1. 同行者
リネーネはじっと待っていた。
窓が切り取った空は晴れ渡り、風も乾いている。
そっと目を閉じてみると、アルゼ山を通った風に、微かに甘い香りが混じっていることに気づいた。
シエバの花が咲いたのだろう。
時間も季節も全く気にしなくなって久しいが、リネーネはシエバの花の香りは好きだった。
花を見たことはない。
香りが届く頃には、花は全て落ちてしまっているからだ。
そこがまた、好きだった。
人知れず咲き、人知れず花を落とす。
けれどもその香りは、この高台の家まで届く。
まるで生の証明のようだ。
石を積み上げたひんやりとした家の中、リネーネは明け放たれた出窓に座って、街を見下ろしていた。
煉瓦の道に、灰色の建物、緑の屋根。パラパラと動き続ける人々が営む気配というのは、いつどの時代も変わらない。
けれど、今日はどの家の庭にも白い布がたくさんはためいていた。今夜は誰もがシエバの花の香りに包まれて、眠るのだろう。
「……」
リネーネは眼下の日常から目を離すと、まだ本を読み続ける少年の横顔を見た。
これでは日暮れまで気づないだろう。
リネーネは、窓から降りると、黒い裾をゆったりと大きく揺らして、キッチンの丸椅子で本を読み耽る少年の前に立つ。
「ルース」
夢中で文字を追う彼の青い目は、伏せられたままだ。
リネーネは壁に寄りかかり、その姿をただ見下ろす。
彼女は気が長い方ではないが、本を取り上げる選択肢はない。
このルースは、少年のような見た目をしているし、なんだったら今までの「ルース」を凌駕するほど温和で善性に満ちた男であるが、本に関しては雑に扱うのを許さなかった。三年ほど前、取り上げた本を落としてしまったとき、ルースは驚きに目を見開いて、床の本を見て、そっと拾ってシワを伸ばして──それから二日、口を開かなかった。
温厚な者を怒らせてはならない、とリネーネが長い人生の中で初めて悟った出来事だ。
曰く「えっ、別に怒ってませんよ」とのことだったらしいのだが、なぜ一切話さなかったのか聞けば「ごめんなさいを聞いていないので」と圧倒的に純粋な顔で言われてしまってからというもの、リネーネは本とルースの逆鱗には決して触れない。
リネーネはため息を吐きながら、ルースを呼ぶ。
「ルース」
やはり、反応はない。
リネーネの呼び声に反応したのは、風だけだ。
ルースの金糸のような柔らかな髪をさらさらと揺らす。
ああ、麦の海のように美しいな、と思いながら、リネーネはそっとルースの頭に手を乗せ、仕方なくたまにしか呼ばない愛称で呼んだ。
「……ルー」
「!」
パッと弾かれたように顔を上げるルースは、自分が頭を撫でられたことに気づき、顔を赤くする。
「な、なにしてるんですか、リネーネ様!」
「呼んでも呼んでも答えないお前が悪いよ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でると、頬がさらに赤く染まる。
それでも手で払うような真似をしない彼は、真っ赤な顔で睨みあげてきた。
「子ども扱いはやめてください。僕は二十歳に……」
ふと、気づいたように、ルースが窓を見た。
その向こうに広がる青空が、ルースの瞳に薄っすらと映り込む。
金色のまつげを瞬かせ、風を胸いっぱいに吸い込んだルースは、リネーネを見ると綻ぶように笑った。
「シエバの香り、ですね」
僕は二十歳を過ぎている、と怒っていたのは何だったのか、可愛らしく微笑んだルースから、リネーネは手を離す。
あまりにも眩しい彼の笑みを見るとき、触れていることが大罪のような気にさせられた。まだ自分の同行者となって四年。リネーネを心から慕うような眼差しを受けると、これの祖父である先代の「ルース」は何を吹き込んだのだろう、と思わずにはいられない。
聞くことは、ないが。
「だね。洗濯しようか」
「はい! シーツを洗って……それから、見廻りをしましょう。ディア湖を渡って、アルゼ山まで」
「遠くないか?」
「大丈夫ですよ。僕がいます」
ルースは子どものように笑い、椅子から立ち上がる。
ふと、自分よりも背が高くなっているその姿に、リネーネは感慨深くなった。先を歩く背中も、心なしか広くなったような気がする。前の「ルース」が来たのは、すでに壮年になった頃だったからか、成長期を見守るのは初めてだった。
奇妙なものだな、と考えるリネーネを知ってか知らずか、ルースは振り返る。
「リネーネ様、今日は風が強いから、ディア湖の湖面にシエバの花びらが落ちているかもしれませんよ」
「……そうかな」
未だかつて一度も見たことがないそれを、見られるとは思わない。
期待など一切ないリネーネの言葉に、ルースは幼子に言い含めるように笑った。
「今まで見ていないだけで、今日も見られない、ということにはなりません」
リネーネが頭を掻きながら「はいはい」と返すと、ルースはシエバの香りに頬を撫でられながら無垢に見つめてきた。
最初に会ったときの「ルース」はまだ十六歳。
ずっとずっと幼かった。
それでも、あの頃と変わらぬ光をまとっている姿は、リネーネにすれば灼き尽くさんばかりの眩しさを感じる。
「まあ……それが〝ルース〟の仕事だしなあ」
「? なにか言いました?」
「いいや。なんでもないよ。さ、洗うか」
リネーネはルースの背中を、ぽん、と叩く。
返ってきたのは、やはりどこまでも純粋な笑みだった。




