「特に、誰かへの態度だけを変えることはないが」
「まあ! まあまあまあ!」
「なんだ」
「それは、大変でございます」
「なにがだ」
「あの子が!」
パトリシアは「話を聞いてあげなければっ」と両手を握ると、リネーネを見て今度は大きく頷いた。
「手加減してあげてくださいませ」
「……何を言っているの?」
「あの子は愛すことには慣れていますが、愛されることには慣れていないところがあります」
「そうか」
「聞いていませんね?」
聞いていないのではなく、なにか遅い気がする。
リネーネはぽんぽんとパトリシアの背を叩いてなだめるが、なぜか恨めしげに見上げられた。
「そういうところですからね」
「……なるほど、やめよう」
「わたしにはいいのです」
どうぞ、と言われ、リネーネはまたパトリシアの背を叩く。
「それで? この屋敷は王都からは目をつけられてはいないのか?」
友人に会いたい、という思いもあったが、リネーネにはもう一つ確かめなくてはならないこともあった。
パトリシアは承知しているように、この館の主人の目でリネーネを見た。
強く、しなやかで、折れない瞳だった。
「ええ、今のところは。ここはわたしがひとりで引きこもっている場所であると周知されていますし」
「客人から漏れるおそれは?」
「ありません。滞在する方の中には王城に務めている方もいらっしゃいます。もしも危ないときは、教えてくださるかと」
「……なら、安心だ」
リネーネはほっと息をついた。
グアルディ家を追い出されたパトリシアは、人目を避けるように鬱蒼とした森の館に逃げ込んだ──と言われているが、実際は少し違う。
ここを「会えない者たちが、会える場所」として提供しているのだ。主に、「加護を持つ」者と、恋人であった者たちが、ほんの少しでも会えるために。
彼女は彼らの精神的な拠り所となっている。
それだけではなく、様子が妙な者がいれば、リネーネへの報告もしてくれていた。
「最近は?」
「いえ。皆さんお変わりなく」
「そう。よかった」
「ここに来る者たちも安堵していますよ。自分の様子がおかしかったら、必ずリネーネ様がすぐに来てくれる、と。それがわたしたちにとってどれほど安心するか──エミリアの存在も、ありますからね」
パトリシアが出した名前を、リネーネはただ静かに聞いた。
そして、内心安堵する。
この館の存在はエミリアにも伝わってはいないらしい。ならば、今のところ加護を持つ者にとっては一番安全な場所になりうる。
「あの、リネーネ様」
「ん?」
「……わたしは、あの子の兄から詳しいことを……その」
「私とエミリアのことを、知っているんだね」
リネーネが引き継ぐように言うと、パトリシアは静かに頷いた。
「悪いね。嫌な気持ちにさせただろう」
「いいえ」
パトリシアは凛とした表情で、きっぱりと否定する。
「遠い昔にあなた方の身に起こったことは、悲劇であったと思います。誰にもどうもできなかった。そうでしょう?」
「……」
「ただ、エミリアのしていることを肯定することは、わたしはできません。わたしは、加護を持ってしまったから。もし、わたしの目の前に来て〝加護から解放されたい?〟と問われたら、わたしは跳ね除ける自信はないのです」
「……パトリシア」
「きっと皆そうですわ。リネーネ様」
パトリシアの表情に怯えはないが、一種の覚悟のようなものがあった。
「──今でも、エミリアのことを、愛していらっしゃるのね」
「そうだね」
リネーネは即答する。
「私の気持ちは変わらない。許されないことだろうけど」
許されない。許されてはいけない。
リネーネは思う。
愛することをやめられなかった。
愛されることを、手放すことができなかった。
今も、そうだ。
「リネーネ様」
パトリシアがリネーネにそっと寄り添う。
「それでもわたしは、あなたが今この世界にいてくれることが嬉しい。あなたが生きていてくれることが、嬉しい。本当です。本当ですからね」
「……」
リネーネは何も言わず、親愛と感謝を込めて、パトリシアを抱きしめた。
パトリシアの柔らかい髪が、リネーネの後悔のようなものに軽く触れ、そして、通り過ぎていく。




